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「分岐点・関ヶ原」〜豊臣政権による世界進出とその結果〜  作者: 扶桑かつみ
●「第五部」第一次世界大戦(グッド・ルート)

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フェイズ30「グレート・ウォー(7)」

 同盟によるユーラシアリングの完成は、連合側にとって最も厄介な問題を生んでいた。

 

 海外貿易の途絶で息も絶え絶えで戦争をしていたドイツが、限定的ながら元気を取り戻したことだった。

 

 無論、日本がペルシャ湾から注ぎ込める物資の量は少なく限界があったが、ブリテンとインドが遮断され、日本アジアとドイツがつながったという戦略的な変化は、心理面でドイツ国民の意気を大いに上がらせた。

 しかも限定的とはいえ、物資もドイツにまで送り届けられたため(※同時期ウクライナからやシベリア鉄道での大量の物資移動があった)、物心両面でドイツ国民の士気は上がった。

 

 ドイツ国民が、日本を真の同盟国と感じるようになったのも、この時期以後とされる。

 

 また逆に、イギリスはインドまでも失ったも同然で、海外から輸入される物資が激減した。

 戦争で主要産業地帯を失ったフランスも、海外への依存度が非常に高まっていた為、大きな打撃を受けることとなった。

 

 つまり、立場が逆になったに等しいという事だった。

 


 しかも1918年3月にロシアが完全に戦争から脱落すると、1915年以来、つまり最初のドイツ軍の攻勢失敗以後の攻守が逆転した。

 加えてブリテンは、西部戦線を取るか中東つまりインドを取るかという二者択一を迫られていた。

 

 アジアの日本軍に兵力を取られ、アジアからの兵力動員と物資調達ができなくなったブリテンは、既にドイツと同様に疲弊しきっていた。

 疲弊度合いはフランスなど他の連合各国も同様であり、全てを賭けた戦いを重視するか、手足を失わない戦いを行うかの選択肢しか選べなくなっていた。

 そして連合各国は、日本がアジアで暴れた影響もあって、植民地などから物資を調達出来ず戦争継続にも大きな支障が出ており、後でもう片方との戦争を行う余裕も無かった。

 

 連合側で比較的元気なのは南部(アメリカ連合国)だが、南部は基本的に北アメリカ大陸での政治的な兵力均衡を維持しなければいけないので派兵できる兵力には限界があり、必要以上に肩入れすることも難しかった。

 元気なのも、派兵兵力が少ないのと、戦争特需に沸いているからだった。

 

 しかも同盟海軍は、再び活動を活発化させつつあった。

 

 日本が、新鋭の《金剛型》超弩級巡洋戦艦群を先頭に押し立ててアデン近くのソコトラ島を呆気なく攻略し、紅海に向けての橋頭堡を確保すると共に、インド洋の制海権を確固たるものにしようと動き始めていたからだ。

 紅海を封じられたら、もはやスエズ運河を持っていても殆ど意味は無かった。

 

 北海でもドイツ大海艦隊が再び活動を活発化させつつあり、最後の決戦が近いことを全ての人が予感していた。

 

 しかし同盟側もあまり余裕はなく、日本以外は既に戦争は限界に達しつつあった。

 日本は塹壕線を構築したり、大軍同士が激しい攻防戦を行う消耗戦型の戦闘を殆ど経験していなかったため死傷者の数も少なく、戦費も他国に比べれば随分ましだった。

 またヨーロッパの国々は、日々大量の弾薬など物資を浪費し続けているため、国家の戦争経済そのものが日増しに逼迫していた。

 

 そもそもこの大戦では、ヨーロッパの殆どの国が自国経済を完全に犠牲にして大量の武器弾薬を生産していたので、まだ未熟な経済と流通網の中では、長期間維持することそのものに大きな無理があった。

 

 特に同盟側のドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリアは、ブリテンが欧州全体を海上封鎖している状態のため他の地域から輸入することが難しく、戦費よりも物資の面で特に厳しかった。

 日本がアジアを打通したことが非常に喜ばれたのはこのためだ。

 

 だが、日本がシベリア鉄道や中東から続々と物資を送り込むようになったが、日々消費される物資の規模に対して、状況としては「ないよりはまし」という程度だった。

 

 それでも各地に元気な日本兵がやって来た事である程度士気は回復しており、特にトルコ兵、ドイツ兵の士気は大きく盛り上がっていた。

 トルコは「アジアの同胞」の来援を単純に喜んでおり、ドイツは同盟の中でほぼ唯一頼りになる戦友の来援を喜んでいた。

 厳しい戦争の現実を前に、人種差別など吹き飛んでいた。

 

 同盟側にとっての吉報は続く。

 


 1918年3月、大きなニュースが飛び込んできた。

 

 日本、トルコ合同軍が、スエズ運河の東側まで一気に進撃し、連合軍によるスエズ運河使用を事実上不可能にしたのだ。

 

 開戦以来、これまでもトルコ軍によるスエズ攻撃は何度も行われていたが、ブリテン軍の粘り強い防戦により何とか事なきを得ていた。

 しかし、インド洋での度重なる敗北、インドからの兵力抽出失敗、南アフリカ兵の独断での帰国など、様々な悪条件が重なっていった。

 このためブリテン軍はトルコ軍相手に防戦一方に追いやられ、攻勢に転じることは出来なかった。

 

 その間トルコに対するアラブの反乱、ブリテンのエージェント、いわゆる「アラビアのロレンス」の活躍でトルコ軍は妨害を受けたが、どれも決定打とはならなかった。

 アラブでは、ブリテンも自らの帝国主義的進出で相応に憎まれていたからだ。

 そこに俄に日本軍が軍団規模で登場し、トルコ軍も日本からの武器や兵站物資の大量供与を受けて大幅に強化されてしまう。

 しかも日本は、持ち込んだ様々な物資をばらまく事で住民に対する慰撫も行い、当面の安全を確保しつつ各地に兵力を進めた。

 

 また日本軍は、これまでブリテンが独占していた中東の空に飛行機を持ち込み、エジプトの空でも空中戦が行われることになった。

 日本の航空機は、ヨーロッパでのように激しい空中戦を行っていないため未熟な機材、機体がほとんどだったため、少数だったブリテンの優位で空の戦いは進んだ。

 だがそのうちドイツの航空機のような高性能機も姿を現し、戦いは連合不利へと傾いていった。

 「砂漠の鷹」などと呼ばれた日本人撃墜王が、ヨーロッパでその名を知られるようになったのもこの時期だ。

 

 しかも日本軍は、自国製と大和共和国からの輸入による自動車、自動貨車を、前線と補給路に大量に持ち込んで移動、補給に利用していた。

 日本軍は新兵器の戦車は保有していなかったが、俄作りの改造軽装甲車程度はかなりの数を保有し、火力、練度はトルコ兵のほとんどを上回っていた。

 そして何より機動力があるため、従来にない戦場での行動を実現していた。

 兵力密度が極端に低い戦場なので、機動戦、運動戦によって勝敗の帰趨は決定した。

 

 このためあまり装備も優秀とは言えなかった現地ブリテン軍は蹴散らされ、シナイ半島を占領され、スエズの東側を失うことになる。

 同盟側がスエズを越えてエジプト入りすることはなかったが、これでブリテンはナイル川沿いの鉄道を使って一旦紅海の半ばの港にまで出て、そこからアデンとの連絡を付けなくてはならなくなった。

 当然艦船の移動は無理であり、しかも既に喜望峰周りの航路が日本軍によって半ば封鎖されているため、紅海湾口のアデンを起点とするブリテンの艦船(東洋艦隊の残存艦隊)はソコトラに陣取る日本艦隊に対して移動の面で完全に孤立する事になった。

 

 しかも、これまでの海上での戦いで、無敵を誇るはずのロイヤル・ネイビーがアジアの有色人種国家に対して劣勢を続けている事そのものが、ブリテン国民の大きな心理的負担となっていた。

 

 そこにきてのスエズ通行不能のニュースは、ブリテン国民に大きな心理的衝撃をもたらした。

 人々は不安を囁きあい、戦争に勝てないのではないかという疑問が口にされるようになった。

 

 さらに悲報は続き、戦艦多数を含む日本艦隊が南アフリカのケープを艦砲射撃し、今までよりも多くの通商破壊艦が南大西洋に入り、南米大陸とヨーロッパの海上交通線の本格的な遮断に乗り出していた。

 

 南米はブリテンなどにとっては、大和を除いて最後の食料供給のための中立国地域であり、その通商路が脅かされると言うことは、戦争経済をさらに危うくする大きな要因だった。

 通商破壊戦を行ったのは巡洋艦や巡洋戦艦による臨検を踏まえたものだったが、直接的な効果よりも間接的な効果が絶大だった。

 数隻の大型艦の為、日本が南大西洋の制海権を握ったも同じとなったからだ。

 

 それでも多くの人々は、ナポレオン戦争や無敵艦隊に対する戦いなどを引き合いに出して士気を鼓舞したが、海では劣勢、陸では膠着、共に戦う国々は次々に脱落という事態に、人々の不安を消すことは出来なかった。

 

 そして人々は、戦争はもう長くは続かないのではないかと思うようになっていた。

 

 しかも1918年初春、同盟にとってさらなる吉報、連合にとって最大級の凶報が飛び込む。

 

 「大和共和国参戦」だ。

 


 大和共和国と北米各国は、度々北米での不戦と中立の条約を交わし合っていた。

 そうすることで北米での西欧のような不毛な戦いを避けるためだ。

 同時に、世界規模での戦争での戦争特需の恩恵に与ることもできた。

 大和共和国は、一躍世界最大の工業国へと躍進し、しかも他者を大きく引き離しつつあったほどだ。

 

 しかし南部(アメリカ連合)が連合側で参戦すると、均衡も徐々に不安定になる。

 大和が戦争前から同盟側の日本推しだったことも不安定さを高めていた。

 当の大和は北米は戦場としない、中立を維持すると必要以上に言っていたが、時間が経つごとに誰も信じなくなっていた。

 

 参戦して一気に南部を滅ぼせば、北米情勢をさらに優位に出来ると考えられていたからだ。

 そして大和が同盟に参加すれば、戦争全体も同盟の勝利は確実と考えられていた。

 しかも大和は、防衛のためという理由で軍備は着実に増強していた。

 

 当の大和はともかく、大和の参戦は切っ掛けさえあれば発生する事件だと世界的には見られるようになっていた。

 

 そして「予想通り」に事態が進んでしまう。

 


 不利になった連合各国が、大和に同盟への肩入れをしないように通達するのは、開戦からずっと行われていた。

 だが太平洋は、連合にとって半ば無法地帯だった。

 そして大和が作った新造艦を日本に渡した為に、ブリテン東洋艦隊が大敗したという情報が世界中に流されると、連合特にブリテンでの反大和感情は一気に高まった。

 ブリテン自体は大和を参戦させてはいけないのを十分以上に理解していたが、事が国民感情の問題のため解決の糸口がなかった。

 

 このため、ブリテン議会は同盟国への兵器輸出は参戦と同義と見なすと決議してしまう。

 そして大和共和国では、「櫻都」と呼ばれる首都櫻芽で緊急議会が開催し、紛糾した議会は三日後に参戦の決議をするに至る。

 卑怯者呼ばわりされたとして国民と議会が激高し、参戦の議案が圧倒的多数の意見としてついに提出されてしまったのだ。

 こうした点は、実に開拓国家らしいと言えるだろう。

 

 議員達による投票の結果は、民意を受けやすい下院が三分の二近い数で可決、各地域の代表者と言える上院では、僅差での可決。

 つまり大統領からの宣戦布告実施の48時間後に、大和共和国は同盟国への参加と連合国との戦争状態に移行する事になる。

 

 1918年1月12日の事だった。

 

 そして戦闘開始前に、大和政府は南部政府(アメリカ連合国)と会議を持った。

 オブザーバーで北部(アメリカ合衆国)代表も呼んだ。

 もはや問うまでもないが、「北米大陸でヨーロッパのような戦争がしたいのか」ということだった。

 南部政府に降伏を求めているようなものだが、南部の答えは最初から決まっていた。

 合衆国政府がどちらかの陣営で参戦を表明する前に、大和に降伏してしまうことだ。

 この結果国の名誉は傷つくが、国自体は保たれるのだ。

 しかも国としての最低限の体面も、参戦と欧州派兵で果たされていた。

 合衆国との違いは見せたので、南部としては降伏も大丈夫という読みがあった。

 

 大和が北部代表をオブザーバーという発言権のない立場で呼んだのも、南部を不戦敗させるためだった。

 そして北部は連合側で参戦すれば大和に蹂躙され、同盟側で参戦すれば南部を大和により多く取られて、戦後は自らがいっそう不利になることは理解するまでもないぐらいに理解していた。

 

 故に、北米大陸での戦闘の焦点は、「カナダがどうするか、どうなるか」だけだった。

 

 南部連合は、大和共和国が戦争状態に移行した次の瞬間に大和共和国との間に停戦に調印。

 連合軍からの脱落を宣言した。

 

 この行動にブリテンなど連合各国が激怒したが、南部は義務は十分に果たしたとむしろ今までの自らの奮闘を主張し、戦場から去っていった。

 

 実に現実的だが、奇妙な戦争の始まりと終わりだった。

 


 一方北米大陸の北部では、カナダが窮地に立っていた。

 

 国境の向こうには、すでに100万もの大和共和国軍が集結していた。

 当時のカナダの総人口は500万人ほど。

 年齢無視の根こそぎ動員すれば同じ数の兵士が集められるが、カナダ自体がブリテンの生産拠点ともなっているので動員には一定の時間が必要で、そもそも100万の兵士を武装する武器がなかった。

 それ以前の問題として、通常動員で動員できるだけの兵士は、既にヨーロッパに送り込まれていた。

 このため老年兵や訓練兵士、傷病兵しかカナダ領内にはいないも同然だった。

 

 そして大和の特使は、カナダが南部と同じようにすれば、進駐もせず事実上の白紙講和を行う用意があると公文書付きで約束した。

 そしてこの事で分かったのは、大和の目的は北米大陸での覇権や統一ではなく、戦争全体に勝利して世界規模での優位を獲得する事だった。

 

 ここでカナダ政府は、ブリテン本国との調整に3日を要求し、大和政府は48時間の猶予を認めた。

 ただし少しでも国境線の兵力を動かしたら、即座に戦闘状態に移行するとも伝えた。

 

 ブリテン本国政府は、カナダを停戦させて中立国として物資輸入を継続するか、戦わせ続けて数ヶ月だけでも西部戦線の兵力を維持するかの選択肢を迫られた。

 カナダの短期間での敗北と蹂躙は確定的なので、それ以外の選択肢は無かった。

 

 結果は、カナダの停戦を認めることだった。

 どのみちカナダが戦い続けても一ヶ月ももたないというのが総評で、当座の戦力よりもブリテン全体としての戦争遂行能力が重視されることとなった。

 

 結果、カナダも大和共和国に戦わずに、大和側が提示した停戦に合意。

 戦争から脱落した。

 

 そして南部とカナダは、大和が一般貿易は妨害しないという公文書にサインした事もあって、継続して連合軍との貿易だけを行う事になる。

 当然だが西部戦線などに展開する軍隊は即時戦闘停止して、順次本国に帰国する事になる。

 でなければ、停戦違反として大和の大軍が二つの国に攻め寄せるからだ。

 この点で合衆国が二国を誘って大和と全面戦争する選択肢もゼロではなかったが、最終的に大和が勝利する可能性が極めて高く、連合軍の足を引っ張っただけだと戦後の外交的にも不利になるとして、合衆国が動くことも無かった。

 

 しかし連合軍にとって、西部戦線から二つの国の軍隊が抜けた穴は無視できるものではなく、補充できる戦力は既に連合軍にはなかった。

 


 一方、参戦後の大和共和国だが、同盟国側としての動きは活発ではなかった。

 多くの理由は、北米大陸での戦闘に特化していた為で、海軍を出すにしても通商破壊戦は北米航路を露骨に襲えないため、戦争初期のような水上艦艇による正々堂々とした通商破壊戦が実施された。

 しかも本格的な出撃には1ヶ月程度の準備が必要で、大和共和国軍が北米大陸以外での活動を行い始めた頃には、西ヨーロッパが激しく動いていた。

 

 ドイツ軍の乾坤一擲の大勝負「カイザー・シュラハト」が発動されたのだ。

 既に疲れていたドイツ国民はともかく、ドイツ軍人達は戦争に勝つ気満々だった。

 

 ドイツは1917年秋頃から、東部戦線の兵力を他の戦線に移動し始めていた。

 しかし占領地の守備のために28個師団も割かねばならず、苦戦するオーストリア軍のためイタリア方面にも兵力を引き抜かれていた。

 

 バルカン方面は、日本軍が東から入ってきたため多くを任せることが出来たし、イタリアでは疲れ切っていたイタリア軍に対して大きな成功を得たが、全てを決戦場である筈の西部戦線に集中したいというのがドイツ陸軍の希望だった。

 

 そして東部戦線からは、最終的に45個師団相当の戦力が西部戦線に配置され、西部戦線のドイツ軍は総数196個師団にまで増強された。

 これに対して西部戦線の連合側は、フランス、ブリテン、ベルギー、ポルトガルを合計して約150個師団が配置に付いていた。

 南部、カナダの、それぞれ約10個師団ずつ居なくなったのが、大きく響いていた。

 しかもフランス、ブリテン共に、既に動員できる兵力は底をついていた。

 加えてフランスは、「エーヌ会戦」で十数個師団を丸々戦わないまま捕虜として失っていた。

 

 ブリテンは、インド、中東で半ば孤立する戦力、動員するも他戦線に回せない戦力、エジプトのスエズ、バルカン半島のサロニカで敵と睨み合っている戦力などを回せば、十分以上の戦力を西部戦線に回せたかも知れない。

 だが優勢でイニシアチブを常に握っている日本軍相手では、現地に置いている戦力だけでも既に大きく不足していた。

 現に日本軍は、シベリアでも必要がなくなった戦力を続々とインド洋に回しつつあり、完全に優勢となった制海権のもとでのインド本土に対する本格的な侵攻も近いと言われていた。

 一方では、ペルシャ湾から続々と物資や兵器をドイツに送り届けているとも言われていた。

 だからこそ、西部戦線こそ失うわけにはいかない戦場だった。

 

 だが西部戦線は、基本的に防御側が優位な戦場だった。

 この点で、連合軍の勝機が僅かながら存在すると考えられていた。

 

 そしてその西部戦線でドイツ軍は攻勢を開始する。

 


 作戦暗号名「カイザー・シュラハト(皇帝の戦い)」。

 1918年の春分の日に開始された。

 

 作戦目的は単純だった。

 「パリを目指せ」。

 感情的には、ただそれだけだと言っても過言ではなかった。

 

 1917年にフランス軍から得た突出部を中心にして、新戦術の浸透突破を駆使してフランス軍を食い破って戦線そのものを破壊し、連合側が増援を送り込んで戦線後方に新たな戦線を構築する前に、一気にパリを突くのが作戦の骨子と言えば骨子だった。

 戦略目的で言えば、今度こそパリを落とすことでフランス国民、将兵の士気を完全に砕くのが目的だったと言えるだろう。

 

 そして連続した突破戦を可能とする道具も、ある程度揃えられていた。

 

 日本(+大和)から、大量の自動車、自動貨車、装輪式の軽装甲車、そしてガソリン燃料がシベリア鉄道やペルシャ湾から大量に送り届けられていたのだ。

 これである程度、鉄道の引かれていない荒れ地での補給と進撃も可能となっていた。

 また進撃路を補強する為、わざわざ大量の土木作業機械(排土車、ユンボなど)が多数後方に持ち込まれていた。

 これを機械化工兵の始まりとする事もある戦闘的な編成だった。

 

 またバルカン半島のセルビアのサロニカ戦線、北イタリア戦線にもそれぞれ1個軍団の日本軍が3月までに主に鉄路で到着し、ドイツ軍から戦線を引き継いでいた。

 日本のここまでの積極姿勢はドイツにとって予想外だったが、時期的にも非常に嬉しいものだった。

 

 日本のおかげで、ドイツ軍は10個師団近い予備兵力を確保する事に成功し、しかも日本軍は補給線を強化しつつ、バルカン半島での作戦を拡大する向きを強めていた。

 また、西部戦線にも観戦武官を派遣し、ベルリンなどには連絡将校も多数詰めるようになっていた。

 日本とドイツは、1918年に入ってようやくまともな連携が取れるようになったのだった。

 

 なお、日本軍が西部戦線にまで送り込まれなかったのは、「名誉ある戦いへの遠慮」という名目とは裏腹に、ドイツ側では日本人というより有色人種への拭いがたい蔑視感情があり、日本軍は陣地戦に慣れていないため犠牲を嫌ったからだったと言われることが多い。

 しかし実際は、派兵が難しかったというのが正解だ。

 少なくともこの時のドイツ人達は、日本軍の欧州来援を心の底から喜んでいた。

 

 それに一般論として、西部戦線に兵士を送り込むのは容易いと言われるが、容易いのはそれだけだった。

 実際バルカン半島南部に進んだ日本軍は、重砲など自らの重装備の輸送だけでも非常に苦労していた。

 武器弾薬など兵站物資の運搬も、ヨーロッパでの膨大な消費量を考えれば非常に心許なかった。

 またドイツ側は、日本軍が大挙助太刀に来たところで、兵站面、補給面で面倒を見ることは事実上不可能だった。

 日本自身が西部戦線まで補給体制を確保するには、ドイツとの調整を経た上でさらに三ヶ月から半年が必要だった。

 

 兵力には余裕があるが、兵站という最も難しい問題で、日本も限界を迎えていたのだ。

 これは日本軍内で前線で戦う兵士の数より、後方支援に廻る兵士の数が加速度的に増えていることに象徴されている。

 


 春分の日に始まった「カイザー・シュラハト」の第一撃は、ブリテン軍とフランス軍の継ぎ目に対して行われた。

 継ぎ目が攻めやすいと言う簡単な戦術的要素から選ばれたのだが、これは思わぬ効果を発揮する。

 フランス軍は首都パリを、ブリテンはドーバー海峡の補給港の防衛を優先するのではないかという、お互いに対する疑心暗鬼に陥ったからだ。

 

 この時に至るまで連合側は、西部戦線での統一指揮を持っていないため起きた状況だったが、慌ててフランス軍中心の統一指揮が構築される間もドイツ軍は進撃を続けた。

 

 そしてドイツ軍は、多数の自動車を動員したことが功を奏して、今度の戦いでは「進撃疲れ」という補給切れに簡単に陥る事がなかった。

 大和共和国の自動車会社が大量に供給した野外車は、月面のような悪路にもめげず優れた走破性と耐久力を示した。

 あまりの活躍ぶりにドイツ人は感動して、その後「トヨタ攻勢」と呼ばれたほどだった。

 

 そして連合軍の目算と違ってドイツ軍が高い進撃速度を維持した事と、連合側がドイツ軍が新たに編み出した浸透突破戦術に対応できない事が重なり、フランス軍前線は第一線、第二線、さらにその後方の予備陣地までが突破され、遂に完全決壊する。

 

 そして連合軍に、大きく開いた戦線の穴を埋めるだけの戦力はもうなかった。

 つまり、この時点で西部戦線の勝敗は決したと言えるだろう。

 

 その後もドイツ軍は、相手を上回る速度で増援を送り込むことで攻勢を維持し、4月半ばには遂にパリ防衛網に達した。

 そこは開戦初期の攻勢で到達したよりも先の場所であり、タクシーではなく徒歩でも十分パリに至れる場所だった。

 当然、ドイツ軍の戦意は、いやがうえにも高まった。

 

 なおこの時のドイツ軍は、先鋒が突出した形で包囲される可能性も十分にあったが、連合側の方が遙かに混乱していた。

 苦し紛れに増援として投入されたポルトガル軍は、そもそも数が少なく戦力的にも劣っていた事もあってドイツ軍に一瞬で粉砕され、かえって戦線の穴を大きくした上に、ポルトガル軍を使ったブリテン軍にまで混乱が広がってしまう。

 このため戦線移動や防衛線の再構築も出来ないまま、連合軍はドイツ軍の第二撃を受けることになる。

 南部連合やカナダの兵力があれば、もう少しマシな防戦が展開できただろう。

 

 そして腐った扉も同然の西部戦線は、もはや蹴破るまでもないほどボロボロだった。

 


 パリが無防備都市宣言をして陥落したのは6月2日の事だった。

 

 フランスにとって、1871年以来の屈辱だった。

 

 同時に将兵の戦意が崩壊したフランス軍並びにフランス政府は、ドイツに対して「停戦」を提案するに至る。

 この時ブリテンや他の国々も、フランスと連名でドイツ並びに全ての交戦国に対して停戦を提案した。

 主戦線のフランスが停戦した以上、他の連合国も戦い続ける意味を失っていた。

 それにブリテン、フランス共に、枢軸側の通商破壊戦の前に飢餓が現実の脅威として迫りつつあった。

 もう限界だったのだ。

 

 なおブリテンの行動は、ドイツ軍の総攻撃が地上で続いていた同年5月28日に、「第二次ジュットランド沖海戦」以来となる大規模海上戦闘も停戦に少なくない影響を与えていた。

 

 パリ総攻撃に呼応して陽動出撃したドイツ大海艦隊に対して、ブリテンの大艦隊も総力を挙げて出撃。

 互いに飛行船や航空機を使って敵を求め、都合三度目の「ジュットランド沖海戦」、最後の艦隊決戦が行われた。

 

 弩級以上の戦艦数は、ブリテン、ドイツ共に21隻と同数だった。

 15インチ砲搭載艦では依然としてブリテン優位だったが、ドイツ艦の重防御の前には極端な優位とは言えなかった。

 

 戦闘自体も、ドイツ海軍は全般的な防御力の高さで優位で、ブリテン海軍は多数の42口径15インチ砲を多く持つ分砲力で優位と考えられていた。

 しかし戦艦戦力は数の面で既に五分であり、両者譲れない戦いだと考えて戦いを挑んだため、激しい砲撃戦が展開されることになる。

 

 補助艦艇はブリテン側が圧倒的に多かったが、多数の艦艇が入り乱れ過ぎたためインド洋での日本海軍のように効果的な戦闘は出来ず、牽制や煙幕を張る以外ではあまり役には立たなかった。

 この点は数の優位よりも、質の優位を優先した日本海軍の戦術の有効性を示したとも言えるだろう。

 


 そしてこの戦いは、ドイツ側の方が戦意の面で優越していた。

 ドイツの場合は、極端な話相手と同じ数が沈んでも、しばらくすれば日本海軍や大和海軍がヨーロッパに派遣され、結果としてブリテンから制海権を奪えると将兵に伝えられていた。

 実際は、戦闘力が未知数の大和海軍はともかく日本海軍が大西洋に至るのは難しいのだが、士気の違いを見るには分かりやすい例えと言えるだろう。

 海での増援が得られるなど、この戦争中のドイツ海軍にとってはあり得ない状況だったからだ。

 

 戦闘そのものは、お互い譲らない正面からの派手な砲雷撃戦が展開されただけで、痛み分けに終わった。

 インド洋よりも互いの艦艇数が多いため、どうしても戦場は錯綜して統制された戦術行動は取り辛く、そして決定的成果を挙げるのも難しかった。

 そして戦艦とは基本的に沈みにくいので、両者数隻ずつの戦没艦と多数の損傷艦を出し、両者不本意な結果のまま激しいだけの戦いを終えることになる。

 

 だが、かつてのトラファルガー沖海戦のような海上での分かりやすい勝利が得られなかったことに、ブリテン国民、前線の将兵は大きく落胆した。

 起死回生はあり得ない事が、心理面で立証されたようにも映った。

 

 ドイツの方は、この戦いによりブリテンは大陸派遣軍を安全に撤退させるだけの制海権維持能力を失い、ブリテンそのものの「鍋の底」があと一撃で抜けると士気を高めた。

 そこにきてのパリ陥落であり、連合側の戦略的勝利の手段が失われたと多くの人に解釈された。

 


 停戦の成立は6月9日。

 ここに「グレート・ウォー」は同盟側の勝利で幕を閉じる事になる。

 


 なおこの頃のヨーロッパ以外の日本軍は、ユーラシア大陸のほぼ全域に加えて、アフリカ東部沿岸にまで及んでいた。

 

 シベリアは、革命の余波が残っているため治安維持のため一定規模の軍隊の駐留が続いていた。

 チャイナでは、北京など一部の主要都市を占領下としていた。

 ヨーロッパでもバルカン半島南部を中心に作戦展開していた。

 そして東アフリカ沿岸を含めたインド洋全域の連合軍を攻撃していた。

 南アフリカへの侵攻は行われていなかったが、ソマリア半島、ケニア、マダガスカルなど連合軍の植民地で、自分たちが戦争中に必要な拠点を少数の戦力で攻撃して、これを次々に占領していた。

 

 各植民地の警備は極めて手薄だったので、東アフリカでの戦闘は極めて散発的で、沿岸部では日本の戦艦の姿を見ただけで降伏する事も多かった。

 南大西洋も、もはや日本の大型艦艇の遊技場のようなものだった。

 

 そして日本軍がインド本土や南アフリカへの本格的攻撃を準備している頃、日本人の復讐の戦いは多少物足りないも幕を閉じる事となった。

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