第72話
十一月四日、土曜日。
正午過ぎに、茉鈴のアパートに玲奈が訪れた。そして、ふたりで学校へと向かった。
秋晴れの、清々しい日だった。
茉鈴は歩いていると、普段は学生達で騒がしいこの街が、今日は特に賑やかに感じた。学校が近づくにつれ、在校生ではないであろう『一般人』の姿が割と目につく。年齢は自分とそれほど変わらない人間達だが、楽しもうと目を輝かせている様子は『来客』に見えた。
昨日から明日までの三日間、茉鈴と玲奈の通う大学で、学園祭が開催されている。
茉鈴は三年生にして、初めて訪れる。玲奈との縁が無ければ、卒業まで一度も訪れることはなかっただろう。
「この匂い、たぶん一生慣れないや」
校門の前まで――校門から校舎へと並んでいる銀杏の匂いが漂っていた。
茉鈴は、この臭い匂いに不快な思いをする度、悪い意味で秋を感じていた。毎年この時期は、なるべく呼吸を止め、早歩きで校舎まで抜けていた。
「強烈ですけど……美味しそうな匂いもしますね」
玲奈の言う通り、模擬店の匂いも混じっている。時間帯として、茉鈴はそれには腹が疼いた。
「ジャンクな味と一緒に、一杯やりたいよ」
「学祭でアルコール飲めるわけないじゃないですか」
玲奈に笑われ、言われてみれば縁日ではないのだと、茉鈴は少し残念だった。
校門をくぐると、やはり大勢の人達で賑わっていた。いつも見ているキャンパスの景色が、今日はなんだか違って見えた。
国内でも有名な大学なので、来客は確かに多い。その中でも、制服姿の高校生が目立ったのが、茉鈴は意外だった。
「私、オープンキャンパスも来てないんだよね。受験当日に、初めて来たよ」
受験生だった頃を思い出す。
実家から、制服姿で気楽に来れる距離ではない。そもそも、駄目で元々のつもりで受験をしたところ、偶然合格したに過ぎない。
「わたしもですよ。絶対受かるのわかってたんで、オープンキャンパスなんてどうでもよかったです」
「私はそうじゃないんだけど……。あの子達が聞いたら、卒倒するよ」
えっへんと自慢げに誇る玲奈に、茉鈴は苦笑した。実に玲奈らしいと思った。
校門からすぐ、模擬店が立ち並ぶ区画へと向かった。
主に部活やサークルが出店しているが、やはり飲食系が多かった。時間帯としても、混雑していた。
しかし――たこ焼き、焼きそば、チョコバナナ、りんご飴、クレープ――祭の雰囲気に飲まれ、茉鈴は玲奈と後先考えず、手あたり次第購入した。
「えっと……どこで食べます?」
互いに両手が塞がったところで、場所の問題に直面した。
開放されている中庭は、きっと混雑している。ベンチが空いているはずもない。校内で気楽に使用できる部屋も、茉鈴には無かった。
「そうだ。穴場があるじゃん」
だが、しばらく考えた後、空いているであろう場所が思い浮かんだ。
首を傾げる玲奈を連れて、ふたりで歩く。次第に校舎から離れ――向かった先は図書館だった。
図書館自体は、学園祭期間中は閉館していた。とはいえ、館内では元々飲食が出来ない。
茉鈴は図書館の裏手へと玲奈を連れて行った。
建物は木々や芝生等の緑に囲まれている。そこも、柔らかな芝生だ。
「……ここですか?」
そう。一年前、茉鈴が玲奈に告白された場所だった。
周辺に人気が全く無いわけではないが、校舎の方に比べれば、遥かに空いている。茉鈴が思った通りの『穴場』だった。
レジャーシートが手元に無く、茉鈴は芝生に直接座った。どこか複雑そうな表情の玲奈も――それに続いた。
「それじゃあ、食べようか。いただきまーす」
購入してきたものを、ふたりで広げた。たこ焼きも焼きそばも、縁日の屋台に劣る、学園祭相応の味だった。不味いわけではないが、食べることは充分可能だ。
気持ちの良い天気だった。昼間はまだ陽があるため、それほど寒くない。食べ物といい場所といい、まるでピクニックのようだと茉鈴は思った。
穏やかな時間が流れていた。
だが、玲奈の表情には少しの戸惑いが見えた。きっと、この場所に苦い思い出があるからだと、茉鈴は思う。
かつて、臆病だったことから、この場所で玲奈の気持ちを拒み――申し訳ない気持ちが、現在でもある。
いくら悔いても、消せない過去だ。しかし、その過去があったからこそ、現在もある。思い出のひとつとして、割り切るしかない。
「私、玲奈と出会えて良かったよ。ありがとう」
だから、茉鈴は謝罪よりも、笑顔で感謝した。
「上手く言えないんだけど……昔より今の方が充実してるのは、間違いないよ。きっと、玲奈を好きになったから……玲奈が私を、ここまで導いてくれたんだ」
これまでの因果はとても複雑であり、とても把握できないと、茉鈴は思う。現在のふたりは、まさに奇跡や運命と言えよう。
中でも発端である図書館での出会いは、些細な出来事だった。蓮見玲奈の美しさに、見惚れたのであった。
だが、あの頃は自堕落であり――とても釣り合わなかった。あくまでも理想の存在と割り切り、適度な距離を計っていたものの、気持ちを抑えられなかった。
茉鈴は、同じ人物に二度も恋をした。
愛する人に少しでも近づくため、足掻いた。可能な限り弱さを捨て、玲奈にとっての『余裕のある大人』でありたいと努めた。
教師になるという夢を、まだ叶えていない。しかし、特に気張ることなく、あるがままの自分で――玲奈と同じ目線の高さに立っている自覚がある。胸を張って、玲奈の恋人だと言える。
結果的に、恋をしたことで成長に繋がったのであった。
「そんなことないですよ……。わたしが居なくても、茉鈴は立派になってたと思います」
「ううん。玲奈じゃないと、無理だった。たぶん、もう……玲奈以外の誰かを、ここまで好きになれないと思うから」
謙遜する玲奈に、茉鈴はたこ焼きを串でひとつ刺し、差し出した。
恥ずかしいことを言っている自覚はある。それでも、本心を聞いて欲しい。
玲奈は照れくさそうな表情を浮かべた後、口を開いてたこ焼きを食べた。
「わたし……恋愛なんて、正直どうでもいいって思ってました」
たこ焼きを飲み込み、ぽつりと漏らす。
「でも……茉鈴にこんなに愛されたら、そりゃ好きになりますよ」
そして、微笑んだ。先ほどまでの戸惑いは、もう無かった。
かつて『友達』だった玲奈が、いつ何がきっかけで恋愛感情が芽生えたのか、茉鈴は知らない。だが、茉鈴自身の感触と玲奈の言葉から、こちらの想いが届いてのことだと思った。
「大切な人に支えられたり、支えたり……そういうの、良いですよね」
「そうだね。玲奈と一緒に笑って、一緒に泣きたいな」
「ありがとうございます。わたしも……茉鈴のために、頑張りますよ」
玲奈が意気込むが、茉鈴は微かな――しかし確かな違和感を覚えた。
正体はわからない。それでも、この穏やかな時間の中で追うのは野暮だった。模擬店の料理を味わい、ふたりで文化祭を楽しんだ。
やがて、購入したものをふたりで食べきった頃には、茉鈴はとても腹が苦しかった。互いにしばらく動けず、笑いあった。
少し休んだ後に立ち上がり、校内の展示を見て回った。
*
十一月十日、金曜日。
茉鈴は学校から電車の駅に直接向かい、午後四時過ぎにおとぎの国の道明寺領に着いた。
今日はアルバイトだけでなく、大切な日でもあった。先日行われた交換留学の選考の、結果が発表されたのだ。
個別の通知であり、部外者の茉鈴は、玲奈の結果を知らない。メッセージアプリにも、玲奈からの喜びの声はまだ届いていない。
今日のシフトは玲奈と重なっている。きっと、玲奈が大喜びで現れるのだと思った。
おそらく、自分もまた大いに浮かれるだろう。どのような茶番で祝おう。
茉鈴はそのように考えながら準備をするが――午後四時半を過ぎても、玲奈の姿が無かった。
「あらー。レイナ様、まだいらっしゃらないの?」
店内の清掃をしていた茉鈴に、心配そうな様子のハリエットが近づいた。
「え? 玲奈から何の連絡も無いんですか?」
「ええ。トラブルに巻き込まれていなければ、いいんですけど……」
玲奈が過去に一度遅刻しそうになった際は、事前に連絡があった。この時間になっても連絡が無いのは、異常だ。
茉鈴もまた心配する一方で、なんだか嫌な予感が込み上げた。
「すいません。私、連絡してみます」
スタッフルームに入り、ロッカーから携帯電話を取り出した。なんとか落ち着きながら、玲奈に電話をかけた。
だが、しばらく鳴り響いたコール音が切れた。電波の都合か――それとも相手側が意図的に切ったのか、わからない。
茉鈴はすぐにかけ直した。長いコール音の後、今度は繋がった。
「玲奈! 何かあったの!?」
慌てて訊ねるが、玲奈の声は聞こえない。
やはり電波状態が悪いのかと、疑う。しかし、鼻をすする音が微かに聞こえた。
茉鈴の中で、嫌な予感が大きくなる。携帯電話を耳にあてているにも関わらず、自身の心臓の鼓動が聞こえる。
どのぐらい過ぎただろう。とても長い沈黙だと、茉鈴は感じた。
やがて、沈黙を打ち破ったのは――非情な現実だった。
穏やかだった日々が、終わりを迎える。
『わたし……ダメでした』
第24章『穏やかな日々』 完
次回 第25章『灯り』




