第75話
十一月二十一日、火曜日。
午後四時過ぎ、茉鈴はおとぎの国の道明寺領にアルバイトで訪れた。
スタッフルームで少し待つと、玲奈が姿を現した。
「お、お疲れさまです……」
「玲奈、大丈夫?」
「はい。お陰さまで」
茉鈴には、玲奈の笑顔がまだどこかぎこちなく見えた。
交換留学の落選以来、玲奈はアルバイトをずっと休んでいた。精神面だけではなく――個人での海外留学に切り替えたことから、手続きで休まざるを得なかった。
一応、今日から復帰ということになっている。茉鈴としては、先日一緒に紅葉狩りに出かけたとはいえ、落ち込む時間がまだ必要だと感じた。
「レイナ様、お久しぶりですわ。本当に大丈夫かしら?」
「そうだよ。お店のことなんか気にしないで……無理しなくてもいいからね」
部屋にハリエットと英美里も現れた。
英美里がそのように言うが、茉鈴には玲奈と店の両方を心配しているように聞こえた。
「無理はしてません。一週間も休んで、ご迷惑かけました」
玲奈が申し訳無さそうに頭を下げた。
実際に責任を感じているのか、茉鈴にはわからない。だが、玲奈本人から、来年春の海外留学までに少しでも稼いでおきたいと、事前に聞いていた。その気持ちには、とても理解できる。
「何かあれば、私がフォローします」
玲奈ひとりならまだしも、自分が傍に居れば安心だと、茉鈴は思っていた。だから、復帰を許した。
「それは頼もしいですね」
英美里の何気ない言葉が、茉鈴にはなんだか冷やかしに聞こえた。
恥ずかしいが、玲奈との関係はもはや周知の事実なので、堂々と構えた。それほど真剣だという意味合いも含まれている。
「そうですわねー。いきなりバイトをバックレるぐらいですものねー」
「ちょっと……。まだイジるんですか、それ」
ハリエットがにんまりとした笑みを浮かべ、茉鈴は呆れた。
玲奈に電話をしたあの日、開店直前で急に店を飛び出したのは、確かに悪かったと思う。解雇を覚悟していたが――後で事情を全て話したところ、ハリエットから理解を得た。これまでの功績も考慮され、玲奈と共に処罰は免れた。
「まあ、ふたりやったら安心やわ。ほな、頼むでー」
ひらひらと手を振りながら、ハリエットは英美里と部屋を出ていった。
茉鈴がこの店でアルバイトを始めて、約四ヶ月となる。それほど長くない月日だが、店主から信頼されていることが嬉しかった。そして、大学を卒業するまで――時間が限られているにしろ、少しでも期待に応えたいと思った。
部屋でふたりきりになり、茉鈴は玲奈と頷きあった。そして、衣装に着替えた。
午後五時になり、店が開く。
客がやってくるが、それほど多くはない。平日の、いつもの調子だと茉鈴は思った。
「レイナ様、戻られたのですか!?」
「はい。ご心配かけました」
「そんなことないですよ! めっちゃ嬉しいです!」
だが、先週は居なかった玲奈の顔を客が見るや否や、それぞれが復帰を喜んでいた。
玲奈に限らず演者の出勤に関する情報を、店側はウェブサイトやSNSで特に発していない。玲奈の復帰が客を通してSNSで広まったことを、店側も茉鈴も、後で知る。
平日にも関わらず、店は次第に混雑してきた。午後八時にもなれば、珍しく満席になった。
大勢の客達に囲まれている玲奈を、茉鈴は少し離れたところから眺めていた。心配だったが、落ち込んでいる様子も、無理をしている様子もない。
茉鈴としても、ドレス姿の玲奈を見るのは久々だった。だから、かつて――この店に客として訪れ、初めて見た時のことを思い出した。
凛とした気品ある佇まいが赤いドレスにとても似合い、女王のように美しかった。その姿に、再び恋をした。
玲奈の泣き崩れたところも、弱音を吐いたところも、失敗したところも、女王らしかぬ姿を目の当たりにしてきた。それでも幻滅しなかった。
レイナではなく玲奈が好きだと、本心を伝えた。しかし、多くの人たちから慕われている今の姿は――やはり、紛れもなく女王だった。
茉鈴はまるで自分のことのように、誇りに思う。理想を強要するわけではないが、可能であればこの姿をなるべく見たい。だから、無理なく自然とこのように立ち振る舞えるよう、支えたかった。
「レイナ様が戻られて……やっぱり、マーリン様が一番嬉しいですよね?」
ふと、近くに居た客から訊ねられた。
ハリエットから口止めされていないにしろ、個人としての玲奈との付き合いや関係を、客には絶対言えない。一週間も離れていたわけではないので、特に寂しくはなかった。
「そうだね……。あの人は、ああでなくっちゃ」
だが、この姿を見ることが出来たのは、素直に嬉しかった。
茉鈴は笑みを漏らすと、玲奈に近づいた。そして、ローブの袖で包み込むように、背後からそっと抱きしめた。
いくら茶番とはいえ、かつては拒まれたこともあった。しかし、現在はもう驚かれることすらなかった。
「おかえりなさいませ、レイナ様」
「ええ……。随分待たせたわね、魔法使い」
振り返った玲奈から、柔らかな微笑みを向けられた。
茉鈴は、思わずこのままキスをしたい衝動に駆られるが、ぐっと我慢した。
ふたりで見つめ合ったところで、店内は黄色い歓声に包まれた。
午後十一時になり、茉鈴は玲奈と共にアルバイトを終えた。
衣装から私服に着替え、ふたりで店を出る。
まだ明るい繁華街を、ふたりで駅まで歩いた。もう茉鈴が意識せずとも、自然と手を繋いでいた。
ふと、隣を歩く玲奈から、頭を撫でられた。
「もう二ヶ月くらいですか?」
その月日から、縮毛矯正した毛髪のことを指しているのだと、茉鈴は理解した。そして、質問の意図も、およそ察した。
「うん。そろそろ、根本が気になる頃かな」
縮毛矯正を一度行うと、癖毛に戻ることは半永久的にない。
ただし、それは施術した部分に限る。体質に変化が無い以上、新たに生えてくる部分は癖毛のままだ。
茉鈴は九月に施術を受けた際、担当した美容師から、三ヶ月を目処にかけ直すよう言われている。玲奈も、頻度が気になっているのだろう。
「でも……もういいや」
かつては嫌っていた癖毛が恋しくなったのは、いつからだろうか。
茉鈴は就職活動を始めるにあたり、姿形から入ろうと施術を受けた。今でこそ馴染んでいるが、周囲の反応が今ひとつだったことも覚えている。
それも小さいながら、理由のひとつだ。三ヶ月毎にかけ直すのが面倒なのも、同じだった。
癖毛に戻そうと思った、主な理由は――あるがままの姿で居たいからであった。きっと、もう嫌うこともないだろう。
「わたしも、前の方が好きです」
そう。わざわざ矯正しなくとも、愛する人が肯定してくれるのだから。
「流石に、もう変な色に染めることは出来ないけどね」
教師として働く以上、黒を基本とした落ち着いた髪色が求められる。
黒色のまま癖毛に戻るとなれば、即ち大学入学当初の頃に戻ることになる。
だが、再びカーキグレージュに染めたいとも、もう思わなかった。髪色も含め『あるがまま』で在りたい。
「黒のままでも全然いいと思いますよ」
「ありがとう。けど、まあ……完全に戻るまでは、まだまだ時間かかるや」
根本から新たに生えてくる癖毛が現在の長さまで伸びるまで、年単位の時間を要するだろう。
「いいじゃないですか。のんびり待ちましょう」
「そうだね……。ていうか、途中で絶対変になるけど、笑わないでよ?」
「それはどうですかねー」
にんまりと笑う玲奈の頬を、茉鈴は指先で突いた。
明るい髪色に染めるも根本が伸びて黒くなり『プリン色』の頭をしている人が、思い浮かぶ。きっと、それに似た現象が起きるのだと、想像しただけでも恥ずかしかった。
しかし、その経過を経て、髪が生え変わる。
「あっ、そうだ」
未来を考えていると、あることを思い出した。
「玲奈が就職したい会社の勤務地……もしわかるなら、教えてくれない?」
「いいですけど、それがどうしたんですか?」
突然の質問に、玲奈が首を傾げる。
確かに意図が伝わり難いと、茉鈴は思った。
「えっとね……教員採用試験って地域ごとだから、そろそろ絞りたいなーって」
教員免許を取得した後のことを考えていたのであった。教員採用試験は地域で出題傾向が違うため、希望する学校に目星をつけなければ、試験対策が取れない。
そのうえで、玲奈の勤務地を訊ねる意図は――
「え……それって……」
玲奈はそれに気づいたようで、息を飲んだ顔を見せた。
だが、次第に頬が緩んでいく。
「うん……。玲奈も卒業して、お互い社会人になったら……一緒に暮らそう」
茉鈴は恥ずかしいながらも、玲奈の目を見てはっきりと口にした。
勤務地を選ぶ理由としては不純かもしれないが、そのような理想がある。なるべく玲奈に合わせたい。
「はい!」
玲奈はとても明るい笑顔で、力強く頷いた。
きっと今度は上手くいくと、茉鈴は確かな未来を予感した。自然と笑みが漏れた。
街はまだ明々としているが、十一月の深夜はとても寒かった。
だから、茉鈴は玲奈と肩を寄せ合って歩いた。吐く息が白くなる中、繋いだ手がとても温かかった。
遠くの頭上では、綺麗な星々と共に、月が白く輝いていた。鮮明な灯りは、まるでこれからの道を照らしているかのようだと茉鈴は思った。
そして、冷たく澄んだ夜空から――秋が終わり、冬へ移ろうのを感じた。
第25章『灯り』 完
次回 終章『癖毛に生え変わった頃』




