112話 卵の生食は危険です。…が
私はメル陛下の御前を退出すると、さっそく温度計を手に温泉へと向かった。
この温度計は、要は体温計である。だが目盛りが百まであって長いから、どちらかというとビジュアルは温度計だ。体温計はできれば目盛りを五十度くらいで終わらせて、小型化したいんだけど……目下改良を依頼中である。
私は許可を取って服を着たまま浴場に入ると、温度計を源泉の湯につけた。
「七十二度、いただきましたーッ!」
思わずガッツポーズをとると、横からドン引きしたような声が上がる。
「ちょっと、急に人が変わったようだけど大丈夫!?」
私は厨房でもらった紐付きのカゴに入れた卵たちを熱々の源泉に沈めながら、ウキウキとして答えた。
「細工は流々、あとは仕上げを御覧じろ。ですわ!」
――四半刻後。
私は小鬼族の厨房係に頼んで匙と小皿、そして少しの塩をもらうと、客間へと移動する。そして急いでテーブルに着くと、温泉から引き上げた卵を割った。
いい塩梅でぷるりとまとまった白身の中に、オレンジ色の黄身がうっすら透けている。かき分けてみると、生煮えではないしっかりとした弾力を持ちながら、輝く透明感を保った黄身が姿を表した。
このあたりの食べ物は、基本的に加熱が不可欠だ。サラダは相当気をつけないと食あたりすること請け合いで、卵の生食なんて死の覚悟が必要なレベルである。だが温泉卵であれば、低温調理だが加熱時間がしっかりあるので、充分な殺菌が可能なのだ。
味見をするとねっとりと濃厚な黄身を少しのお塩が引き立てて、まろやかな旨味が口いっぱいに広がっていく。
ああ、白米と醤油が欲しい……!!
スプーンを咥えたまま私がすっかり自分の世界にひたっていると、呆れたような声がかけられた。
「ホント、大丈夫……?」
声の主は、例のオネエ閣下である。おそらく滞在中の私の監視役を担っているらしく……治療してもらった後も、斑点病の看護指導に行ったときも、なんかずっと同行しているのだ。
もっとも単なる監視なら部下にやらせればいいだけだから、単純に、珍獣を観察しに来てるだけかもしれないけど……正直言ってご期待は裏切ってない気はしてる。
「うう、たまらないです……温泉を貸してくださって、本当にありがとうございます!」
私が手を合わせて拝むような仕草をすると、オネエ様は信じられないものを見る目で軽く眉をひそめた。
「ていうかそれ、生煮えじゃない!? 生の卵なんて食べたら後で地獄を見るわよ!?」
「それが大丈夫なのです。低温でも長く加熱することで、毒の元はすっかり死んでしまいますから」
「そういうものなの? 確かにこの卵……白身が先に固まるはずの半熟とは違って、黄身の方がしっかりと形になってるのが不思議よねぇ」
「はい。実は黄身の方が白身より固まる温度が低いので、そのちょうど中間でじっくり加熱したらこうなるのです!」
黄身がちゃんと固まっているということは、殺菌可能な温度は充分あったということだ。そのため問題なしと判断できたのである。
「なるほどねェ……。ねぇ、ひとつもらってもいいかしら?」
好奇心に負けたらしくこちらに身を乗り出すオネエ様に、私はご機嫌で答えた。
「はい! でも私の体調に変化がないか、もう少し様子見なさった方が良いのではないかと存じますが……大丈夫でしょうか?」
変なもの食べさせて万がいち外国の要人に何かあったら、国際問題になりかねない。私が心配しながら問うと、閣下は不思議そうに首をかしげた。
「まあ食あたりなら、いざとなったら解毒呪文があるでしょ。治るまでは苦しむことになるけどねェ」
「ああ、そういえばオネエ様は水術師でしたね……どうぞ」
その辺の庶民の生活用水で手を洗おうものなら、むしろ洗う前より菌が増えてしまうかも――そんなこの世界では、きれいな水が安定して手に入ることは夢のような便利機能だ。加えて解毒まであって、これらは他属性にない特有の便利スキルである。治療もできるし、本当に羨ましい属性よね……。
そんなことを考えながら新しい卵を割って差し出すと、閣下はこわごわと匙で黄身をすくい取る。そしてわずかな時間咀嚼すると、口元に添えるように手を当てて、言った。
「なにコレ……ヤバいわ!」
「気に入っていただけたようで何よりですわ!」
「これはなかなか、とろける感じが新食感でイイわ〜」
魔人の皆さんの味覚はよく分からなかったけど、出された食事や温泉卵へのリアクションを考えると、どうやら人間とほぼ同じらしい。それにしてもコレ、温泉なしでも作れたらいいんだけど。
火の法術があっても湯を一定温度で保ち続けるのはかなり難しそうだし、これまで思い出してすらなかったけど……おにい様ならできそうな気がするから、帰ったら頼んでみようかな。
「そなたら、何をわらわに隠れてコッソリ楽しんでおるのじゃ!?」
急な声に驚いて客間の入り口の方を見ると、メルツェーデス陛下が絵に描いたようなふくれっ面で室内を覗き込んでいた。
「あらメルちゃん! この卵、すっごく変わってるけど、美味しいわよォ」
「何じゃと!? なぜわらわを呼ばぬ!」
そのまま陛下は部屋に入ると、怒りながらこちらへやって来る。
「すみません、まだ実験段階だったもので……さすがに女王陛下に冒険させるのは、コワイです」
私が首をすくめつつ言うと、テーブルの横で立ち止まった陛下は、腕組みしつつ呆れたように言った。
「そんな確信の持てぬものを、よく食するな……」
「いちおう、ある程度は確信がありはしたのです。ただ陛下への献上は、人体実験の結果が出る明後日までお待ちください!」
食中毒の症状が出るまで、確かサルモネラで最長四十八時間だったかな。明後日まで待って大丈夫なら、陛下に献上しても大丈夫だろう。
「そんなに簡単に自らの身で実験するとは……ちと予防薬の件の感動が薄れるぞ……」
「あ」
私は一瞬固まってから、慌てて言い訳を口にした。
「いえあの、こっちは明らかな勝算があったからで、けっして食欲に負けた訳では……!」
「ふーん……」
ジト目でこちらを見る陛下に、私は慌てて話題を変えることにした。
「そ、そういえば用意してくださったこの衣! ご配慮賜り有難う存じます。人族の好む丈のものを、わざわざご用意いただいたのですよね」
魔人の女性の間では、人族が着るようなスリットすらないマキシ丈ドレスは、現在全く流行っていないらしい。だが私に用意されたのは、足首まであるいつもの丈のドレスだった。
「いや、気にするでない。客人が快適に過ごせることこそが重要じゃ。我らの良かれを押し付けるつもりはないからな。とはいえ、そちが着てみたいというのならば喜んで用意させようぞ」
「では……陛下のような丈の短い脚衣が着てみたいです!」
「ははは、あいわかった。用意させるから、ちと待っておれ!」
その夜に開催された女王とオネエを巻き込んだファッションショーは、結局、明け方近くまで続いたのだった。




