第71話
十月三十一日、火曜日。
ハロウィン当日が訪れた。おとぎの国の道明寺領は、昨日が定休日だった。一日ずれたことが幸いだと、茉鈴は思う。
午後四時に繁華街を歩くも、平日にも関わらず、明らかに普段より賑わっていた。仮装した人達とすれ違うのは勿論のこと、厳戒態勢であろう警察官の姿も目立った。
街がこれほどの熱気に包まれているのは、地元の野球チームが『アレ』した時以来だった。今回もおそらく、街の象徴である橋に大勢の人達が集まるのだろうと、茉鈴は思った。汚い河に飛び込む者が、再び現れかねない勢いだ。
過去より茉鈴は、首都圏の若者の街がハロウィンは人で溢れ、半ば暴徒と化したニュース映像を観ている。この街もそうならないだろうかと、心配な一面もあった。
「お疲れさまです。いやー、凄いですね」
茉鈴はようやくたどり着いた気分で、店の扉を開けた。実際、普段よりも数分遅い到着だった。
人酔いの類なのか、ここまで歩いただけで、ひどく疲れた。
「あらー、マーリン様。無事に来れて、よかったですわー」
店内では――もうすっかり見慣れた死人化粧を施したハリエットが、出迎えた。
表の賑わいの割には落ち着いているように、茉鈴は見えた。
「さあさあ、着替えていらして」
茉鈴は、ハリエットに促されてスタッフルームに入った。
玲奈や英美里の他、部屋が窮屈に感じるほどの従業員が居た。今日に備え、ハリエットが可能な限りの人数を揃えたのであった。
「着替えている方は、着替えながら聞いてくださいまし」
狭い部屋で一息ついた後、茉鈴は着替えようとしたところ、ハリエットが現れた。
ハリエットから、今日の段取りについて説明があった。
街が盛り上がる頂点は、おそらく午後九時。その時間は客数が減ると思われるので、順次休憩を取ること。
逆に、頂点の前後は、店の混雑が予想される。場合によっては、店外に発生する待ち列の誘導も必要となる。
従業員がそれを把握したうえで、午後五時に店が開いた。
月見イベントの雑学教室とは違い、ハロウィンイベントは特に目玉が無い。ハロウィンの内装をした店内で、仮装をした従業員が、いつも通り接客を行うだけだ。
それで充分だと、茉鈴は思う。茉鈴に至っては三角帽だけだが――それぞれが僅かな『加工』でも、従業員全員となれば、店の雰囲気は普段と大きく違った。
開店から訪れる客達もまた、ハロウィンに因んだものからアニメや漫画のキャラクターまで、仮装した者が多かった。イベント期間中は稀に居たが、今日は特に多い。
それぞれに羞恥が無ければ、互いを嘲笑うことも無い。従業員も客も皆が笑顔であり、独特の雰囲気であった。
羽目を外さない程度に皆でバカになろう、という風潮なのだろう。これがハロウィンの楽しみ方なのだと、茉鈴は理解した。
「えいっ、ツンツン。注文してくれないと、イタズラするわよ?」
天使ではないことに不満を漏らしていた玲奈だが――もはや乗り気で『小悪魔』を楽しんでいるように、茉鈴には見えた。今日も赤い角を生やし、玩具のトライデントを客に軽く突いていた。
「レイナ様になら、全然イタズラしてくれて構いません! むしろ、大歓迎です!」
客には専ら好評であり、ここ最近は演者として一番人気だった。
普段は凛とした佇まいの女王が茶目を見せているからだろうと、茉鈴は思う。短期間での限定的な姿だからこそ、通じる。
対して『魔女』の茉鈴は、普段との違いがほとんど無いため、客の反応は今ひとつだった。
「すいません。血染めの第三皇女、ひとつください……グロテスク版で」
「ほんとにグロ版でいいの? 泣いても知らないよ?」
茉鈴は客から注文を受け、頷いたのを確認した後、カウンターテーブルの英美里に伝えた。
血染めの第三皇女とは、この店での『ブラッディ・マリー』の名称だ。メニューに書かれている正式名称は『†血染めの第三皇女†』となる。なぜこれだけダガーで囲っているのか、茉鈴には理解できなかった。
トマトジュースをベースとしたカクテルだが、ハロウィンの期間限定でグロテスク版も販売している。ウォッカとタバスコを多めに加えた、刺激的な酒だ。現実的にまだ飲めるものであるため、イベントの飲み物として好評だった。
店内は表と区別がつかないほど、次第に騒がしくなっていった。
ハリエットの予想通り、午後七時から八時にかけて店は混雑した。
やがて午後九時に差し掛かり、波が引いた頃だった。茉鈴は、玲奈に続いてそろそろ休憩に入ろうと思った。
だが、玄関の扉が開き、ひとりの客が入店した。
「いらっしゃい――って、菫ちゃん!」
まるでドレスのような、黒いゴシックロリータのワンピースに身を包んだ女性は、喜志菫だった。ツインテールの黒髪にはヘッドドレスが載り、ハリエットと同様、傷の化粧が施されていた。
ハロウィンを楽しむひとりとして、何らおかしくない格好だった。この夜に、自然に溶け込んでいる。
だが、茉鈴は違和感を覚えた。
「なんか……いつもとあんまり変わらないね」
服装も化粧も、普段と違和感が無いことが、違和感となっていた。
「お前もな。なんやねん、それ。適当すぎるやろ」
茉鈴は菫から、頭の三角帽に半眼を向けられる。
不機嫌そうな菫だったが、堪えられない様子で笑い出した。
連れられて、茉鈴も笑う。
ハロウィンで気分が昂ぶっていた中、とても嬉しかった。まさか、この店で菫と笑い合う日が訪れるとは――ハリエットから出入禁止の警告が出た時は、思いもしなかった。
菫の雰囲気は、諭したあの夜のままだった。もう攻撃的な圧は無く、すっかり丸くなったと茉鈴は改めて感じた。
暴れて出入禁止になることはあり得ないと、確信する。ソファー席まで案内した。
「表はどう? 楽しかった?」
「まあな……。めっちゃ混んできたから、避難してきたわ」
菫はメニューを眺めながら、素っ気なく漏らす。
だが、茉鈴はどうしてか素直に受け止めることが出来ず、良いように疑った。すぐに入店したかったが、空くまで適当に時間を潰していたのかもしれない。そもそも、以前から店を訪れたかったが、ずっと機会を伺っていたのかもしれない。何にせよ――
「菫ちゃんが来てくれて、嬉しいよ。私が一杯奢るから、好きなの頼んでね」
「ほんまか? 来い来いやかましかったから、来た甲斐あったわ」
菫は無邪気に笑い、期間限定メニューとして推している、血染めの第三皇女のグロテスク版を指さした。
注文を承った茉鈴は、カウンターテーブルの英美里の元へ向かう。
「血染めの第三皇女、グロ版……のノンアルで」
菫が飲酒の出来ない年齢だったことを思い出し、付け足した。彼女がこの店で飲酒していた過去はあるが――それについては、目を瞑って遡及しないことにした。
「え……。それ、単なるタバスコ入りトマトジュースですよ? あの子に……そんなもの出しても、大丈夫なんですか?」
英美里が小声を漏らしながら、ちらりと菫を見る。
菫の件は解決したと、茉鈴は玲奈の他、ハリエットと英美里にも話した。だが、アルコールが入っていないことから暴れないか、心配されるのは仕方ないと思った。
「健康的でいいじゃん。ていうか、タバスコ多めでお願い」
「もうっ。どうなっても知りませんからね」
茉鈴は無理を言って、英美里に特別な飲み物を作って貰った。そして、それを菫の元に運んだ。
「はい、お待ちどう。血染めの第三皇女の、グロ版――さらに、怪しい魔女が特別な魔法をかけておいたからね。おいしくなーれ」
両手の手のひらを、グラスに向ける。魔法をかけるというより超能力のような仕草だと、茉鈴は思った。
念のため、首謀者は自分だということを、事前に伝える意図だった。
「お前は触ったらあかんやろ」
「まあ、そう言わずに……グイッといっちゃって」
警戒する菫を促し、一口飲ませた。
次の瞬間、菫は吹き出しそうになるのをなんとか堪え、飲み込んだ。そして、盛大にむせた。
「な、なんやこれ!? まっっっず!」
「イエーイ! トリックオアトリート!」
菫は怒るというより、目を大きく見開いて驚いていた。
罰ゲームを受けた側の反応であり、仕掛けた茉鈴はとても面白かった。笑顔で意味不明なことを言いながら、ハイタッチの手を菫に向けた。
「イエーイちゃうわ! トリックもトリートもあるか、アホ!」
だが、怒った菫から手を跳ね除けられた。
怒るとはいえ、この地域の人間特有の反応だ。決して怒り狂って暴れることはないと、茉鈴は理解していた。
「あら? マーリンの弟子がいらしてるの?」
茉鈴は菫を笑っていると、隣から玲奈がひょっこり顔を出した。休憩を終えて戻ってきたようだ。この様子を見ていたのか、手には水の入ったグラスを持っていた。
かつて怯えていた女王は、もう居ない。にこやかな表情だった。
「誰が弟子やねん!」
「イエーイ! ハッピーハロウィン!」
「……お前もか。なんやねん、この店」
玲奈からも意味不明な陽気と共にトライデントで突かれ、菫は額を抑えて俯いた。
接客以前に、鬱陶しい絡み方をしている自覚がようやく茉鈴に芽生えたが、今夜は無礼講だと思うことにした。
「ええから、これ飲んでみ」
菫は水を飲みながら、トマトジュースのグラスを玲奈に差し出した。
玲奈はきょとんとした後、一口飲むと――すぐに吹き出した。
「な? こうなるんや」
「ちょっと、レイナ様。ローブが汚れたじゃないですか」
「ごほっ、ごほ……。何なのよ、これ。不味いというより悪意が込められてるじゃない。イタズラにしてもドン引きだわ」
「あんたの側近が魔法かけたらしいで」
「マーリン!? 貴方が全部飲んで、責任取りなさい!」
先ほどまでのにこやかな笑みは、どこかに消えていた。玲奈に睨まれながら、次は茉鈴が特製トマトジュースを飲んだ。
「ごめん……無理」
想像の五倍は不味かった。とても飲めたものではなく、茉鈴は青ざめた顔でふたりに頭を下げた。
「世の中には、無理なことなんかあらへん。人間その気になったら、何でも出来るんや」
「そうよ。貴方、魔法使いなんでしょ?」
「今日は魔女らしいです……」
「どっちも一緒じゃない。ほら……いっき! いっき!」
おかしそうに笑う菫と玲奈から促され、茉鈴は渋々飲んだ。
だが、やはり飲み切ることは出来ず、三人でたらい回しにした。それぞれの反応に笑い、とても面白かった。
この店での過去の出来事が、無かったことになるわけではない。かつての菫の言動は、許されるものではないと茉鈴は思う。
それでも、自分がそうであるように――菫もまた、歩き出した。
周りの変化を受け入れることは難しい。しかし、玲奈が自然に接してくれたことが、茉鈴はとても嬉しかった。
菫がこの店を訪れただけではない。大切なふたりと、こうして三人で笑いあえる日が来るとは、思いもしなかったのだ。
実に何気ないやり取りだが、茉鈴は大きな充実感を得た。とても賑やかな日だが、茉鈴にとってはここ最近続いている、穏やかな日々のひとつだった。
贅沢は言わない。このささやかな幸せがいつまでも続くことを、茉鈴は願った。




