第73話
『わたし……ダメでした』
携帯電話越しに、玲奈の泣き声が茉鈴の耳に届く。
否定、即ち交換留学の選考に落選したのだと茉鈴は理解する。玲奈の将来が閉ざされる。
どうして!? きっと何かの間違いだ!
茉鈴は反射的に感情が大きく動くも、小さく鼻をすする声が、かろうじて冷静さを繋ぎ止めた。
そう。今は選考結果の是非よりも、玲奈がひとりで泣いていることが問題だ。ふたつに因果はあるが、まずはひとりで悲しませたくない。傍に居なくてはいけない。それが自分の役目だと、茉鈴は悟る。
「今からそっちに行くから!」
茉鈴はそう伝え、電話を切った。そして、すぐに私服に着替え、スタッフルームを出た。
「すいません! 今日、休みます! 玲奈のところに行ってきます!」
「え……」
突然のことに理解できない様子のハリエットを横目に、正面玄関から店を飛び出した。事情を話す余裕すら無かった。
アルバイトとして雇用されている身でありながら、最悪の態度を取った自覚が茉鈴にはあった。だが、解雇される覚悟もあった。
何にせよ、実に身勝手だと思う。それほどまでに、玲奈が心配だった。
茉鈴は駅まで息を切らして走り、電車に乗る。
時刻表通りにしか運行できないと理解していても、走るのが遅く感じ、焦燥が込み上げた。だが、ここで取り乱してはいけないと、なんとか自分を落ち着かせた。
そして、玲奈を支えるため、自分に何が出来るのかを――抽象的な希望ではなく現実的な手段を考えながら、電車に揺られた。
やがて目的地で電車を降り、玲奈のマンションへ走る。玄関のインターホンで部屋番号を入力して呼び出すと、無言で扉が開いた。
最上階である六階へと、エレベーターで上がった。時刻は午後五時半を過ぎ、空はすっかり暗くなっていた。
冷たい風が、廊下を歩く茉鈴の頬に触れる。衝動的に店を飛び出したものの、いざ部屋の前まで近づくと――茉鈴自身にも不安が込み上げた。
臆病で弱く、これまでも玲奈を傷つけてきた。こんな自分に、玲奈を支えることが出来るのだろうか。
いや、弱音を吐くな。出来ないのではなく、やるしかないのだ。
現在の自分が在るのは、玲奈の御陰だ。辛い時には支えて貰った。だから、今度は――落ち込んでいる大切な人の腕をしっかりと掴み、引き上げなければいけない。
茉鈴は部屋の扉の前でひと呼吸つき、自身を奮い立たせた。
そして、インターホンに右手の人差し指を伸ばすが――そのまま下ろし、扉のノブに手をかけた。思った通り、扉は開いていた。
部屋は暗かった。茉鈴は勝手に上がり、天井の電灯を点けた。
部屋の隅にあるベッドで、玲奈が膝を抱えてうずくまっていた。すすり泣く声が、茉鈴の耳に届く。
「上げてくれて、ありがとう」
茉鈴は駆け寄るより先ず、感謝の言葉を口にした。
わざわざ解錠の行動を取ってくれたことを、労った。どれほど些細でも、肯定が必要だと思ったのだ。
そのうえでベッドで隣に腰掛け、玲奈の両肩にをそっと両手を置いた。
「辛いこと訊くけどさ……何がダメだったの? 第一希望がダメだった? それとも……まさか、留学自体が出来なくなった?」
冷静になっているからこそ、その疑問が浮かんでいた。
電話での一報からでは、詳しい現状が把握できない。交換留学の制度として、第一から第三までの希望国を申請すると、過去に玲奈から聞いている。
少なくとも第一希望に落選したことは、察する。だが、残りふたつも落選したのか、それともどちらかに引っかかったのかでは、大きく違う。
「第二希望には受かりました……」
玲奈が膝に顔を埋めたまま、ぽつりと漏らした。
事実としては、最悪の事態を回避したことになる。
「でも、それだと意味が無いんですよ! 第一希望に行きたかったのに!」
膝から顔を上げた玲奈から、悲痛に訴えかけた。
第一希望として挙げたのは、玲奈が卒業後に就職したい金融企業のある国だ。だから留学で文化に馴染んでおきたいという強い想いを、茉鈴は以前から聞いていた。交換留学として倍率の高い国であるにも関わらず、人生設計の通過点であることも知っていた。
第二希望がどれだけ真剣なのか、わからない。何にせよ、過去から描いていた計画がこうして頓挫したことが、玲奈にとっての『最悪』なのだ。
「第二希望には行きたくないんだね? どうしても、第一希望じゃないといけないんだね?」
茉鈴は念のため確かめると、玲奈が涙を流しながらはっきり頷いた。
先ほど、電車の中でこの事例を想定していなかったわけではない。ただ、どの事例であろうと、玲奈を支える『現実的な手段』はひとつしか用意していない。
「それじゃあ、第一希望の国に、交換じゃなくて個人で留学しようよ――私が三十万、出すから」
この場でどれほど綺麗な言葉を並べて慰めたところで、大学生活で交換留学の機会はもう無い。このままでは、玲奈の人生設計が破綻する可能性が高い。事の深刻さを、茉鈴は理解しているつもりだった。
だから、直接の力になる手段を考えた結果が、これだった。
約四ヶ月のアルバイトで稼ぐも、それほど贅沢はしていない。現在の貯金から、現実的に出せる額を口にした。
「玲奈だって留学のためにバイト頑張ってたんだから、貯金あるでしょ? それに、個人の留学でも奨学金の申請は出来るみたいだよ」
奨学金の制度も、玲奈の希望する国への三ヶ月の留学費用も、茉鈴は電車の中で調べておいた。
憶測だが、玲奈が第一希望に落選したのは、他の生徒との相対的な評価――おそらく志望理由でだろう。成績自体は一定の水準を満たしているため、奨学金はきっと受けられる。
そして、玲奈が貯金している留学費用を、自分と同等かやや少なめに想定した。
それらの数字で見積もれば、個人留学は現実的に可能だ。まだ希望はある。だから、茉鈴はこうして提案した。
「……受け取れません」
玲奈の瞳が大きく見開く。一度は驚くも、茉鈴から視線を外さず、ぽつりと漏らした。
三十万円という額は、大学生にとっては大金となる。気を許せる相手とはいえ、いつ返せるかわからない借金を背負うのは確かに抵抗があると、茉鈴は思った。
「これは……私が玲奈の未来を信じて、投資するようなものだから。何かを返そうなんて、難しく考えなくていいよ。だから、どうか受け取って欲しい」
だが、元より貸すという感覚ではなかった。何も見返りを求めていない。そもそも、愛する人を大切に扱うことに、理由は不要だ。
茉鈴は玲奈に、優しく微笑んだ。
「私はキミに、後悔だけはして欲しくないんだ。理想の未来を掴むために……折角のチャンスを、無下にしないでよ」
そして、玲奈の頭をそっと撫でた。
気遣って言葉を選んでいるつもりだが、玲奈に重い圧を掛けている実感があった。それでも、きっと玲奈なら受け取ってくれると、信じた。
「ありがとうございます……。茉鈴の気持ちは嬉しいです……」
一度は落ち着いた玲奈の瞳に、再び大粒の涙が溜まった。
「でも、こんなわたしが情けなくて! 自分のことが許せなくて!」
玲奈が俯き、泣き叫んだ。
とても痛々しい姿に、茉鈴は玲奈の細い肩を抱きしめた。反射的な行動だった。
視界の隅に、テーブルの白い花が映る。
そう。この女性は気高く、凛とした佇まいを見せ、まるで女王のようだった。だからこそ惹かれたのだと、茉鈴は思い出した。
確かに、情けを受け取るのは矜持が許さないのだと、納得する。
「わたしは全然気高くありません! こんなのじゃ、茉鈴に嫌われるかもって、怖いんですよ!」
いや、違う――茉鈴の中で、焦燥に似た違和感が芽生える。
これに似たものを、最近感じたような気がした。
――わたしも……茉鈴のために、頑張りますよ。
文化祭の日だったと、思い出す。
何を頑張るつもりなのだろう。その疑問に気づかず、当時は違和感として纏わりついたのであった。
玲奈が何を努めようとしているのか――今は明白だった。否、思えばこの部屋で気持ちを確かめ合った時でさえ、玲奈は蛙化現象を恐れていた。その後も、無理をしている節が稀に見受けられた。
そして、こうなったことには全て自分に非があると、茉鈴は自覚した。
かつては臆病さから、玲奈に『気高い女王』という理想を抱いたのだから。玲奈をここまで苦しめたのは、紛れもなく自分自身だった。
「違う! 女王じゃなくていい! キミは私にとって灯りなんだ!」
だから、茉鈴は正面から玲奈の肩を掴み、改めて否定した。
昨年、図書館で出会った時は思い出せなかったが――今この場で、過去に読んだ書物の内容を思い出した。
レナという女性名は世界中に存在するが、各言語圏でそれぞれ意味が違う。ある言語では『優しさ』を、ある言語では『喜び』を、そしてある言語では日光や月光の『灯り』を意味する。それが転じてか、暗い道を照らす『光』や『松明』の言語圏もある。
「キミは、暗かった私の道を照らしてくれた……。無理しなくたっていいんだ。あるがままでいいんだよ。キミという灯りが、これからも私を照らしてくれるから……。そのために、私はキミを支えるよ」
茉鈴は臆病から抜け出すにつれ、変化があった。かつての玲奈に抱いていた理想は薄れていた。
「だって、私が好きになったのは……蓮見玲奈ていう、ひとりの女の子なんだから」
それでも、玲奈に対する気持ちは変わらなかった。かつての日々はふたりの大切な思い出であり、これからの未来を望む。純粋に、傍に居て大切にしたいと思える存在だった。
玲奈からの『余裕のある大人』の理想には、なるべく応えたいと努力はする。だが、無理はしない。あくまでも、自然体の延長程度だ。
だから、玲奈も同じであって欲しい。
「本当に……いいんですか?」
茉鈴は涙目の玲奈から、見上げられた。
「うん、いいよ。だから、お金も受け取って……。私と一緒に、キミの夢を叶えよう」
微笑んで頷くと、正面の玲奈から抱きつかれた。ベッドに押し倒されそうになるほどの勢いだが、なんとか耐えた。
幼い子供のように、玲奈が泣きじゃくった。茉鈴はただ、背中を擦った。
「茉鈴! ありがとうございます!」
「感謝するのは、こっちの方さ。キミのことを、大切にする」
ようやく――本当の意味で、気持ちが通じ合ったと感じた。玲奈をより好きになり、より大切にしたくなった。
玲奈がこれからも自分にとっての『灯り』であって欲しいと願うのは、事実だ。
そして、自分もまた玲奈にとっての『灯り』でありたいと思った。
レースのカーテンの向こう――窓の外では、夜空には白い月が浮かんでいた。




