第63話
茉鈴は玲奈と、ワインの注がれたグラスを軽く突き合わせ、乾杯した。
そのまま一口飲む。安物だが、芳醇な味と香りが口に広がった。
「うん。美味しい」
「そうですね。思ってたより全然いけます」
茉鈴としては飲み慣れない種類の酒でもあるため、飲みやすいわけではない。しかし、飲めないわけでもない。味の濃い食べ物と一緒に、楽しみたかった。
ボロネーゼにパルメザンチーズをたっぷりと載せ、口に運んだ。挽肉がゴロゴロと多く入っていることから、パスタが無くとも食べられると、茉鈴は思った。
濃厚な味わいを――赤ワインの渋味とコクが引き締め、相性はとても良かった。
「いやー、最高だねぇ」
茉鈴は普段どちらも口にする機会がほとんど無い。この部屋での食事ということもあり、大人の味わいに感じた。
「喜んで貰えて、よかったです。鮭も食べてみてください」
玲奈に促され、鮭のムニエルを口にした。
おそらくバター醤油とにんにくで味付けされているのだろうと、茉鈴は思った。見た目に反し、この料理もまた濃厚な味付けのため、ワインが進んだ。
「魚料理って白ワインのイメージあったけど、めっちゃ合うね」
「はい。わたしの思った通りです」
玲奈が誇らしげな笑みを見せる。
料理の腕を、茉鈴は以前から尊敬していた。いや、落ち着いた雰囲気から外食にも負けない料理を出すことが、玲奈の魅力のひとつに感じていた。
小さなテーブルで、ふたりで食事を楽しんだ。やがて、カマンベールチーズを少し残し、皿が全て空になった。
玲奈が立ち上がり、キッチンへと向かった。そして、ひとつのアイスクリームを手に、戻ってきた。小さなカップの、世間では高級品に扱われているものだ。
「デザートにしましょう」
アイスクリームはともかく、玲奈はスプーンもひとつしか持っていなかった。
そのような分けるのか、茉鈴は疑問に思っていたところ――玲奈が近づき、隣に座った。肩にもたれ掛かってきた。
飲酒による軽い酩酊の中、突然のことにドクンと胸が高まった。
「はい。先にどうぞ」
スプーンでバニラのアイスクリームをすくい取り、上目遣いと共に差し出された。茉鈴はなんとか落ち着き、口を伸ばして食べた。
普段食べている安物と違い、牛乳の濃厚さを味わえた。さらにワインを流し込むと、これも相性が良かった。口に残るはずの甘さが無くなり、いくらでも食べられる気がした。
玲奈がふたつの口へ交互に運び、小さなカップはやがて空になった。スプーンと共にテーブルへ置くと、茉鈴の肩から胸元へと、改めてもたれ掛かった。
まるで、何もかもを投げ出したように、茉鈴には見えた。
「ごちそうさま……」
茉鈴は背後のベッドにもたれ掛かり、玲奈の頭を撫でた。長く綺麗な髪の手触りは、まるで絹のように心地良かった。
テレビの雑音が耳に触れる。バニラの甘い匂いが微かに漂っている。
ぼんやりと前方を眺めると、ワインボトルが見えた。まだ少し残っているが、ふたりでほとんどを飲んだ。
「ねぇ。酔ってる?」
ワインのアルコール度数は約十二パーセントと、酒の中でも高い方だ。食事に合うという理由でつい飲んでしまうと、あっという間に酔ってしまう。
茉鈴はまだ素面に近いが、玲奈がこのような行動に出たことを疑った。
「大丈夫です。酔ってません……」
もし酔っているにしても、本人はきっとそのように言うのだろうと、茉鈴は思った。
玲奈の頭を見下ろすも、顔は見えない。だが、まだ呂律が回っていることから、信じることが出来た。
玲奈は振り返ると、細い指先で茉鈴の頬にそっと触れた。
まったく酔っていないわけではないのだろう。とろんとした瞳と紅潮した頬を、茉鈴は艶やかだと思った。
そして、その矢先――顔を伸ばした玲奈から、唇を重ねられた。
唇を割って口内へ侵してきた舌に、絡められる。玲奈はアイスクリームだけを食べていたのか、バニラの甘い味が茉鈴の口に再び広がった。
あの日以来のキスだった。最後のキスも、この部屋だった。
唇の柔らかい感触と共に、茉鈴は玲奈の泣き顔を思い出した。自分の気持ちに整理がつかず、焦燥に苛まれていたのだ。
顔を離すと――今夜も、玲奈は今にでも泣き出しそうな表情だった。
茉鈴は座ったまま玲奈を抱きしめ、確信した。きっと、最初からこうすることが目的で、自宅まで食事に誘ったのだ。
「どうしたの?」
だが、このような計画を思い立った理由がわからなかった。
茉鈴は常に、悪い可能性を考えていた。待たせている以上、玲奈の恋心が冷める可能性はいつだってある。時間は限られているが、具体的な境目は見えない。
愛想を尽かすにしても、このような真似をするだろうかと、疑問に思う。しかし、そのような思考は一瞬だった。
再び、玲奈の悲しげな表情を見てしまった。茉鈴は自分の無力さを味わい、焦燥が込み上げた。
「わたし……来週、選考試験じゃないですか。怖いんですよ」
腕の中の玲奈が、上目遣いを向けた。手は茉鈴のシャツの胸元を掴んでいた。
この理由で部屋に招いたのだと茉鈴は理解するが、意外だった。玲奈も緊張や不安に駆られることもあるのだと、驚いた。
これまで、玲奈の弱々しい姿を見てこなかったわけではない。しかし、こうして弱音を吐くことは顕著に感じた。
ふと、テーブルに飾られた、白い花が見えた。
そう。気高く凛々しい――女王から遠く離れた姿なのだ。幻滅を招く恐れがある。
「大丈夫ですか? わたし、カエルになったりしません?」
それを気にしているのは、玲奈も同じのようだった。
以前訪れた時の記憶が、茉鈴の頭にふと蘇る。
――このままだと、たぶんまたカエルになっちゃうから。
そのように玲奈を制止したので、確かに心配するだろうと茉鈴は思った。だが、玲奈が勘違いしていることを理解した。
「ううん。キミはいつだって、私の女王だ。何なりと命令していいよ」
茉鈴は否定し、優しく微笑んだ。
あの時、玲奈の泣き顔を見たからではない。そもそも、過去から――幻滅が全く無かったわけではないが、茉鈴が玲奈に蛙化現象した理由は、別にあった。そもそも、幻滅して蛙化したのは玲奈の視点だ。
茉鈴の場合、自身の無力さから、恋愛に対して臆病だったのだ。あの時も、そうだった。
強い陽射しの下で、涙を流した。それからもう、暑さは和らいでいた。短い時間だが、茉鈴にはとても長く感じた。カエルから人間に戻るため、可能な限りの努力をしたつもりだ。
まだ就職が決まっていない現在、目に見える成果は確かに無い。その意味では無力だと、茉鈴は思う。しかし、雑学教室と菫の一件を得て、教職への夢へと進んでいる身としては、もう怖くなかった。玲奈を迎える準備が出来ていた。
とはいえ、今回のことは理想と現実の隔たりがあまりに大きいため、幻滅する可能性は充分にあった。それでも何も起きなかったことに、茉鈴自身が驚いていた。原因はわからない。
「わたしが不安じゃなくなるまで――抱きしめてください」
「うん。キミならきっと、選考試験なんて大丈夫だから……。絶対に上手くいく」
茉鈴は頷き、涙ぐんでいる玲奈を、より強く抱きしめた。
どのぐらいの時間そのようにしていたのか、わからない。腕の中の確かな温もりを、二度と離したくない気持ちだった。ふたりだけのこの空間が、永遠とさえ思えた。
しかし、永遠など無かった。
茉鈴の頬に、一筋の涙が流れた。
「……あれ?」
どうしてなのか、わからない。突然の出来事に茉鈴自身が戸惑い、慌てて指先で拭った。
まだ涙ぐんでいる玲奈が振り返った。心配そうに茉鈴を見上げた。
玲奈の前で、もう泣かないと決めた。もう弱い姿を見せないと決めた。『余裕のある大人』で在りたかった。玲奈にこそ、幻滅されたくなかった。
茉鈴は手の甲で必死に涙を拭うが、涙は溢れるばかりだった。
やがて――玲奈に腕を掴まれ、ようやく落ち着いた。一呼吸さえすれば、原因はすぐにわかった。
「寂しかったんだ……」
茉鈴は泣きながら微笑んだ。
玲奈に振られて、一ヶ月以上の時間が過ぎていた。そして『似た者同士』であった菫とそれぞれの道を歩むことになり、ここ最近は孤独に似たものを強く感じていた。
今日の夕方、着替えている玲奈に性欲が湧いたのは、人肌の恋しさからだったと理解する。
こうして玲奈に触れている今、ようやく満たされた喜びから、涙を流していたのであった。
「ごめん、カッコ悪いよね。私こそ、またカエルになっちゃうよね」
だが、理由が何であれ、僅かなものであれ、泣いている姿を見せていることに変わりはない。
一刻も早く茉鈴は止めようとするが――玲奈が腕を掴んだまま、離さなかった。
「茉鈴はカッコいいです!」
愛する人から、涙を流すことを許された。
まだ教職に就けると決まったわけではない。『強さ』である確かな根拠は無い。
しかし、これまでの姿をすぐ近くで見ていた人間からは、そのように判断された。茉鈴にとっては、誰よりも何よりも信頼できる意見だった。
「ありがとう」
カエルは激怒した女王に壁へ投げつけられ、魔法が解けたと言われている。
茉鈴なりに、これまで痛みを味わっていた。それでも、無理をしてでも玲奈の理想であろうと努力した。
最近は進路を含め、自然に立ち振る舞えているという自覚がある。そして、少しの弱さを見せてもなお玲奈に認められた今、ようやく報われたと感じた。
もうカエルにならない。
もう幻滅させない。
やっと魔法使いに戻れた。
安心した途端、茉鈴はさらに涙が溢れた。幸せだからであるが、今の茉鈴には理解できず、ただ感情に身を任せた。
玲奈と共に泣きながら、抱き合った。
互いに弱さを曝け出し、互いに受け止める様は、まさに『支え合う』と言えよう。
初めてだった。
かつては、自身の臆病さから表面にしか触れられなかった。いや、臆病だからこそ、女王のような美しさに憧れた。
だが、茉鈴はこの瞬間、ようやく同じ目の高さに立ち、互いの内面に触れ合ったのだと思った。
だから、しばらくして涙が落ち着いた頃――改めて伝えた。
「私、玲奈のことが好きだよ」
恥ずかしさも焦りも無かった。とても穏やかな気分だった。
「わたしも、茉鈴のことが好きです。だから――付き合いましょう」
茉鈴の思っていた通りの返事だった。
床に座ったまま、涙でぐちゃぐちゃになった顔で向き合った。あまりの不格好に笑いあった後、唇を重ねた。
気持ちの確認であり、返事でもあり、そして――誓いのようだと、茉鈴は思った。
第21章『ふたりで流す涙』 完
次回 第22章『自分達の歩調で』
茉鈴は玲奈と、恋人の交際を始める。




