第66話
十月十二日、木曜日。
茉鈴は午前に大学へ顔を出し、午後からは自宅で教員採用試験の勉強を行っていた。
否、今日は論文を書く『訓練』だった。出題されやすいテーマに沿って、時間を計ったうえで書いた。
制限された時間と文字数で考えをまとめる感覚は、一朝一夕では掴めない。筆記試験の勉強と併せ、地道に慣れていくしかない。
最後に、茉鈴は赤色のボールペンで添削を行い、今日の計画は終了した。
時刻は午後四時半だった。今日はアルバイトのシフトが入っていないため、これから夕飯の支度を考えるはずだった。
ふと、携帯電話を手に取り――交換留学の筆記試験と面接が明日行われることを、思い出した。玲奈にとって、とても大切な日だ。
目前に迫っているため、一度頭に浮かぶと、なんだか落ち着かなかった。当事者ではないにも関わらず、そわそわする。
メッセージアプリの、玲奈とのやり取りを開ける。
昨日話し合った通り、昨晩から文字での会話を始めていた。今のところは挨拶や天気など、本当に些細な内容だ。少なくとも茉鈴は、難しく考えることなく、何気ない態度で接しているつもりだった。
『今、何してるの?』
だから、自然とその文字を入力することが出来た。
だが、送信ボタンを押す前に――ひと呼吸置いた。いや、何かが引っかかり、立ち止まったのであった。
本当に伝えたい内容は、それではないと思った。削除すると、改めて入力した。
『今からそっちに行ってもいい? ご飯作るよ』
今日は玲奈もアルバイトが休みであることを、知っている。茉鈴は送信ボタンを押した。
相手を窺うのではなく、初手からこちらの要望を伝える。玲奈はそれが許される相手だ。
愛する存在を、大切にしたい。込み上げる気持ちを抑えながら、そのように正当化した。
茉鈴は五分ほど返事を待つと、携帯電話が電話の着信を告げた。画面に表示された名前は、玲奈だった。
『いや、あの……来てくれて全然いいんですけど……むしろ、超嬉しいんですけど……本当に、ご飯作ってくれるんですか?』
訪れること、料理をすること、そのどちらにも驚いている声が茉鈴の耳に届いた。
後者に関しては、不安の意味も含まれている。確かに、茉鈴自身も料理には自信が無い。
「ほら、明日でしょ? ちょっとした勝負メシ作って、玲奈を応援したいなって……。最低限食べられるものだと思うけど、味にはあんまり期待しないでね」
それでも、この気持ちに従いたかった。念のため、注意を付け足しておく。
『ありがとうございます。気持ちだけでも充分に嬉しいですよ。それじゃあ、待ってますね』
「うん。後でね」
玲奈の明るい声に、茉鈴も嬉しくなった。料理を振るう緊張はあるものの、こうして信じてくれたからには、少しでも応えたいと思う。
通話を切ると立ち上がり、出かける準備をした。
*
電車に乗り、玲奈の住む街の駅で降りた。
駅に併設されている商業施設のスーパーマーケットで、買い物をした。
牛肉のこま切れと生姜、ネギ、そして生麺のうどんを購入した。出汁を作る調味料は、玲奈の部屋に揃っていると思った。
食材を持ち、玲奈のマンションまで歩いた。
玄関のインターホンに部屋番号を入力すると玲奈が応え、扉が開いた。エレベーターに乗り、最上階まで上がる。
「お待たせ」
「いらっしゃい。とりあえず、お茶にしましょうか」
玲奈に迎えられ、部屋に上がった。
陽が暮れて外は暗かったが、時刻はまだ午後五時半だった。夕飯にはまだ早い他、移動してきたばかりの茉鈴としても、一休みしたかった。
食材を冷蔵庫に一旦仕舞い、玲奈が温かい紅茶を淹れた。茶葉とティーポットを使用したようで、茉鈴は良い匂いと、芳醇でまろやかな味わいを楽しんだ。
「自分で淹れといて何ですけど……甘いもの、食べたくなりますね」
「うん、すっごいわかるよ。でも、もうちょっと我慢して」
そのように話しながら、遅いティータイムを過ごした。
やがて、午後六時十五分を回り、茉鈴は立ち上がった。
「そろそろ作るね。キッチン借りるよ」
「メチャクチャにするのだけは、ナシですからね! 楽しみにしてます!」
心配気味の玲奈に苦笑し、茉鈴はキッチンに立った。玲奈のエプロンを纏った。
何を料理するのか、訊ねられなかった。茉鈴としても黙っておきたかったが、食材を見られているため大体は知られているだろうと思った。
だからこそ、必ず『それ』を作らねばならない。失敗は許されない。
茉鈴はひと呼吸つき、冷蔵庫から食材を取り出した。
二十分ほど料理を行い、やがて完成した。
茉鈴はふたつの丼ぶりに盛り付け、テーブルへ運んだ。
「はい。お待ちどう」
「わぁ。肉うどん、美味しそうですね」
そう。茉鈴が料理したものは、牛肉での肉うどんだった。
過去に、自宅でレシピを確かめながら一度料理した経験があるものだ。今回も失敗しなかったので、胸を撫で下ろした。キッチンも無事だった。
茉鈴はエプロンを脱ぎ、座った。
「いただきまーす。……うん、美味しいです! お肉が出汁に、とっても染み込んでますね」
ひとまず玲奈から好評のようで、嬉しかった。
茉鈴も食べてみると、あっさりした味わいながらも肉の旨味が確かに感じられた。かつて口にしたことのある料理に、近い味だった。
「この前ね、エミリーちゃんと肉吸い食べてきたんだよ」
「にくすい……ですか?」
「うん、お肉のお吸い物。肉うどんのうどん抜き、みたいな料理」
茉鈴は、この地域では有名な料理だと説明した。
二日酔いの芸人がうどん屋に入り、うどん抜きの肉うどんを注文したことが発端とされている。そのうどん屋が、アルバイト先からさほど離れていない所にあるため、春原英美里と足を運んだのであった。
「肉うどんって、普通は出汁とは別にお肉を炒めるじゃん? でも、これは出汁と一緒に煮込んでる」
「へぇ。だから、ここまで染みてるんですね」
灰汁を取るの大変だけどねと、茉鈴は苦笑した。
元々うどんの出汁が薄口であることは、この地域の特性だ。だからこそ、煮込むことで味を引き出す手法になったのかもしれないと思った。
「そこのお店では、卵かけご飯と一緒に食べるのがメジャーなんだけど……前日に生モノは流石に避けたいから、うどんにしたよ。消化によくて、なおかつお肉で力出そうかなって。これが、私から玲奈への勝負メシ」
「ありがとうございます! また今度、そこのお店にも行きましょう」
「そうだね。玲奈にも食べさせてあげたい」
「これでも充分に美味しいですけどね」
やがて、ふたり共食べ終えた。うどんは一玉ずつだが肉が多めのせいで、茉鈴は満腹だった。
玲奈が後片付けをしようとしたので、止めた。今晩はとにかく休ませたい。
代わりに茉鈴が行い、湯呑に茶を淹れた。
「どう? 明日は頑張れそう?」
「はい。お陰さまで、だいぶリラックスできました。……それよりも、茉鈴が料理できたのが意外です」
「昼間はだいぶ適当に済ませてるけど、バイト無い日の夜は、なるべく自炊するようにしてるよ」
自堕落な生活から抜け出す一環だった。まだ凝ったものには手を出さず、簡単な料理から手を出していた。
「かしこいですね、茉鈴は。大好きです……」
玲奈が茶を一口飲んだ後、テーブルに湯呑を置き、座ったまま茉鈴の隣まで移動した。そして、茉鈴の肩にもたれ掛かった。
うろたえずに料理が出来て良かったと、茉鈴は思う。玲奈ほどではないにしろ、最低限の料理の腕は『余裕のある大人』に成るための、条件のひとつだ。これからも、それを目指して頑張りたい。
「さっきの話なんだけどさ……うどん屋だけじゃなくて、玲奈といろんな所に行ってみたいな。デートっていうか……」
茉鈴は玲奈の頭を撫でながら、ぽつりと本心を漏らした。
デートという言葉には恥ずかしさから多少の抵抗があるが、きちんと伝えておきたい。
「わたしもです……。それじゃあ早速、そうですね……再来週の土曜か日曜、ちょっと遠出しませんか? 軽い日帰り旅行のつもりで」
「え……う、うん」
ここまで急に話が決まると、茉鈴は思っていなかった。
驚きを隠しながら、玲奈と共に壁のカレンダーを眺めた。来週の土日は、ふたり共アルバイトのシフトが入っているため、今からの変更は難しい。確保するなら、再来週以降が現実的だ。
「明日、領主様に話してみて……それから行き先決めようか」
「はい。行きたいところ、いっぱいありますよ」
現在は暑くも寒くもなく、出かけるには丁度いい気候だ。それに、玲奈とならどこへ行っても楽しめると、茉鈴は胸を踊らせた。
「って、いいの? 前日にこんな話して。なんか、戦争映画のよくあるシーンみたいじゃん」
「いいんですよ。モチベあった方が、頑張れます。ていうか、振ってきたの茉鈴じゃないですか」
「あー……そうだったね」
ふたりで笑いあった。
茉鈴には、明るく楽しいふたりの未来が、すぐ先に見えた。確実に届く画だ。
一般的に考えれば、きっと何気ないものなのだろう。しかし、緊張から連絡できなかったり、些細なことで嫉妬したり、デートの計画ひとつで盛り上がったり――茉鈴にとっては、何もかもが新鮮だった。
恋人としてふたりで歩き始めたばかりなのだと、改めて実感した。
「お互い、何もかも初めてだけど……初めてだから、楽しむぐらいでいいと思うんだ。ゆっくりでいいから、私達のペースで歩いていこうね」
焦る必要など無い。これから先、時間はたっぷりとある。
「まだまだ、玲奈のカノジョとして頼りないね。でも……私、頑張るよ」
「そんなことないです。今日の茉鈴は満点ですよ。頑張らないといけないのは、むしろわたしの方です。だから、まずは明日――」
玲奈は茉鈴を見上げ、力強く頷いた。
自信に溢れた表情を見ることが出来てよかったと、茉鈴は思った。今日こうして、恋人として励ます役目を果たせた。
これからも、玲奈をなるべく支えていくつもりだ。そのためには、努力を惜しまない。
だが、ふと弱さを見せた時は、玲奈に受け止めて貰いたい。
励まし合い、支え合い歩いていく――この姿こそが、茉鈴にとって現在の『理想』だった。ふたりでならきっと叶えられると、信じた。
茉鈴は、玲奈の頭をくしゃりと撫でた。
「玲奈なら大丈夫だよ。絶対に上手くいく」
そして、細い身体から不安が全て無くなるよう、しっかりと抱きしめた。
この時、茉鈴は気づいていないが――テーブルに置かれた『白い花』は、視界の隅にも入らなかった。
「ありがとうございます、茉鈴」
ただ、明るい未来を信じていた。
こうして、玲奈にとって大切な日を目前に、最後の夜は更けていった。
第22章『自分達の歩調で』 完
次回 第23章『狐の棲む山』
茉鈴は玲奈と日帰り旅行をする。




