フェイズ18「帝国主義化する日本」
ウィーン体制下で、日本は異端の列強だった。
何しろ有色人種国家であり、世界の果てにあってヨーロッパ社会から見た辺境の土地をほぼ全て有しているからだ。
異端という意味では、有色人種国家にして共和制国家の大和共和国の方が余程異端だが、異端すぎる上に首都が当時のヨーロッパから最も遠い場所にあるため、アメリカ以外はほとんど相手しなかった。
しかし日本は、ヨーロッパ社会にとって一応相手にしなければならない相手だった。
ロシアは、辺境部で国境を接していた。
ブリテン以下他のヨーロッパ列強にとっては、東アジア最強の国家だった。
しかも世界でほぼ唯一金本位制による経済制度を持つ国のため、世界中がその富を欲しがった。
このため文明の産物を日本は容易く手にしており、ブリテンの国家規模での技術独占や金の獲得と言った外交戦略は、金に目が眩んだ同胞や隣人により多くが機能しなかった。
しかし日本の前途が順調だったわけではない。
特に深刻だったのが、1833年から37年まで続いた日本列島全体を襲った飢饉だった。
海流の流れが変わるという一時的な気象変動がもたらしたこの時の異常気象で、日本では毎年不作となり、各領地、東南アジア諸国、さらには関係改善に努めた大和共和国からの輸入だけでは対処できなかった。
このため勝手に大和へと旅立つ人々を見ないことにして、大濠州、新海への大規模な移民計画を推進し、10年間で合わせて約300万人が海外に移民した。
それでも国内の食料は足りず、貧民を中心に50万人の餓死者が出たと言われた。
文明の革新が進んでいたのにこれほどの規模の飢饉となったのは、まさに文明の革新が影響していた。
日本はウィーン会議に産業革命の準備段階に入り、1830年頃には都市の肥大化と人口の拡大が起きていた。
そのうえ豊臣時代の繁栄の中で人口が野放図に増えていたため、総人口は19世紀幕開けした頃で4000万人を超え、さらに四半世紀で500万人以上増えていた。
17世紀からの海外進出以後も、相応に人口は流出していた。
その上、18世紀中頃からは毎年10万人以上が海外領土や大和共和国に移民しているので、この程度で済んでいたと言えるだろう。
そしてこの時の飢饉による損害、移民事業による出費は大きな痛手で、日本での産業革命の進展を鈍らせることになる。
それでも1833年に最初の鉄道敷設が京=大坂間で開始されるなど、進展速度が衰えても止まることはなかった。
既に日本は立憲君主国家として国民国家への昇華に成功し、民意が発展を望んでいたからだ。
また近代資本家達の活発な活動が、日本全体の活動を助長した。
しかし痛手は痛手であり、日本はそれまであまり手を広げていなかった、ヨーロッパ的植民地経営を東南アジアで押し進める事になる。
とにかく金が必要だったからだ。
しかし安易な収入は麻薬にも似ており、以後強権的な植民地経営は日本での帝国主義を進展させる原動力となった。
その後、1840年に起きた「阿片戦争」は、日本人にとって一つの転機となった。
この戦争を、最初日本人はブリテンも馬鹿な戦争を始めたと考えていた。
ブリテンは海では相応に勝てるかもしれないが、それ以上にはならないと予測していたからだ。
しかし念のため監視に出向いた軍艦は、驚きの光景を目にした。
それほど重武装でもない東インド会社の武装蒸気船《ネメシス号》が、まるで射的大会のように清朝の軍艦を一方的に沈めたからだ。
この報告を受けた日本海軍、日本政府は大きなショックを受け、緊急措置として大量の高速蒸気船を民間から大量に購入して、臨時の武装を施した仮装巡洋艦にしたてることで装備の革新を開始した。
また同時に、建造中の帆走軍艦は建造をほとんど全て取りやめ、蒸気動力(外輪)と搭載する艦艇への設計変更が行われた。
また既存の艦艇でも、建造年次が新しく改装可能な構造の艦艇に順次蒸気動力への更新が行われた。
この海軍の大きな変化には多くの予算が必要で、また一気に膨れあがる石炭需要を満たすために、臨時の石炭輸入までが行われた。
しかし、ブリテン以外のヨーロッパ諸国よりも早く対応した事には一定の価値はあった。
少なくとも、自分たちの持つ力に気が付いたブリテンが、日本に牙をむくことは無かったからだ。
そしてこの頃、日本政府に朗報がもたらされていた。
大濠州大陸南東部山岳地帯で巨大な炭坑、しかも良質の炭坑が発見されたからだ。
しかも前後して、大陸北西部では巨大な鉄鉱石の鉱山も見つかっており、当時日本で銅の産出が多かったことを合わせれば、日本が産業革命を押し進める上での工業原料に関する障害はほとんどなくなった事を意味していた。
しかも1840年代ぐらいから、日本各地、大濠州で大規模な鉄道敷設が進んだため、製鉄業、機械産業などの重工業分野での産業革命が大幅に進展することになる。
鉄道の敷設は、その後植民地の台湾、ジャワ島などでも進められ、日本列島に膨大な資源と食料、嗜好品が流れ込む体制が作られていった。
そうした情景は、西ヨーロッパ地域で見られる光景と似通っていた。
唯一の違いは、それが単一民族国家で行われているという事だった。
日本に最も近い朝鮮王国とは、いまだ海禁政策中で正式な国交が成立していなかった。
日本は新国家成立後に一度朝鮮に使節を送ったのだが、朝鮮側の返答は「豊臣王朝が滅んだのは大変喜ばしいが、日王(天皇)を君主とする国との国交を結ぶことはできない」というものだった。
清朝は、阿片戦争に敗北しても、依然として日本を見下す外交しかしなかった。
いっぽうの日本側では、民意では近隣諸国への失望が広がりつつあった。
それに当時の日本にとっての重要事項は、自国の産業革命の達成と、植民地経営、大濠州、新海諸島、北海州の入植事業の成功と基盤整備にあった。
ブリテンが遂に清朝の門戸をこじ開けた以上、自らの城壁を強固にすることを第一に考えなければならなかったからだ。
大濠州大陸の開発は、1650年代のゴールド・ラッシュに端を発し、1670年代には早くも定住農民が現れていた。
また、大坂御所の流刑地や「棄民」政策によって放り出された日本人のかなりが、18世紀初期の頃までは濠州を中心に流れ込んでいた。
そして日本人と日本人が連れてきた家畜によって広まった疫病によって、先住民がパンデミックにあって激減すると、相応に優れた開発有望地が広がっていた。
しかし開発は大陸東部沿岸が中心で、一部が南東部に注ぎ込む真鈴川周辺にも居を構えた。
邪魔な先住民は、同化を拒んだ場合は容赦なく軍を用いて荒れ地に駆逐した。
しかし濠州では、灌漑を用いても稲作のできる場所は限られており、できても陸稲が主体だった。
また北東部を中心に雨量が相応に見込める地域はあったのだが、地力が驚くほど貧弱だった。
このため魚肥などを投じても収穫量がなかなか増えず、当然ながら日本人移民はあまり伸びないままの状態が続き、18世紀に入ると移民の中心は北アメリカ大陸へと移った。
しかし19世紀に大和共和国が独立すると、濠州は日本政府にとっても最も重要な入植地へと変化した。
1820年頃の濠州の人口は約250万人。
一部で農業経営、牧畜が軌道に乗り人口も拡大傾向にあった。
18世紀後半にブリテンの探検家が南太平洋各地にやって来たが、その頃には濠州では十分な日本人社会が形成されていた。
これは近隣の新海諸島でも同様で、ヨーロッパにとって未知の世界に近かった南太平洋各地に日本人が進出していることにブリテンは驚いた。
しかも濠州や新海の整備された港に日本の軍艦が浮かんでいるとあっては、ブリテンも安易に進出したり田舎泥棒的な侵略を行うわけにもいかなかった。
それでもブリテンは、原住民族に武器を密売して日本人を困らせたりもしたが、特に戦う相手のいなかった日本軍は喜び勇んで、勇猛なマオリ族との戦闘を行ったりもした。
そして、濠州など南太平洋各地の日本人領域(=大洋州)は、ウィーン会議によりヨーロッパ諸国にも承認され、尚更日本は大洋州の保持と発展に力を入れるようになる。
大洋州の領域を確保するためマレー半島をブリテンに売り渡したと思えば、十分な取引だったとも言えるだろう。
そして日本政府が濠州の開発を精力的に進めている最中に、大飢饉が発生してから10年間で日本を脱出した300万人のうち120万人が濠州に、20万人が新海諸島に、5万人が南太平洋の他の地域に移民した(※同時期大和には、ほぼ残り全ての140万人が移民している)。
これで濠州の人口は一気に400万人を超え、資材、資金を投じた開拓の促進による効果もあって、各地の開発も大きく進展した。
濠州東部沿岸では、1838年に早くも最初の鉄道も建設されている。
さらに1850年代に入ると、炭坑、鉄鉱石鉱山の開発のための移民、労働者が流入し、現地での自然増加もあって爆発的に人口が増えていった。
一方、近在の新海諸島だが、こちらは濠州よりもやや寒冷で比較的温暖な北島だとある程度の農業が可能だったが、南島は山と原野ばかりで農地には向いていなかった。
このため移民もあまり伸びず、また現地のマオリ族が好戦的だったため、開発が本格化するまではかなりの地域が開発されぬまま放置されていた。
ある程度注目されたのはブリテンの探検隊が来て以後で、開発が本格化したのは19世紀に入ってからだった。
そしてこちらも1830年代に人口が一気に伸びて、その後ヨーロッパから導入した農法、牧畜などの技術の普及により農業、放牧が盛んとなり人も増えるようになっていく。
他、南洋の小島域、黒島域、多島域も、ウィーン会議で日本の管理下であるという認識がなされたため、それらにも影響力を浸透させた。
ハワイ、フィジー、トンガ、サモアなどの現地国家との関係も強化し、文明の利器を与えたりもした。
また商船、軍艦を各地に巡回させたり、一部の島に拠点を築いて自分たちの縄張りであることを示した。
とは言え太平洋の全てをカバーしたわけではなく、南太平洋西部には日本人はほとんど行く事もなかった。
そして北辺の地の北海州だが、世界で最も寒冷で不毛な土地の開発、入植、移民は非常に難しかった。
かつては毛皮、黄金で栄え今も材木業や一部金鉱の産業はあった。
毛皮が取れる獣も激減した後に、一部人工繁殖による家畜化で産業として復活しつつあった。
しかしまともな農業、牧畜業が難しい土地のため、一定数以上にはなかなか増えなかった。
そうした中で、日本人としてはもう少し南に基盤となる土地が欲しいと思うようになる。
その場所とは、外満州とも呼ばれていたアムール川流域であり、できれば北満州か外満州程度が得られないかという目で、日本海の対岸を見るようになっていた。
しかも万里の長城以北の土地は、清朝が満州族先祖伝来の地として漢族の移民を一切認めていない、まるで開発してくれと言わんばかりの土地だったため、世界の列強に先駆けて日本が視線を注ぐようになる。
そして1840年の阿片戦争が落ち着いた頃に、日本から清朝への近代兵器、最新技術の産物の輸出を持ちかけ、その場所としてアムール川流域を使うことを提案する。
そこならヨーロッパ諸国の目をごまかしやすいし、他から離れているので両者の貿易制御が行いやすいだろうというものだった。
この話に清朝は乗り、1843年からアムール川河口部で日本と清朝の間での貿易が本格化する。
そしてその後日本は、何かと口実を付けてアムール川の遡上を行い、ロシア人が黒海で戦争を始める頃には、アムール川流域を事実上の日清雑居地にまで持ち込むことに成功する。
しかもこの間、ヨーロッパ諸国はロシアとの間に「クリミア戦争」を始め、北東アジアへの注目度を大きく低下させる。
一方で清朝内では、「太平天国の乱」と呼ばれることになる大規模な内乱が発生して、清朝から日本への発注が大増発となった。
日本からは、武器や最新の道具ばかりでなく軍事顧問も派遣され、清朝の近代軍育成に力を貸すことになった。
もっとも、清朝内での反発のため、日本人顧問による軍の近代化は武器の導入以外で殆ど何の進展もなく、しかも日本人蔑視の感情から武器に対する兵士の訓練までが疎かになったため、清朝は日本に武器売買の特需を与えただけという始末だった。
一方大和共和国が、太平天国の乱で苦しむ清朝に借款を申し入れた。
これは日本も了承したもので、大和領内で豊富に産出する銀を可能な限り高値で処分するのが目的で、大和では清朝がまともに相手にしてくれないので日本を仲介とした借款となった。
とにかくこの結果、清朝は多数の銀を手に入れたが、その総額は僅か10年で3億両(=5000万£)に達した。
このため大和は利子で、日本は仲介料でぼろ儲けした。
なお日本には、「クリミア戦争」が激化する頃にブリテン、フランスから対ロシア宣戦布告の誘いがきていた。
話を要約すれば、「ちょっとシベリアをつついてロシア軍を牽制してくれ」というものだった。
これに対して日本は、勝利した暁に占領した領地を割譲するほどロシアを攻め立てるのかと問いただし、明確な返答がなかったため軍を国境に並べて牽制するという好意的行動を取るに止めた。
さらにその後、セバストポリ要塞戦が膠着状態に陥ると、もう一度ブリテン、フランスから日本に参戦と派兵の要請があるが、地球の反対側に等しい場所への派兵は極めて難しいと返答した。
ブリテン、フランスも、日本が参戦すれば儲けものぐらいの誘いだったためそれ以上強く言ってくる事はなく、日本のクリミア戦争に対する姿勢はどこか八方美人的な対応のまま終わりを告げる。
とはいえ戦争の結果は、黒海の軍事的中立、オスマン領の保全程度だったので、日本は無駄な戦費を使わずに済んだと満足していた。
そしてクリミア戦争が沈静化する頃、今度は清朝が再び戦争に巻き込まれた。
フランス、ブリテンが難癖を付けて仕掛けた「アロー戦争」だった。
「第二次阿片戦争」と言われる侵略的な戦争で、今度は天津攻め込まれた上に、太平天国の乱で疲弊していた清朝は敗北を喫する。
ここで日本、大和は戦争に加わることはなく、代わりに清朝に仲介を申し入れる。
同時にロシアも仲介を買って出たが、地形上でロシアは東アジア情勢にまで介入しにくいため、日本人に軍配が上がった。
しかし仲介には、共和制国家の大和は信用できないとして両者から除外され、日本がブリテン、フランスの仲介役となった。
そしてこの仲介料として、日本はアムール川以北の譲渡を受け、同時にアムール川南岸の外満州(沿海州)、北満州を共同管理地(雑居地)とする事に成功する。
しかし1858年に結ばれた天津条約を清朝側が不服として戦闘を再開したため、その後さらに戦闘は続き1860年に北京条約が結ばれることで最終決着となった。
清朝はさらに敗北を重ねたため、ブリテンにさらに領土を割譲し、多くの港を開港することになる。
そしてもう一度仲介役となった日本は、仲介料、大和の借金の一部肩代わりを条件として、共同管理地の譲渡に成功する。
清朝側の思惑としては、誰も住んでいない場所など惜しくないし、それで借金が目減りする上に、北満州でロシア人と睨み合うのが日本人となることは国防上でも有利なことだった。
そして当然のようにロシアが反発した。
北東アジアの安全を脅かすものだとして日本を非難する。
しかしロシアによるアジアの南進を警戒する国の方が多かったため、ロシアの論調に乗る国はなかった。
また、日本が色々得すぎたと考える国は多かったが、日本が得た土地が人も殆ど住まない荒野ばかりなので極端に反発する事もなかった。
そしてヨーロッパ諸国の反応には、大和共和国の反応が関わっていた。
大和共和国は、日本ばかりが良い目を見たと反発する。
だが、まだ当時民主共和制国家が危険視されていた時代な上に大和は有色人種国家だったため、他国の手前強く言うことも出来なかった。
ただこの時、日本人同士の間に再び亀裂が入った事は動かしがたい事実だったと言えるだろう。
しかもこの頃の大和は、旧大陸の事よりも新大陸に大きな注目をしなければならなかった。




