第62話
「今から移動と料理の時間を考えたら、ちょうどお腹減る頃ですよね?」
やはり、玲奈の表情は特に変わらない。
何気ない提案のように、茉鈴には聞こえた。
だが、これも思いもしないことであり、内心で驚いた。『移動と料理』という言葉から考えられる提案は、ひとつしかない。外食だの店を探すだのではなく、根本が覆った。
それでも、提案としてはまだ抽象的だった。
「えっと……どっちで?」
茉鈴はポカンとしながらも、訊ねた。
二択でよかったのか――自分には『ふたつ目の選択肢』を挙げる資格があるのか、口にしてから疑問に思う。選択肢は実質ひとつだったと、後悔した。
「わたし料理するんで、ウチに来てください」
しかし、玲奈は躊躇する様子もなく『ふたつ目』を選んだ。
そう。茉鈴は玲奈から、自宅で手料理を振るうと提案された。
ここから茉鈴と玲奈、それぞれの自宅に移動するには同程度の時間を要する。その意味での二択だったが、料理の環境を考えれば玲奈の部屋に分があるため、理に適っていると言える。
だが、茉鈴には――どうしてか、玲奈が最初から自宅へ連れて行くつもりで食事に誘ったのではないかと、少し疑った。
「いいの? 嬉しいんだけど……」
「いいに決まってるじゃないですか」
何を言ってるんですかと、玲奈が首を傾げる。
茉鈴が玲奈の部屋を訪れたのは、これまで一度きりだった。交換留学の願書を確認し、そして玲奈の泣き顔と共に気持ちを知った。自身もまた、帰り際に涙を流した。
玲奈に誘われて、確かに嬉しい。だが、あの時の記憶を、茉鈴は鮮明に思い出した。
この複雑な気持ちを、玲奈に悟られたくない。精一杯の笑顔を浮かべた末――頷いた。断る理由は無かった。
「それじゃあ、行きましょうか」
玲奈と共に駅へと向かい、同じ電車に乗った。
電車を降りると、駅に併設されている商業施設のスーパーマーケットへと向かった。
「先輩は、何か食べたいものあります?」
「うーん……。玲奈が作るやつなら、何だっていいよ」
「そう言われるのが、一番難しいんですけどねぇ」
不貞腐れるように、玲奈が口を尖らせる。
玲奈の料理であれば何でも嬉しいのは、茉鈴にとって事実だ。とはいえ、欲を言えば酒に合うものが食べたいが――なんだか図々しいと思い、とても言えなかった。
「先輩、明日は朝から用事あるんですか?」
「え? 午後からゼミに顔出すぐらいだけど……」
「それじゃあ、飲みましょう。わたしも、火曜の午前は講義ありません」
明るく微笑む玲奈に、茉鈴は少し緊張が和らぐ。まるで、今日は帰さないとでも言っているように聞こえたが、勘違いしてはいけないと思った。
その期待が無いにしても、ビールと美味しい料理が食べられることから、とても嬉しかった。
しかし、スーパーマーケットで玲奈が真っ先に向かった先は、ワイン売り場だった。
「わたし、ワインにちょっと興味あるんですよね。ひとりじゃ飲むことないんで……一本開けませんか?」
「うん。いいね」
茉鈴は普段、缶ビールや缶チューハイを飲むことが多い。飲み慣れない種類の新鮮さを玲奈と共有できることが、嬉しかった。
「どれにしましょう。オススメありますか?」
「うーん……。私もあんまり飲まないから、よく知らないや」
「えー。ソムリエばりのうんちくが出てくと思ってたんですけど」
「べ、勉強しておくね」
冗談で笑う玲奈に、茉鈴は苦笑した。ワイン自体の知識は多少あれど、銘柄や味は知らないに等しい。
互いに初心者ということもあり、飲みやすさからスパークリングワインを挙げた。だが、玲奈がボロネーゼを作ると言い出したので、ボトルの赤ワインになった。中には千円を切る安物もあるが、三千円のものを選んだ。このあたりの価格帯なら、最低限の味と匂いを楽しめると思ったのであった。
ワインと、ボロネーゼの材料――さらには鮭の切り身と、六個に切れているカマンベールチーズもカゴに入れた。
会計を済ませ、玲奈の所持していたエコバッグに食材を詰めた。
「私が重い方を持つよ」
「ありがとうございます」
茉鈴がエコバッグを、玲奈がボトルワインをそれぞれ持ち、店を出た。
以前にもこのようなことがあったと、茉鈴はふと思い出す。
そう。あの暑い夏の日も、アルバイトを終えた帰りだった。玲奈とスーパーマーケットで買い物をして、古汚いアパートに向かったのだった。
所詮は、ただの買い物だ。その何気ない光景も、幸せだった思い出として、胸に仕舞っていた。もう二度と訪れることはないと思っていたのに――再び、何気ない幸せを味わっていた。
時刻は午後五時過ぎ。喧騒に包まれた駅前は、眩しい夕陽に照らされていた。茉鈴の感傷に、そっと触れる。
「お腹減ってきたなぁ。玲奈の料理が、楽しみだよ」
茉鈴は泣き出しそうになるのを堪え、玲奈に微笑んで見せた。
「もうっ。ハードル上げないでくださいよ」
玲奈もまた、笑った。
どこにでもあるような、ささやかな時間だった。だが、茉鈴にとってはとても楽しく――これだけで、幸せを感じていた。
十五分ほど歩き、マンションに到着した。
最上階である六階の、玲奈の部屋に上がった。
「お、お邪魔します……」
二度目とはいえ、茉鈴は緊張した。
部屋は、以前訪れた時と何ら変わっていないように見えた。彩りのある空間で――真ん中に白い花が置かれていた。
「今から作りますんで、適当に寛いでください」
「ごめんね。ありがとう」
手を洗った玲奈が長い髪を束ね、エプロンを纏った。
料理を手伝いたい気持ちが茉鈴にはあったが、足を引っ張りかねないので、大人しくすることにした。テーブルから、テレビのリモコンを取った。
香ばしい匂いが漂う中、演芸のバラエティ番組を眺めていた。司会者からの題に対し、出演者が回答に応じて入手する座布団の数を競うものだ。
しかし、茉鈴は番組の内容が頭に入ってこなかった。
単純に落ち着かない。そして、テーブルの白い花に、チラチラと目がいった。以前訪れた時はそれほど気にならなかったが、今日は違った。きっと、玲奈の気持ちを知ったからだろうと思った。
「あっ!」
ふと、キッチンから玲奈の声が聞こえた。
何か盲点に気づいたのか、悲鳴に近いものであり、茉鈴はなんだか嫌な予感がした。
「先輩、どうしましょ!? ウチにコルク抜き、ありませんよ!」
なんだそんなことかと思いながら、茉鈴はテーブルの隣に立ててあったワインボトルを取った。
「必要なら私が買いに行ってくるけど……たぶん大丈夫じゃないかな」
ボトル口の包装を外すと――茉鈴の思っていた通り、スクリューキャップで封がされていた。一般的な蓋と同じく、手で回して開けられるものだ。
キッチンから覗いている玲奈の不安げな顔に、茉鈴はボトル口を見せた。
「この価格帯だと、コルクは珍しいと思うよ。でも『いつか』に備えて、コルク抜きはあった方がいいかもね」
所詮はスーパーマーケットで売られている安物だ。それでも、一度開けて空気に触れると風味が変わるので、茉鈴はまだ開けなかった。
「あー、よかったです。覚えてたら、買っときますね」
安心した玲奈が、料理に戻った。
茉鈴はワインに関する知識のうち、コルクの開け方も知っている。だが、実際に開けたことはこれまで一度も無かった。『いつか』の時に恥をかかないためにも――練習のつもりで、一度ぐらいはこっそり経験しておこうと思った。
そう。玲奈にとっての理想で在りたい。無理をしてでも、格好良く在るために。
やがて、コンロの火が止まったのが、茉鈴は音でわかった。
エプロン姿の玲奈が、次々と皿を運んだ。
「わぁ。凄いね」
皿に載った料理に、茉鈴は目を輝かせた。
挽肉たっぷりのボロネーゼと、鮭のムニエルだった。どちらからも良い匂いが漂い、茉鈴の食欲を刺激した。
「お待たせしました。食べましょうか――って、ああ!」
またしても、キッチンから玲奈の何かに気づいたような声が聞こえた。
エプロンを脱いだ玲奈が、苦笑しながら――両手にグラスをふたつ持って現れた。茶をはじめ私生活での飲料水に使用する、一般的なグラスだ。
「ワイングラスも、買っておきますね」
「一応、ワイングラス使った方が風味は良いらしいけど……この値段なら違いわからないよ、たぶん」
もっとも、高級ワインをワイングラスとグラスで飲み比べたところでも同じだろうと、茉鈴は思った。
「ていうか……JDの部屋に、普通はコルク抜きもワイングラスも無いんじゃないかな」
冷静になり、擁護のつもりで思ったことを素直に述べた。
いや、女王なら違うのか――ふと引っかかるが、軽く流した。この時は茉鈴にとって、どうでもよかった。
「そうですよね。細かいことは気にしないで、食べましょう」
玲奈がテーブルの正面に座る。
女子大生のひとり暮らしの部屋にも関わらず、豪勢な料理が並んでいることから、まるでレストランのようだった。床に座っていても、テーブルの真ん中に美しい花が飾られているからだと、茉鈴は思う。
しかし、ワインを開けてグラスに注ぐと――玲奈と顔を合わせて笑った。
やはり一般的なグラスは、明らかに浮いていた。風味よりも、雰囲気を損なう。
それでも、玲奈とは白けるどころか楽しめる間柄だった。雰囲気はとても和やかだと、茉鈴は感じていた。
「料理してくれて、ありがとう。ご苦労さま」
「先輩こそ、今日はお疲れさまでした」
茉鈴はグラスを持ち、玲奈と乾杯をした。グラス同士を軽く打ち付け、乾いた音が小さく響いた。




