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「分岐点・関ヶ原」〜豊臣政権による世界進出とその結果〜  作者: 扶桑かつみ
■第四部 第一次世界大戦(トゥルー・ルート)

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フェイズ27「グレート・ウォー(4)」

 1914年秋、ドイツの最初奇襲攻撃が失敗してヨーロッパでの戦況が膠着状態に陥ると、ドイツはどの敵から相手にしていくかの選択肢を選ばなければならなかった。

 

 主敵である西部戦線のフランス、ブリテンか、それより与しやすい東部戦線のロシアか、予想以上に苦戦しているオーストリアを助けるのか、それとも事実上既に裏切っているイタリアを叩くか。

 ヨーロッパ以外では、同盟国側のトルコと日本、清朝、そしてアメリカの活躍にかかっているので、海外に小規模な戦力しか置いていないドイツとしてはヨーロッパの問題に向き合う以外の現実的選択肢がなかった。

 


 海外の戦線でいえば、今のところはドイツにとってそれなりに満足すべき状態だった。

 新大陸の大国大和の参戦は大きな失点だったが、日本とアメリカは経過や結果はどうであれブリテンやフランスの軍事力を引きつけていた。

 地中海や北大西洋が静かなのは、間違いなく二つの国のお陰だった。

 

 この中でドイツに直接的に関わりがあるのは、ロシア情勢だった。

 ロシアは日本と清朝の為に、開戦前に極東に置いていた1個軍が動かせずにいた。

 それどころか、初戦での日本軍の活発な活動の為、幾らかの増援すら送り込まざるを得なかった。

 

 また、日本とアメリカのお陰で、主にブリテンは植民地からの物資の動員が遅れるばかりか、ブリテン軍を中心に兵力が各地で拘束されていた。

 東アジアでは旧式とはいえ大量の連合軍の戦艦が身動き取れなくなっている点は、ドイツにとって大きな得点だった。

 カナダの陸軍がヨーロッパに来ない点も、それなりに嬉しい要素だった。

 そしてそれらの情勢から、少なくともブリテンは海外の問題が解決するまで、西ヨーロッパで大規模な活動はないだろうと予測された。

 

 そこで同盟の盟主たるドイツの選択は、まずはロシアを中心に叩くことだった。

 

 ロシアの東部戦線は、戦線が南北に長く伸びているため兵力密度が薄く、塹壕戦ではなく運動戦であり、運動戦はドイツ陸軍の最も得意とするところだった。

 また、極東からの日本軍の牽制も少しは期待できるのも、ロシア叩きが選ばれた理由だった。

 二正面作戦は誰にとっても悪夢だが、その悪夢をロシア人にも味合わせるが目的の一つでもあった。

 

 ドイツは、まずロシア野戦軍を叩いた後に西部戦線に兵力を傾けようと考えており、運動戦が続く4月〜9月の東部戦線では、毎月25万人のロシア軍が主にドイツ軍によって「順調に」撃破されていった。

 無論撃破といっても全滅させている訳ではなく、相応の戦死者と負傷者、そして捕虜を出させていると言うことになる。

 そして25万という数字は、従来の戦争ならそれだけで戦争を放り出すような損害だった。

 

 しかしドイツにとっての戦況は、早くも暗雲が立ちこめ始めていた。

 


 アメリカは1914年内に、初期の攻勢に失敗していた。

 もともとアメリカの参戦は無茶だと言われていたが、まさにその通りとなった。

 相手が悪すぎたのだ。

 

 それでもドイツとしては、取りあえず新大陸でブリテンや他の連合軍を引きつけてくれれば良いので、アメリカが徹底抗戦の姿勢を示しているだけでも、まずは満足すべき状態だった。

 

 東アジアでは精強と言われていた日本海軍が、1915年夏に連合軍の侵攻の前に敗れた。

 ドイツとしては、こちらの方が問題が多かった。

 海外から食料輸入が必要な日本の早期脱落は避けられず、そうなれば東アジアにいた連合軍艦艇が続々と北大西洋、北海にやって来るからだ。

 しかも最悪の想定の場合は、降伏した日本軍がヨーロッパに派兵されてくる可能性すら考慮しなければならなかった。

 

 一方ヨーロッパでは、1915年5月23日にイタリアがオーストリアに対してのみ宣戦布告し、新たに連合側に加わった。

 これでオーストリアは、三方を敵に囲まれた格好になった。

 

 イタリアの意図は、「未回収のイタリア」と言われるオーストリア領を得ることにあった。

 イタリアが三国同盟に加わっていたのも、もともとは戦争以外の手段で領土を回復するのが目的だった。

 だが大戦勃発で情勢が変わったため、本来の陣営に加わったと言えるだろう。

 このためドイツの受けたショックは小さかった。

 

 そして参戦国が増えた連合側だが、ヨーロッパの戦況が有利になったとはいえなかった。

 イタリアは基本的に「未回収のイタリア」にしか興味がなかったからだ。

 しかもイタリア軍は、遮二無二山岳地帯の「未回収のイタリア」に軍を進めて、他に手を出せないほどの損害を積み重ねるだけだった。

 

 連合軍としては、とりあえずオーストリア軍を引きつけているので満足すべきという状況でしかなかった。

 敵となって南仏にでも攻め込まれないだけマシ、と考える者も多かったという。

 

 一方、ヨーロッパでのもう一つの同盟国トルコだが、連合軍が他の国を優先した為、トルコは半ば放置されていた。

 トルコ軍が戦っていたのはロシアと国境を接するコーカサス山脈方面とエジプト方面だったが、どちらもいくらも進まないうちにロシア軍、ブリテン軍に追い返されていた。

 

 ちなみにエジプトでブリテン軍として主に戦っていたのが、オセアニア地域(大洋州)の日系兵士達で、この戦い以後主に地中海で数多く彼らの姿が見かけられるようになる。

 

 そしてトルコを合わせると二方面から叩かれていた事になるロシアだが、ロシア軍はドイツ軍に酷く叩かれたが、ロシアが降伏する気配はなかった。

 今までの戦争ならいつ降伏してもおかしくないだけの損害を受けていたのだが、国家が総力を傾ける戦争では、許容量の損害でしか無かった。

 西部戦線、バルカン戦線は、それぞれ別の理由で完全な膠着状態だった。

 アルプスでのイタリア軍の奮闘も空しかった。

 アフリカや中東では、世界中の植民地から大軍を動員したブリテンが中心になって、同盟側の貧弱な勢力を駆逐していたが、大局には影響のないものだった。

 


 一方東アジア、太平洋方面では、アジア唯一の大国である日本だが、いよいよ戦略的環境が悪化していた。

 

 開戦当初こそ順調に各地を攻撃(奪回)していたが、1915年夏に連合軍に海から本格的な反抗を受けると、もう手詰まりだった。

 連合軍との海軍力が違いすぎたからだ。

 そして本土近海の制海権も事実上奪われてしまったため、連合軍側のブリテン、大和、ロシア、フランス(艦艇数順)の海軍の海上封鎖に対してもはや為す術がなかった。

 連合軍艦隊は、日本の友邦である清朝に対する海上からの圧力も実施できるほど既に余裕があり、後は食糧自給が出来ない日本列島が飢えるのを待つだけだった。

 

 そして国民が飢えると言うことほど、為政者が恐れる事はなかった。

 このため1915年春を迎えた日本政府は、既にいつ降伏するかの算段を進めるようになっていた。

 莫大な賠償金や領土割譲よりも、国民が飢えて自分たちに向かってくる事の方が恐ろしかったのだ。

 降伏しても国は滅びないだろうが、内紛で簡単に滅びることは歴史上枚挙にいとまないのだ。

 

 そして、ヨーロッパや北米での総力戦が本格化しようというまさにその時の日本からの講和もしくは降伏の打診に、連合軍は内心狂喜乱舞していた。

 

 だが表面的には、冷静に日本側との水面下の交渉を進めつつ、日本に対する次の軍事作戦を進めていた。

 連合軍の次の作戦とは、日本本土侵攻だ。

 占領した沖縄本島を拠点とする連合軍は、既に自らの望むあらゆる場所に上陸作戦を行えるだけの戦略的条件を揃えていたからだ。

 上陸する部隊の方も、ブリテン軍を中心に10個師団以上がインドや東南アジア各地に揃えられていた。

 あくまで表向きだが、濠州でも日本本土侵攻用の大軍が準備されているという情報も流された。

 大和本土では、新鋭艦による新たな艦隊が編成されつつあるという情報も、敢えて日本にもたらされていた。

 

 そして日本としては、連合軍が侵攻してくる事よりも、夏までに降伏して通商路を回復し、日本本土に食料を持ち込むことの方が大切だった。

 

 このため日本との停戦及び講和は、連合軍側の予想以上に順調に進んだ。

 5月にシンガポールで行われた講和会議は同月内に呆気なく結論を見て、5月27日に日本の降伏及び停戦が実現する。

 降伏調印は約一ヶ月後の6月20日だったが、日本が調印よりも早く求めたのが、日本への食料輸入の再開だった。

 もはや備蓄倉庫の底が見えて物価の高騰が限界を迎えようとしていたので、日本側はほとんどなりふり構っていなかった。

 

 そして日本代表がなりふり構わなかったように、日本と連合軍との講和条件もほとんど連合軍側の言うがままだった。

 

 まず日本は、本国以外の全ての植民地を手放すことになった。

 北樺太島、台湾は日本住民が多く古くから日本領のため本国と認められた他は、ほぼ全ての海外領土を喪失した。

 そしてスンダとパプアはブリテンとフランスに、アラスカは大和に割譲されることになった。

 交渉では、日本側はスンダについては現地勢力の自主独立を求めたが、この段階ではブリテン、フランス共に有色人種国家の独立は無用の混乱を招くだけだと言って取り合わなかった。

 そうした中で、一応は独立国だったハワイ王国は、大和の軍事占領下にあることもあって大和の保護国とされた。

 

 そしてさらに、日本に対して莫大な賠償金を課さない代わりとして、連合軍としての積極的な参戦を求める。

 この参戦は、日本が国力の許す限り連合軍側の要求を一方的に呑み、勝利した後も賠償など戦勝国としての権利を基本的に認めないという過酷なものだった。

 

 だが日本側は、ヨーロッパ諸国が考えたよりも簡単に、この条件を呑んだ。

 日本側としては、戦国時代の習いとして戦いに負け後は先陣を務めるのはむしろ当然、という価値観を感情面で維持していたからだった。

 日本政府も、国民への説明として似たようなことを口にしている。

 

 こうして同盟国側としての日本の戦争は、1年8ヶ月で終わることになる。

 


 最初の敗戦国から連合軍となった日本軍に対して、連合軍が最初に求めたのが清朝に対する全面的な攻撃だった。

 近くだし、既に満州に軍を展開していたし、日本軍でも十分に戦える相手だと判断しての事だった。

 

 これを日本側も承諾し、さっそくこれまで戦っていたロシア軍と肩を並べて、満州から北京を目指した進軍を開始する。

 また海上からの上陸も企図されたが、既に日本海軍が壊滅的打撃を受けていたため、海上での活動のみ他の連合国が手助けすることになった。

 そしてここで各国と共同作戦を取れたことは、その後の日本軍を中心とする連合軍にとっても有意義な経験となった。

 

 黄海では、威海衛に閉じこもっていた清朝海軍が上陸部隊を阻止するためにやむなく姿を見せたが、新鋭艦を前面に立てたブリテン、大和の連合艦隊とでは戦いにもならなかった。

 一方的戦闘が一時間ほど行われ、半数に撃ち減らされた清朝艦隊は這々の体で威海衛に逃げ帰り、その後二度と洋上に出てくることは無かった。

 

 そして連合軍艦艇の支援する中、連合軍となった日本陸軍は威海衛、天津を次々に攻略し、万里の長城を越えてきた日露合同軍と併せて、二方向から首都北京を指呼におさめる。

 また海上からの戦闘では、ブリテン、フランス、大和が共に自らの海兵隊や一部小規模な陸軍部隊も同行させていた。

 理由はもちろん、戦勝国としての「利益」に与るためだ。

 

 これに対して、日本を裏切り者と口汚く罵っていた清朝側だが、連合軍との戦闘は海での戦いを例とするまでもなく一方的に負けていた。

 一度は満州の平原で日露軍に対して「決戦」を挑んだのだが、機関銃と重砲弾幕の前には「数十万の屍をさらす」と記録される様な敗北を喫した。

 しかも実際の戦闘は、清朝軍がまともに戦わずにほとんど逃げ散っただけだった。

 

 そして海と陸双方での大敗に色を失った清朝政府は、まだ10才ほどの皇帝溥儀を担ぎ出して、北京を棄てて奥地の西安にまで逃亡してしまう。

 このため日本軍を中核とする連合軍も進まざるを得ず、ほぼ無血で混乱する北京を占領下においた。

 

 連合軍としては、まだ清朝に対して降伏と停戦を勧告していなかったので、慌てたほど素早い逃げっぷりだった。

 


 その後北京に入城した連合軍は、北京に残っていた官僚、宦官を政府として停戦交渉を行い、首都の治安維持能力を無くした清朝にかわり、日本軍を主力とする連合軍がしばらく北京一帯も占領下に置くことになった。

 連合軍としては、余計な事の為に貴重な戦力を割かれた形だ。

 それを意図していたのなら、清朝は同盟軍として自らに出来る限りの役割を果たしたことになるだろう。

 だが連続する大敗で混乱する清朝に深謀な動きなどなく、事態が見えてくるとすぐにも元友邦である日本に講和のための仲介を依頼した。

 

 1915年6月に清朝は正式に日本を通じて連合軍に降伏し、東アジアでの総崩れ的状況に、他の同盟軍各国に少なからない衝撃を与えた。

 

 なお、北京で行われた講和会議では、清朝は日本以上に酷い扱いを受けた。

 日本の場合は近代産業があり軍事力が強力だったので、抵抗すると何をするか分からないと言う怖さがあったが、一連の戦闘で「東洋の眠れる獅子」というメッキが剥がれた清朝に遠慮する必要性を感じていなかったからだ。

 それに連合軍としては、貴重な時間を奪われたという怒りもあった。

 

 清朝が飲んだ講和条件は、まずは連合軍各国が清朝領内に持っていた権益の復活及び租借などの場合は期限の大幅延長(※主に99年契約に更新)。

 10億両の賠償金支払い。

 ロシアへの万里の長城以北の領土割譲または利権譲渡。

 フランスへの海南島割譲。

 ブリテンへの香港領の拡大のための割譲。

 などとなった。

 

 大和は各租界の確保と賠償金だけで満足し、日本は連合軍としての約束通り、何も得ることは出来なかった。

 

 尚、本来ならば、清朝に対しても日本同様に賠償金の代わりに連合軍としての参戦が求められる筈だった。

 しかし、実際戦ってみた限り清朝軍が余りにも不甲斐ないため、戦闘中に清朝の連合軍としての参戦は取り止められることになった。

 講和会議でも、清朝側も何も言わなかったため、清朝はそのままただの敗戦国、途中脱落国としての記録が残される事になる。

 

 しかしその後の中華地域は、清朝が主力の壊滅と首都陥落という目に見える形で大敗を喫したため、以後深刻な混乱期に突入していくことになる。

 


 東アジア地域での戦闘が早々と終息を迎えるのと相前後して、ヨーロッパと北アメリカはいよいよ本格的な「総力戦」または「消耗戦」に突入しつつあった。

 

 「消耗戦」の象徴としてはヨーロッパでは1916年2月から「ヴェルダンの戦い」が始まりで、「総力戦」の典型として北アメリカでは1612年3月から「ミシシッピの戦い」が始まった。

 

 「ヴェルダンの戦い」は一つの要塞を巡る消耗の激しい総力戦の典型として有名で、約10ヶ月の戦いで両軍合わせて約70万人もが死傷した。

 一方の「ミシシッピの戦い」は、運動戦と陣地戦を組み合わせたような戦いで、両軍合わせて約400万人の兵力が約三ヶ月に渡って激しい攻防を繰り広げた。

 

 「ミシシッピの戦い」での当事国は、攻勢を取ったのが連合軍陣営の大和共和国陸軍で、防戦に当たったのが同盟軍陣営のアメリカ合衆国陸軍だった。

 

 「櫻都」とも呼ばれる櫻芽に本拠を構える大和総参謀本部の主な意図は、アメリカ本土に本格的な大規模侵攻を仕掛けることで、カナダ、南部の受ける圧力を軽減することにあった。

 また、本格的な消耗戦をすれば国力で圧倒する大和が勝利することが分かり切っているという戦略的判断が、大和側の積極姿勢の大きな根拠になっていた。

 

 戦時昇進で元帥となった長門将軍率いる増強1個軍集団の約180万が、この攻勢の直接的な部隊として動員された。

 一人が率いるものとしては、当時世界最大の兵力だった。

 

 師団数も約40個と凄い数だが、この作戦の特徴は後方支援要員の多さだった。

 初期のドイツ軍の攻勢の失敗を研究した大和軍参謀本部が導き出した結論は、部隊の移動に可能な限り自動車両を用いる事、補給部隊も同様に機械力による機動性を高めることだった。

 そしてどちらも満たすことが出来る国は、この当時ほぼ大和共和国しかなかった。

 

 また攻勢に呼応して、全ての国境線では全軍を挙げた砲撃戦と陽動のための攻勢も実施され、アメリカ軍が本当の攻勢地点を見付けるまでに、一気に進んでしまおうという意図があった。

 


 1916年3月10日、突如ミシシッピ川全面及びシカゴ方面の要塞線で、大和陸軍は世界の終わりかと思うほどの大規模な砲撃戦を開始する。

 大和大陸軍総司令長官の武蔵大元帥が直接指導した、作戦参加師団数180個、参加兵員数470万人という空前の規模の戦闘で、この時の攻勢をアメリカ軍は「悪魔の7軍団の攻勢」と呼んでいる。

 

 そしてこの時、アメリカ軍は大和軍の意図を掴みかねていた。

 

 大和軍の目的は何なのか? ミシシッピ対岸のイースト・セントルイス、ミシガン湖の要衝シカゴ、またはスプリングフィールド、それとも長駆インディアナポリスを狙うつもりか? 南部とは連携しているのか? アメリカ軍が研究に研究を重ねてなお導き出せない大和軍の動きだった。

 

 アメリカ軍が最も可能性が高いと判断したのは、セントルイス近辺から大挙渡河作戦を実施し、一気に西南西へと進軍してオハイオ側に達してしまう動きだった。

 これでミシシッピ川とオハイオ川の合流地域の国土は川と南軍、大和軍によって包囲され、アメリカ軍の大軍を包囲殲滅する事で戦線に大穴を空けることが出来るからだ。

 一方シカゴを目指す攻勢は、成功すれば五大湖地域の戦略状況は一変するが、地形や進撃路の関係で攻勢を続けることが難しいと考えられていた。

 

 そして大和軍がどこに攻勢をしかけるにせよ、初動の段階でアメリカ軍の劣勢は否めないと言うことだった。

 何しろ同数だと互角の戦力ながら、数の方は大和側が圧倒的に多いからだ。

 しかも、大和側の方が打ち込んでくる砲弾、銃弾が圧倒的に多い事もほぼ確定事項だった。

 

 この状況の到来を長年アメリカ軍は恐れていたのだが、総力戦という新たな戦いの形態をとって最悪の形で姿を見せようとしていた。

 


 3月16日、まる5日間絶えることなく続いた砲撃は、いよいよ「宴もたけなわ」となっていた。

 大和軍は、秘密兵器の巨大長射程列車砲まで持ち出して、国境沿いの要塞陣地帯からシカゴ郊外にまで砲弾を送り届けるようになっていた。

 

 そして翌日の黎明、遂に大和軍がミシシッピ川を越えようとした。

 大和軍が選んだのは、ミシシッピ川から上流の支流イリノイ川の間。

 比較的大規模な都市まで国境から150キロ以上離れた地域で、アメリカ軍が戦略的価値は比較的低いと判断している場所だった。

 それらの地域には一面のコーン畑しかなく、それこそイリノイ川まで進撃しなければあまり価値のない場所だった。

 アメリカ軍としても、周りから予備兵力を集めることで撃退も比較的容易だった。

 

 しかし大和側にも利点があった。

 上流の方なので川幅が狭い事だ。

 また、アメリカ軍が重視していなかっただけに、当座のアメリカ軍の数も相対的に少なかった。

 

 そして、大軍が一旦対岸に橋頭堡を確保してしまえば、簡単に押し戻すことが難しかった。

 北アメリカの戦場は、基本的にヨーロッパの西部戦線とは違っていたからだ。

 状況としてはロシア軍が潰されていっている東部戦線の方が近かった。

 一部の戦線では塹壕が掘られて、要塞線を形成して睨み合いの場所もあった。

 川やアパラチア山脈などには、要衝に強固な要塞を築いている場所も多数存在した。

 しかし多くの地域は、大規模河川という天然の要害を頼りにして、あまり守備兵力が置かれていなかった。

 というよりも、全ての戦線で塹壕線や要塞戦が出来るほど、北アメリカの戦場は狭くはなかったのだ。

 


 なお、総人口順に見ると、大和は1億1000万人、アメリカは6000万、南部は2000万ある。

 半ば外様のカナダの人口は約1000万だ。

 しかし動員力、動員数には若干の差があった。

 

 アメリカは、最初からほぼ根こそぎ動員を行うことで、最初の1年で700万の軍隊を編成した。

 開戦前の動員力予測が400万人なので、既に50%以上も無理をしていたことになる。

 国内に備蓄以外の鉄鉱石(鉱山)がないため、2年以上の長期戦は基本的に考慮の外だったため、限定的な事情が無茶な動員も可能としていた。

 しかし、少し後のドイツを始めとする欧州諸国のような無茶をした場合、1000万人以上の動員も可能だった。

 欧州列強では総人口比20%の動員も行われているからだ。

 そしてアメリカは、徐々にその域に近づきつつあった。

 

 何しろ、ライバルが余りにも強大だったからだ。

 


 南部連合は、当初で約200万の軍隊を動員したが、自力での兵器や物資の供給能力に欠けるため、当面はそれ以上の動員が難しかった。

 そして南部がアテにしていた大和は、こちらも予定通り半年以内に1000万人の動員を、いとも簡単に実現した。

 根こそぎ動員すれば、この倍の数字すら達成可能だが、大和は自国経済を最低限円滑に維持しつつ戦争を乗り切るつもりだった。

 このため本格的な総力戦が始まっても、軍への動員数はあまり大きく上昇していなかった。

 しかしそれでも1000万人の大軍だった。

 

 このうち約100万をカナダ方面に送り込み、何とか根こそぎで120万を動員したカナダ軍と共にアメリカ軍をくい止めていた。

 このため約900万の軍隊が、ミシシッピ川上流域を中心としたアメリカとの国境線に展開していたことになる。

 だが大和軍は、この頃から既に後方配置の兵士の数が多かった。

 広大な国土での戦いに対する意識から、後方支援の重要性を認識していたためだった。

 このため国境線配備の軍事力は、500万人ほどだった。

 しかし後方支援が充実しているし予備兵力も多いため、実数以上の能力を持っていた。

 もし仮に、開戦直後にアメリカ軍が全力で攻撃を仕掛けたとしても、恐らくは国境線をまともに突破することは不可能だっただろう。

 そしてこの巨大で強力な軍隊が、ついに本格的に動き始めたのだった。

 

 対するアメリカ軍は、大和国境とのミシシッピ川流域とシカゴ北西部の要塞地帯には、合わせて300万人が配置に付いていた。

 だが、うち120万人はシカゴ方面に取られていた為、約700キロメートルあるミシシッピ川沿岸には、180万の軍が配備されている状態だった。

 1キロメートル当たり約2500名。

 少ない数ではないが、塹壕を掘って待ちかまえる事の出来る数ではなかった。

 このため、アメリカ軍のミシシッピ防衛は、基本的に重点的な拠点防御が中心で、基本的に沿岸部は渡河阻止のための警戒隊と砲撃部隊しか配備されていなかった。

 

 これに対して、国境線に500万の大軍を配備した大和側は、シカゴ方面に150万近い兵力を置いてもなお、350万の兵力がミシシッピ川西岸に陣取っていた。

 このうち200万が沿岸部の恒常的な防衛任務に就いており、少し後方に配備された残り150万が予備兵力と言うことになる。

 この予備兵力に、他からの抽出や新規兵力、支援部隊を加えた180万人が今回の攻勢を取る部隊だった。

 


 大和軍がミシシッピ渡河作戦を開始すると、アメリカ軍も定石通り砲撃など阻止攻撃を開始する。

 しかし砲撃量は、鉄の生産量の圧倒的な差から大和軍の方が圧倒的に多かった。

 しかもこの攻勢で大和軍は、大和軍初の空軍の大動員を実施した。

 

 これまで北アメリカの戦場では、航空機や飛行船は限定的な偵察任務にしか使われていなかった。

 三国共にヨーロッパ列強よりも先端科学技術で劣る面があったのが主な理由だが、その均衡をブリテンなどから技術導入した大和が突き崩したのだ。

 

 大和空軍は、「猛虎」と名付けられた戦闘機と武装飛行船を戦線に投入し、地上に対する爆撃、機銃掃射を実施した。

 ヨーロッパと違って対抗相手がいないので、攻撃は地上にのみ向けられた。

 そして当時は高射砲など殆ど有していないアメリカ軍に対して一方的な攻撃を展開し、主に(様々な移動のために使われる)鉄道への妨害で大きな威力を発揮した。

 また敵偵察機の撃墜も任務に含まれていたが、本格的な戦闘機を有しないアメリカ軍に対しては、殆どの場合が虐殺に等しいと言われる戦闘が展開されることになる。

 

 そして制空権を奪われたアメリカ軍は、激しい砲撃に加えて煙幕などの効果もあって相手の動きが正確に分からなくなり各所で渡河を許した。

 しかも渡河点は一カ所ではなく、一度に5箇所の渡河を敢行し全てを成功させていた。

 まさに物量の差だった。

 

 そして渡河してきた大和軍は、最低限の橋頭堡を確保すると、今度は対岸に大量の自動車両を持ち込み、先鋒兵団を編成すると次々に前進を開始。

 後方や他の方面から増援のアメリカ軍が展開してくる前に、電撃的に戦線を突破したり戦線の後方に回って攪乱したりと、やりたい放題の戦闘を実施した。

 大和軍が確保した河川地域では、人と物資を届ける無数の船が両岸を行き来した。

 

 結局、アメリカ軍は初動で大きく出遅れ、また予想した以上の場所を渡河されたため、初期の防衛線構築に完全に失敗してしまう。

 また、国境全線での砲撃戦は依然として続いているし、欺瞞の可能性が高い渡航準備も各所で見られるため、予備兵力の移動はともかく、各地の駐留軍の大幅な引き抜きは無理だった。

 

 次善の策としてアメリカ軍は、国境線の深く入った場所での戦線再構築を狙ったが、これもうまくはいかなかった。

 アメリカ軍は、大戦初期のドイツ軍の動きを研究し、急速に進撃した大和軍がへたり込む頃合いを図って防衛線を作り、反攻に転じる計画行い準備もしていた。

 

 しかし、いつまで経っても大和軍はへたり込まず、運動戦のまま状況が推移した。

 しかも相手の動きが早くて読めないため、新たな塹壕線を作り上げることが難しく、気が付けば大和陸軍の誇る大騎兵部隊(※この時は8個騎兵師団、5万騎以上の騎馬兵団)に、国境深くに攻め込まれることになった。

 国境深くには軍が配備されていない事も多いため、この時最も奥地まで進出した大和の騎兵部隊は、国境から400キロ以上離れたインディアナポリス郊外にまで到達していた。

 そして騎兵部隊が、鉄道や電信、橋梁などを破壊して回るため、その後のアメリカ軍の移動や情報が大きく乱れることになる。

 


 大和軍の大規模渡河作戦決行から、約一ヶ月が経過した。

 

 一ヶ月という時間は、開戦時のドイツ軍がマルヌでへたり込んでしまった時間とほぼ同じだったが、北アメリカの大和軍はまだ元気が有り余っていた。

 一部では両岸の街と鉄道を確保して、鉄道による補給や移動すら開始していた。

 

 軍の主力は既に作戦目的地点まで到達し、さらに予備作戦だった第二次作戦の発動準備に入っていた。

 大和軍の最前線は、シカゴ西方150キロにまで迫り、もしこのまま大和軍の進撃が順調に進めば、唯一の陸での国境にあるシカゴ要塞の120万のアメリカ軍とシカゴ市は、大和軍によって大きく包囲されてしまう恐れが出てきていた。

 

 しかも大和軍の前面にはコーン畑以外の障害物はなく、現地アメリカ軍の数はシカゴ北西部の要塞陣地にいる部隊を除けば大和軍の方が多かった。

 加えて約一ヶ月間の戦闘では、大和側は約20万の兵が死傷していたが、それ以上の数が増援として送り込まれつつあった。

 対するアメリカ軍は、戦闘正面にいた30万のうち半数が正面からの戦闘で粉砕され、周辺から増援として集まってきた部隊、予備兵力も既に10万以上が死傷していた。

 つまり、アメリカにとっての西部戦線に配備された兵力のうち、10%近くが約一ヶ月の戦闘で失われた事を意味していた。

 ミシシッピ川方面と限れば、この数字は15%以上に上昇する。

 

 この窮地に、アメリカ全土では大和を撃退せよとの声が高まり、軍のさらなる動員が急ぎ実施されていった。

 また、不利を承知で他の戦線からの大幅な引き抜きも実施された。

 

 しかしアメリカの動きは少しばかり遅く、先に体制を整えた大和軍はそのまま第二次攻勢を開始する。

 

 大和軍の第二次攻勢とは、シカゴ北西部の「ロックフォード要塞線」の後方に回り込み、同要塞前面にいる友軍と連動して、敵要塞を包囲してしまうことにあった。

 ロックフォード要塞線が崩れてしまえば、陸路からのシカゴへの道は開かれたも同然であり、同時にアメリカ陸軍に大打撃を与えることも出来た。

 


 1916年4月初旬、大和国内の多くで桜の花が咲き誇る頃、アメリカ軍は最初の大きな危機を迎ええつつあった。


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