第65話
午後五時になり、おとぎの国の道明寺領が開店した。
次第に客が増えていくも、ローブ姿の茉鈴は、いつも通り接客していた。
「すいません。初恋はレモンの味、ください」
「はい。初恋はレモンの味、ね。ちょっとお待ちを」
茉鈴は、おそらく自分と年齢が近い――ひとりの女性客から、カンパリオレンジの注文を承った。
英美里に伝えた後、オレンジジュースにしか見えないグラスを受け取り、客席へと戻った。
「ご注文の、初恋はレモンの味だよ。たぶん酸っぱくはないから、安心してね」
茉鈴はいつもの調子で差し出したところ、客が何やら思い詰めた様子であることに気づいた。
「あ、あの! これ、私からマーリン様への気持ちなんです!」
叫び声ではないが、茉鈴には通る声で聞こえた。事実、席に座ったままこちらを見上げる客は、強く訴えかける表情だった。
それと同時に、店内から視線が集まるのを感じた。ハリエットをはじめ従業員達の、さり気ないものだ。対応を誤るなとの意味合いが込められていた。
このような場面に出くわすのは、初めてではない。茉鈴は緊張するものの――対応には慣れているため、落ち着いて微笑んだ。
「レモンがどうして初恋の味って言われてるか、知ってる?」
茉鈴の問いかけに、客は首を横に振った。
「初恋とレモン、それぞれの甘酸っぱさが掛かっているんだけど……そもそもレモンの花言葉は『思慕』なんだよ」
とある歌謡曲や、とある小説などで世間に広まったが、由来としてはそれだ。
レモンは料理だけでなく香料としても、様々な用途がある。そしてレモンの花が白いことから誠実さを彷彿とさせ『誠実な愛』という花言葉がつけられた。
「キミはまだ、甘酸っぱさを感じていないはずだ。でも、いつか……そう感じることの出来る相手が現れるといいね」
茉鈴は手を伸ばし、女性客の頭を撫でた。
向けられた気持ちが本気である可能性は捨てきれないが――勘違いとしてあしらうことが最も波風が立たないと、茉鈴は以前から思っていた。
「そういうところが素敵なんですよ!」
客が興奮気味に喜んだところで、とりあえずは解決したと安心した。
だがその瞬間、茉鈴は強烈な視線を感じ、身震いした。未だかつてこの店で感じたことのない圧が、じっと向けられている。
振り返ると、カウンターテーブル席のひとつに玲奈が座っていた。腕と脚それぞれを組み、とても不機嫌そうな表情を浮かべている。
接客業としてあり得ない態度だと、茉鈴は思うが――この店だからこそ、女王だからこそ、かろうじて許されているとも思った。
「マーリン、ちょっと」
「は、はい……」
冷ややかな声で呼びつけられ、茉鈴は仕方なく玲奈の元に近寄った。店内の客達から、何事かと心配する視線を向けられるのを感じた。
「なんでしょう?」
「まったく――貴方は、本当にタラシね!」
「はい?」
突然の言葉に、茉鈴は困惑する。
このような場合は本来悪いように考えるが、玲奈の言動であるため、良いように考えた。
その結果、これはいつもの『茶番』であると捉えた。先程の客は、居心地があまり良くないだろう。それを擁護するために、なるべく喜劇調に運ぶのだと察した。
「いえいえ。レイナ様こそ、多くの方々から愛されているじゃありませんか」
「は? 一緒にしないでくれる? 貴方は誰にでもホイホイ声をかけて……いやらしい目で見まくってるんでしょ? わたしじゃなくても、誰でもいいんでしょ?」
怒りを露わにする玲奈に、茉鈴は違和感を覚えた。
少なくとも、茶番の感触ではない。それどころか、冗談を言っている気配でもない。
ただ、純粋に――蓮見玲奈として怒っているだけのように思えた。そのような悪い予感が芽生える。
それは英美里も同じようだった。玲奈の背後のカウンターテーブル越しに立っていたが、逃げるようにそそくさと離れた。
「あの……レイナ様?」
「大体ね、一日以上電話もメールも無いって、どういうことなの? 最低、一日三回はメールしなさいよ!」
より加速していく玲奈に、予感が確信に変わった。
そもそも、女王レイナとして話すべき内容ではない。明らかに、コンセプトに反している。これではただの痴話喧嘩だ。
――TPOだけは弁えましょう。バイトでも、公私混同はナシです。
開店前に玲奈自身がそのように言っていたはずだと、茉鈴は頭が痛くなった。
何にせよ、暴走気味になっている玲奈に、店内がざわついていた。茉鈴に焦りが込み上げる。
「レイナ様ー、どうなされたんですかー? 最高に面倒くさい女、拗らせてますわよー?」
このままではよくないと悟ったようで、ハリエットが間に入った。茉鈴としては、少し安心した。
「何言ってるんですか。わたし、全然面倒じゃありません。超サバサバしてるじゃないですか」
「――とのことですが、マーリン様としては如何ですか?」
苦笑しながら、ハリエットが視線を茉鈴に向ける。
こっちに振らないでくださいと茉鈴は戸惑うが、この状況では口に出来なかった。
「えーっと……ぶっちゃけ、めっちゃ面倒です」
どのような方向へ持っていくのが正解なのか、わからなかった。茉鈴は考えることを放棄し、玲奈から視線を逸しながらも本心を小声で漏らした。多少なりとも玲奈のためになればいいと、淡い期待も込められていた。
しかし――ドンと玲奈がカウンターテーブルと叩き、茉鈴の身体がビクッと震えた。
「面倒? 貴方のことを想うことが面倒? どういうことですか? はっきり言いなさいよ!」
まるで恨み節のような言葉と共に、玲奈からぎろりと鋭い視線を向けられる。
茉鈴は過去に何度か玲奈を怒らせたことがあったが、ここまで恐怖したのは初めてだった。本音を言ってはいけなかったのだと、後悔した。
「あのー。レイナ様……もしかして、お酒をお飲みになりました? 今は公務中ですけれども……」
「飲んでません!」
恐る恐る訊ねたハリエットに、玲奈はふたつ返事で否定した。
茉鈴としても、その可能性を疑っていた。だが、確かに玲奈の周辺にグラスは無い。視界の隅の英美里も、首を横に振っている。
酔っているならどれほど良かっただろうかと、茉鈴は思う。酒の力が無くとも、ここまで豹変する理由を考え――まさかと、ある結論に至った。
「えっ。もしや、妬いてるんですか?」
玲奈の視点で一連を振り返ると、先程の女性客を相手にしていたことがきっかけだった。そして、玲奈の言動を照らし合わせた。開店前、英美里とふたりきりで話していたのを見られた時も、同様だった。
図星なのか、玲奈が頬を赤らめて俯いた。
玲奈の代わりと言わんばかりに、茉鈴はハリエットから頭を軽く叩かれた。
「もうちょっとデリケートにお願いしますわー」
ハリエットから小声で注意される。彼女としても――この状況では仕方ないが、かろうじて演じているのだと茉鈴は察した。
確かに、客達の前で直に訊ねたことは反省しなければならない。しかし、どう繊細に扱えばいいのか、わからなかった。
そもそも、客に対しても普段通り接したつもりだ。これまで、玲奈からそのことに触れられなかった。
それが突然こうなったのは、変化点はひとつしか考えられない。
いくら恋人としての交際を始めたとはいえ、まさかこれしきのことで嫉妬されるとは、思いもしなかった。茉鈴は白けるほどに驚くより、むしろ――
「とっても可愛らしいですよ、レイナ様」
無性に興奮した。
普段から感情の起伏がそれほど大きくない女性が、これほどに取り乱していることが、とても嬉しかった。大切に想われているのだと実感した。愛おしく思う。
茉鈴は思い切りにやけたいが、客の手前、我慢した。その代わり、椅子に座ったままの玲奈を、そっと抱きしめた。
「私は他の誰よりも、レイナ様を最も大切に想っております。それだけは、信じてください」
「そ、その言葉……嘘だと承知しませんからね!」
腕の中で玲奈から不安げな上目遣いを向けられ、茉鈴は微笑みながら頷いた。
これで『茶番』としては幕が下り、店内は歓声に包まれた。
「さあさあ、マーリン様は悔い改めるのですか? それとも、まだチャラいタラシのキャラを続けるのですか?」
笑顔のハリエットから、訊ねられた。話をまとめようとしているのだと、理解した。
だが、意図がいくつか思い浮かぶものの、何が正しく、どう捉えていいのかわからなかった。
だから直感を信じ、真っ先に思ったことを選んだ。
「え? 普通に続けますけど?」
きっと、ここは『ボケる』流れだ。
そもそも、これから接客の態度を変えるとなっては、現実的に商売を行えない。玲奈の手前、これまで以上に客を適当に扱うことを意識するつもりであるが。
「なんでやねん! ですわ!」
茉鈴の選択は正しかったようで、ハリエットから胸元に『ツッコミ』を受けた。
店内は、笑いに包まれた。




