表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「分岐点・関ヶ原」〜豊臣政権による世界進出とその結果〜  作者: 扶桑かつみ
■第四部 第一次世界大戦(トゥルー・ルート)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/42

フェイズ28「グレート・ウォー(5)」

 北アメリカ大陸の中原で激しい戦いが行われる一方、西部戦線でも陸上での戦いは誰も予測しなかったほど壮絶なことになっていた。

 「消耗戦」という新たな戦略と概念が出現し、「ヴェルダン攻防戦」がその舞台となったのだ。

 


 消耗戦は、ドイツ側中枢部が新たな戦術及び戦略の一種として仕掛けたものだが、ドイツ軍の殆どはその事を知らず祖国の勝利を信じて激しい攻撃を行い、つられたフランスも自らの存亡を賭けて懸命の防戦を実施した。

 

 1916年2月に開始された戦いは10ヶ月近くに渡り、合わせて70万もの将兵が死傷する事になる。

 なお、この戦場では、新兵器である航空機が戦争で初めて消耗戦の対象となり、双方の航空機が多数空を舞い、そして地に墜ちていく事になる。

 華麗な撃墜王が誕生するようになったのも、この時期からの事だった。

 しかしこの時代はまだ落下傘パラシュートがないため、撃墜もしくは墜落した場合は、殆どの場合死を意味した。

 だからこそ、ロマンで塗色された「騎士道」がまかり通ったのかもしれない。

 


 同年7月からは、同じ西部戦線のソンムの地で連合側がほぼ初めての全面攻勢を取り、ここでも激しい戦闘が繰り広げられた。

 

 この戦場の特徴は、単なる消耗戦というだけではなく、新兵器の「戦車」が投入された点にあるとされる事が多い。

 しかしイギリス軍が投入した独特の形状を持つ初期の戦車は故障も多く、戦術も稚拙なためあまり役には立たなかった。

 

 結局11月中頃までにイギリス軍を中心とした攻勢は失敗に終わり、僅かな土地を巡る攻防戦の末に連合60万、ドイツ45万の死傷者を出して幕を閉じる。

 双方の損害の総量は、ヴェルダンの戦いを上回っていた。

 しかし以後西部戦線では、ヴェルダンやソンムのような戦いが一般的となる。

 

 一方東部戦線では、1916年8月にルーマニアが連合側で参戦した。

 ロシアの1916年の夏季攻勢に期待しての参戦で、オーストリア(ハンガリー)から領土トランシルバニアなどを奪い返す事を目的とした参戦だった。

 だが、開戦から僅か四ヶ月足らずの間ひたすら同盟側に叩かれ続け、全軍の4分の3と国土のほとんど失ってしまう。

 まったくの惨敗で、ドイツ軍とルーマニア軍とでは軍の質が全然違い、まるで勝負にならない戦闘だった。

 これは日本軍と清朝軍の戦いでも見られた事だが、第一級の国力と工業力を持つ国家とそれ以外の国の軍事力格差をよく伝える事例だと言えるだろう。

 総力戦とは、近代化された大国にしか許されない贅沢でもあったのだ。

 

 そして準一流同士の戦いである、イタリアとオーストリアによる「失われたイタリア」を巡る戦いだが、係争地の関係で珍しく山岳地帯が主戦場のためほとんど戦線が動いていなかった。

 国土奪回を旗印に無理に攻めるイタリア軍は損害を受けるばかりで、矛先を同じく「奪われた領土」である東部のイーストラ半島に向けるも、こちらの攻勢も芳しくなかった。

 イタリアの行動は、戦略的にはオーストリア軍を引きつけたという以上には何もしていなかったと言えるだろう。

 そして連合軍のかかえるヨーロッパ各地の戦線は、どこも似たような有様だった。

 

 総力戦、消耗戦とは、どちらかが力尽きるまで容易に勝敗が決まらない戦いでもあるのだ。

 


 一方の同盟側だが、状況が大きく変わりつつあった。

 

 何よりもまず、日本が早々に降伏して同盟軍から連合軍へと鞍替えした。

 清朝は敗北を喫したまま、その後動き出すことが出来なったので、うずくまってしまった。

 日本と清朝の違いは、国内に十分な産業を持つ国と持たない国の決定的な格差でもあった。

 

 日本の敗北は1916年6月。

 翌月には日本軍は連合軍として清朝に対して攻勢を開始し、夏も終わる頃になると今度は中東や地中海を目指した軍の派兵を開始する。

 日本軍の派兵で基本的に日本に選択権はなく、国力の許す限りにおいてだったが、ブリテンなど連合軍が求める数を求める戦場に送り込まなければならなかった。

 

 連合軍は日本に対して、海上輸送力が不足するので船舶の支援は実施するも、戦費の自弁、補給の自弁を求めた。

 しかし戦争に敗北したばかりの日本に自力で全てを賄う力はなく、しかも戦場が遙か彼方ということもあり、尚一層難しかった。

 天然資源の不足も、日本の戦争遂行能力を大きく押し下げた。

 

 このため、ブリテン、フランス、大和などがある程度手助けすることになる。

 その代わり、より多くの兵力を派遣することが求められ、取りあえず300万人という数字が示された。

 

 300万の兵士という数字は、日本の人口比からすれば4%程度なので動員自体は問題がなかった。

 問題はヨーロッパという遠隔地に対する輸送力と補給で、この点を考慮して300万という数字が示されたのだった。

 しかし、そのような大規模なしかも遠距離の遠征の体験を持たない日本は渋り、派兵数200万、各地での支援要員100万人という努力目標へと、何とか交渉によってハードルを下げさせた。

 連合軍の側も、必要以上にもと敵だった日本を追いつめて再び敵となっても困るので、条件を付けた上で日本側の妥協案を受け入れた。

 

 なお、日本が同盟から連合になったことに対して、各国からの警戒感や嫌悪はあまり見られなかった。

 これは、日本がアジアの僻地で戦争をしただけで、陸戦も限られた部隊がロシア軍の一部と戦っただけだったからだ。

 海上戦闘は一度激しい戦闘が見られたが、連合軍側が圧勝した事と軍艦という互いを隔てやすい兵器を用いている事が、心理的ハードルを下げていた。

 また一部には、ブリテン、大和には劣るが、十分に世界水準にある日本海軍を友軍とする事を好ましく思う者もいた。

 

 海軍及び制海権は連合軍にとって極めて重要であり、1916年6月末に行われた「ユトランド海戦」のように、ドイツ海軍が侮りがたいことも分かった。

 また北アメリカの東海岸では、いよいよアメリカに対する本格的な海上封鎖が実施されようとしていたので、艦艇はいくらあっても足りないと言うのが1916年下半期に入った頃の連合軍海軍関係者の心情だった。

 


 そしてスエズを通過する連合軍の増援部隊は、日本軍ばかりではなかった。

 ブリテン軍としてのインド軍、オセアニア軍を中心として、日本軍から奪回した東南アジアからも兵力が派兵されつつあった。

 

 兵力の一部はトルコ軍と戦うためにペルシャ湾方面を目指したが、ほとんどの兵力がスエズ運河を越えていった。

 そしてスエズを越えた兵士のさらに一部が、中近東方面やトルコ本土への戦いに投じられるも、多くがヨーロッパへと向かう。

 

 そうして各地の戦場に投入されたヨーロッパ以外の連合軍の数は、日本軍300万、オセアニア軍250万、インド軍120万、その他30万にも及んでいた。

 合わせて700万で、ドイツが根こそぎ動員した兵士の半数以上に達する。

 とはいえ「兵士」として動員されたのは全体のせいぜい60%程度で、多くの者は輸送など後方支援任務に従事した。

 

 国家の総力を挙げて戦う戦争には、前線で戦う兵士だけでは戦争はできないし、主戦場である西部戦線に白人以外の部隊を投入することに白人達が躊躇したからだ。

 

 しかし、背に腹は代えられないと考えていたブリテン、フランスなどは、続々と西部戦線にも有色人種の部隊を投入した。

 最初にまとまった数で西部戦線にやってきたのは、オーストラリアつまり濠州の日系人達だった。

 


 早くも1915年の夏にやってきた1個軍団の、オーストラリア兵は、当初は隣接する他のブリテン軍からうさんくさい目で見られ、偏見をもって迎かえられた。

 同年のうちに規模を1個軍に拡大していたが、それでも他の連合軍の目は厳しいままだった。

 見た目と装備こそブリテン軍だったが、せいぜい2線級の担当が精一杯で、戦線の穴埋めやブリテン軍を他に回すための数あわせの兵力ぐらいにしか考えていなかった。

 しかしこの時点で、西部戦線にあった45個師団のブリテン軍のうち9個師団がオセアニア軍で占められる事になる。

 しかもオセアニア軍は、その後半年ごとに1個軍を西部戦線へと送り込み、最終的には30個師団もの兵力を投じることになる。

 各ブリテン軍に最大で軍団レベルで分散配置されたため独自の「軍」や「軍集団」を編成する事はなかったが、西部戦線を支える重要な戦力となったことは間違いなかった。

 

 戦場での活躍も徐々に認められるようになり、1916年後半に入る頃には他の連合軍からも相応に頼りにされるようになっていた。

 そして頼りにされるということは、攻勢作戦にも投じられる事を意味しており、オーストラリアと名を改めた日系の濠州兵は他の連合軍同様に血みどろの消耗も経験することになる。

 

 なお、オセアニア軍が最初に経験した激しい戦いは「ソンムの戦い」だった。

 初期の攻勢で消耗したブリテン正規軍の交代として攻勢に参加し、最初の突撃で全軍の15%失うという大損害を経験している。

 その後もオセアニア軍は、自らの独立を得るためだと自らの士気を奮い立たせ、数多くの消耗戦をブリテン軍の一翼としてくぐり抜けていく事になる。

 


 そして西部戦線が消耗戦へとなだれ込んでいた頃、連合軍に「鞍替え」した日本軍が続々と西部戦線に姿を見せるようになる。

 

 200万、50個師団の投入を求められた日本軍は、第一次派遣軍だけで1個軍、10個師団あった。

 1916年内には規模の大きな2個軍(※この頃まだ軍集団の呼び方は無かったが、日本軍全体では「遣欧軍」という総司令部は開かれていた。)の兵力が送り込まれ、そして同年秋には早くも消耗戦の一翼として攻勢に投じられた。

 

 日本軍が投じられた戦場は過酷な場合が多く、そして何より「囮」の割合が非常に高かった。

 

 当然と言うべきか砲弾、銃弾の補給量も少なく、現地日本軍は少ない銃砲弾と自らの激しい消耗を前提とした独自の戦闘スタイルを作り上げていく事になる。

 

 日本軍が主に取った戦法は、短時間の集中砲撃を行い、砲撃を継続しつつ歩兵をその弾幕の下で兵士突っ込ませるという、ある種刹那的な戦法だった。

 ドイツ軍の機関銃による犠牲よりも、味方の砲弾による犠牲の方が少なく、砲弾が落ちている間はドイツ軍が射撃することが殆ど見られない為、行われた戦法だった。

 

 もちろんだが、自前の砲弾が少ないので細大でも1時間程度の時間制限付きのため、一度進撃し始めると非常に速度は速かった。

 

 味方の犠牲を厭わない戦法に、連合軍各国からは流石に非難も出たが、かといって「寝返り者」、「裏切り者」、そして何より有色人種の日本軍への補給も増やしたくないため、日本軍の戦法は日本軍独自のものとしてその後も黙認という形で容認されることになる。

 

 そして容認された背景の一つに、日本軍の戦法がかなり有効だった事が挙げられる。

 

 実際、日本軍が集中的に配備された西部戦線の南部では、日本軍が他の連合軍の攻勢に合わせて行った攻勢よりも前進している場合が多く、ドイツ軍も味方の砲撃をものともせず突進してくる日本軍を、悪魔の軍勢や不死の軍団として恐れた。

 とはいえ、ドイツ軍にとって日本軍は「裏切り者」のため敵愾心も強く、ドイツ軍の日本軍に対する攻撃もしくは反撃は苛烈で、日本軍は多くの犠牲を出し続けることになる。

 


 だが、日本の大軍が西部戦線に姿を表す頃になると、陸上戦力で連合軍の優位がはっきりするようになってきた。

 

 1915年半ばで連合軍約150個師団に対して、ドイツ軍は90〜100個師団程度だった。

 しかしブリテン・オセアニア軍、日本軍により連合軍はさらに50個師団を積み上げ、ドイツ軍に対して二倍の数の師団を並べることになる。

 師団の戦力が全てドイツ軍と同じほど強いわけでは無かったが、文字通り数は力だった。

 

 しかも海でも、連合軍が圧倒的優位を構築しつつあった。

 日本との戦いが終わって、ブリテン、フランス艦艇が地中海か北海に戻ってきた上に、日本海軍も残存していた有力艦艇を中心にヨーロッパに艦隊を派遣してきたからだ。

 しかもブリテンとドイツの建艦競争は完全にブリテン有利となり、もはやドイツの水上艦隊が制海権を脅かすことは不可能となりつつあった。

 

 そうした状況から、日本が降伏した1916年の初夏の頃が戦争の転換点だったと言われることがある。

 

 しかし戦場は、西部戦線だけではなかった。

 東アジアでの戦いが終わっても、戦場はまだまだ数多く残っていた。

 


 西部戦線に次ぐ戦場といえば、同盟軍とロシアが戦う東部戦線と、北アメリカ戦線だった。

 

 北アメリカ戦線では、1916年3月に開始された大和共和国陸軍による春期大攻勢が、約一ヶ月後に大成功を納めていた。

 アメリカ陸軍の10%を撃滅し、最大で約200キロも前進した。

 しかもこの戦いは奇襲ではなく、国境線を挟んでの正面からの戦いの結果だった。

 

 戦闘そのものはまさに数の戦いで、国力の差が如実に現れる総力戦というものを見せつける戦場だと言われた。

 

 しかもアメリカは、国境線のほぼ全てを敵に囲まれているため(※東部沿岸も事実上海上封鎖されている)、国力と人口に比例した大軍を動員するも、本来なら国境線を固めるのが精一杯だった。

 南部だけカナダだけなら十分な勝算もあったが、単独で自らの倍の国力と人口を有する大和が相手となると、勝算どころかいかにして敵の侵攻を防ぐかが本来の戦いの筈だった。

 

 しかし、カナダを奇襲的に占領するという野心的な戦闘に及んだ挙げ句、兵力投入合戦に負けてカナダ主要部を占領するには至らなかった。

 アメリカが予測したよりも、大和の動員と移動が早かったからだ。

 そしてアメリカは、大和の事を相手が有色人種国家だと潜在的に侮っていた事を、この時の春季攻勢で思い知らされる事になった。

 しかも、大和の大攻勢に南部連合も色めき立ち、長い南北アメリカの国境線での戦闘の気配も高まっていた。

 

 それ以前の問題として、4月の時点で大和軍による第二次攻勢が開始されようとしていた。

 目標は、先にも書いたようにシカゴ北西部の大和との間に唯一地形障害のない国境地帯、「ロックフォード要塞線」だった。

 

 この要塞線がシカゴ共々大きく包囲されてしまうと、アメリカ軍の北西部での戦いは総崩れとなってしまう。

 

 「ロックフォード要塞線」には、周辺部と合わせて120万の大軍が配備されており、シカゴは北中部の交通の要衝であり最大級の都市だった。

 さらにシカゴは、ミシシッピ川に展開する軍部隊の半分近くにとっては、後方の策源地でもあった。

 

 そして恐らく、シカゴ近辺で大敗を喫した場合、ミシシッピ川全域からも総退却しなければならなかった。

 大和軍と南部による包囲殲滅戦の危険性が高まるからだ。

 もしそうなったら、アメリカの敗北は確定的だった。

 


 大和軍の攻勢は、仏教の開祖である釈迦の誕生日とされる4月8日に開始された。

 とは言え別に宗教的な意味はなく、至極単純に合理的な判断のもとでの攻勢開始だったのだが、少なくともアメリカ軍にとっては自らのキリスト教世界に対する挑戦だと一方的に受け取った。

 大和国民の4分の1が白人で、3割近くがキリスト教徒だという事は、アメリカにとっては関係の無いこと、むしろ憎むべき事だった。

 

 とはいえ、この時窮地に追い込まれていたのは、アメリカ軍の方だった。

 

 単純に言えば、ミシシッピ川の向こう側には、前回の攻勢に参加しなかった約300万の大和軍が犇めいたままだった。

 その中から200万の大軍が攻勢をしかけてきていた。

 対する西部に展開するアメリカ軍は、全部をあわせても300万。

 このうち10%は既に失われ、シカゴ方面にも多くの兵力を割いていた。

 「まともな」予備兵力も乏しく、他から引き抜ける兵力には乏しかった。

 

 このためアメリカ軍司令部は、一つの決断を下した。

 

 イリノイ突出部から、シカゴ包囲を目指してさらにアメリカ内陸部へと主力部隊を向けていた大和軍に対して、アメリカ軍は前線一帯で一斉に毒ガスの使用に踏み切ったのだ。

 

 毒ガス自体は、グレート・ウォーでは珍しいものではなかった。

 最初の大規模な使用例は、1915年4月にドイツ軍が西部戦線で行っている。

 ドイツ軍で最初に使用されたのは塩素ガスで、奇襲的に使われたため大きな効果があった。

 その後、双方の軍で塩素ガスが日常的に使われるようになり、同年10月には窒息性のホスゲン、さらにジホスゲンが使われ、1917年7月にはイペリット(=マスタードガス)が使われるようになる。

 

 1916年4月にアメリカ軍が使ったのも、当時一般的だった塩素ガスだった。

 しかし毒ガスとは、基本的に敵の塹壕線に対して実施し、混乱に乗じて友軍が前進するものだった。

 ガスは拡散するので、移動する敵に対して有効ではないからだ。

 しかも大和軍もヨーロッパの状況は知っていたし、一定程度の毒ガス対策は行っていたので、極端な混乱は見られなかった。

 無論アメリカ軍も無闇に使った訳ではない。

 敵が密集する地域に対して、大量の毒ガスを風向きを図りつつ使用している。

 このため大和軍も相応の損害を受けており、前進速度も低下した。

 

 十分とは言えないが、効果的に使用されたといえるだろう。

 

 しかし、北米で最初に毒ガスを使用したという汚名を、アメリカ軍は被らなければならなかった。

 しかもアメリカは、守るべき国土で使用したという汚名まで被らなければならなかった。

 コーン畑の広がる農村地帯での使用だったが、自らの農地を守ろうと無謀な行動に出ていた自国民にも被害が広がった。

 小規模な村落などにも被害が出ていた。

 

 そしてこの事を大和側は見逃さなかった。

 

 進軍した先で犠牲になったアメリカ市民を写真におさめ、生存者を救助し、自国民を犠牲にする「アメリカの非道」を国際社会に宣伝したのだ。

 アメリカの毒ガス使用を予測していた大和側としては、アメリカの使用は遅すぎるぐらいだった。

 

 しかし大和の非難中傷を前にしても、アメリカ軍の行動に変化はなく、さらになりふり構わない防戦を講じてきた。

 各地からの兵力の転用も間に合わないため、周辺の住民を動員した民兵(※一応は「ニミットマン」とされていた。

 )がかり出され、とにかく浅く、薄くてもよいので塹壕を掘って、大和軍の侵攻を1日でも、1時間でも遅らせようとした。

 

 当然だが、アメリカ側の犠牲者は飛躍的に拡大した。

 

 しかし200万の大和軍の精鋭部隊進撃を止めるには至らず、大和軍はすぐ後ろから交代の予備部隊を投入して進撃速度を維持し、泥縄式の迎撃に出てきたアメリカ軍を各所で撃破した。

 アメリカ軍の中には効果的な遅滞防御戦闘を行う優れた指揮官もいたのだが、フィラデルフィアの総司令部は大混乱で的確な指示が出せなくなっていた。

 

 極端に言ってしまえば、地形障害のない農村地帯で圧倒的兵力差のある敵と運動戦を実施していることこそが間違いなのであり、本来なら既存の防衛線を放棄して軍全体を大きく引き下げて重厚な要塞型塹壕線などの防衛線を再構築するべきだった。

 しかし軍事上の原則よりも、政治上の要求、つまりは全ての国土を守ると言うことに固執しなければならない為、アメリカの政府、軍の戦争指導は完全に硬直化していた。

 


 その後、5月半ばまで続いた戦いによって、シカゴ東部の街ゲーリに大和軍先鋒が突入。

 シカゴとシカゴ北西のロックフォード要塞線を他の友軍と共に、大和軍がアメリカ軍を完全に包囲してしまう。

 これは今時大戦で最大級の包囲戦となった。

 

 包囲の輪の中に閉じこめられたのは、約130万のアメリカ陸軍と400万人の市民だった。

 今までの占領地で、既に50万のアメリカ軍が撃破され100万の市民が占領下に置かれていたので、合わせてアメリカ国民の一割が失われる危機に陥った事になる。

 失われた兵力はアメリカ全軍の約25%。

 しかも装備の良い訓練の施された兵力が多かったので、実質的には30%以上の戦力を失ったに等しかった。

 

 しかも大和軍は、ミシガン湖に自らの水軍(湖軍)を結集して湖上決戦を挑んでこれに勝利し、シカゴ市と要塞線を湖の側からも封鎖もしくは包囲する事に成功する。

 この湖の戦いでは、河川モニターの機動型である河川コルベットとでも呼ぶべき高機動可能な重武装艦が活躍し、十分な戦力を有していると考えていたアメリカ海軍のレイク・ネイビーを粉砕していた。

 

 シカゴの周辺部には友軍主力との連絡を絶たれた約100万のアメリカ軍がいたが、既に包囲網の防備体制に入りつつあった大和の侵攻部隊の包囲を破れるほどの兵力はなく、それ以前の問題として北中部の交通の要衝であるシカゴが分断された事で、アメリカ軍の集中や物資移動が難しくなっていた。

 

 しかもここで大和軍の総司令部は、後方で編成していた50万ものさらなる予備兵力を投入。

 同兵力で自らの突出部もあるシカゴ包囲軍の南部側に強固な塹壕線を作り上げ、北部側では無防備な背中を晒している要塞の攻略に取りかかった。

 そして鉄とコンクリート、鉄条網と機関銃、野戦重砲で構築された強固な要塞線は、後方からの攻撃には非常に弱かった。

 側面はともかく裏側から全面的に攻撃されることは全く前提としていないのだから当然で、しかも補給を絶たれ前面では自らよりも優勢なぐらいの敵軍の攻撃を受けるとあっては、対処の取りようがなかった。

 

 結局6月中旬まで続いた戦闘は、シカゴ、ロックフォード要塞線双方が降伏し、短くも激しい攻防戦が繰り広げられたシカゴ突出部の南部戦線では両軍合わせて30万の死傷者が新たに生じた。

 

 そして戦いの結果、アメリカ軍は全てを守ろうとして多くのモノを失い、国家としても戦争そのものを失いかねない危機にも瀕することになる。

 

 この場合、単に陸軍の多くを失い、国民の一割が敵の占領下に置かれただけでなく、激しい消耗戦のために備蓄資源、つまりは備蓄していた鉄鉱石が枯渇しようとしていたのだった。

 


 この戦い以後、世界の目は北アメリカの戦争はもうすぐ終わると見るようになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ