第61話
十月九日、月曜日。
祝日の今日、午前十一時過ぎに茉鈴はおとぎの国の道明寺領を訪れた。
「お疲れさまっす」
「先輩! 大丈夫だったんですか!?」
スタッフルームの扉を開けるや否や、パイプ椅子に座っていた蓮見玲奈が勢いよく立ち上がった。
何事かと、茉鈴は驚く。だが直ぐに、玲奈の口振りから、昨晩の帰り道――喜志菫との一件を心配していたのだと理解した。
「ああ、ごめん。ちゃんと解決したから……大丈夫だよ」
結局はあの後、菫と駅まで歩いた。
帰宅しない日もあるようだが、菫の寝床はまだ実家らしい。茉鈴は送ろうと思ったものの、終電の都合で出来なかった。それに、菫が明るい笑顔を見せたことから、さほど心配ではなかった。
茉鈴は、何か困ったことがあればすぐに相談するよう『人生の先輩』として言い聞かせ、駅で別れた。
自堕落に過ごすことがいけないと、他人の人生を否定するわけではない。ただ、これからの菫は、きっとより良い方向へと進んでいくだろうと思った。
「無事なら無事で、連絡してくださいよ……。心配したんですから」
玲奈が、脱力気味にパイプ椅子へと座った。
心配させたことは悪かったと、茉鈴は反省する。
そもそも、玲奈とは携帯電話でやり取りを行う習慣が無かった。茉鈴には携帯電話を触る習慣すら、滅多に無いが――過去の『友達』だった頃の名残だと思った。当時は対面の有無に関わらず、言葉が交わらなかった。
だが、これからは社会人の一般常識として、些細なことでも報告や連絡しなければいけないと思った。
とはいえ、今回の件はそれほど心配することなのかと思う面もある。茉鈴は改めて考えたところ、自分にとっては違うにしても、玲奈にとって菫は『敵』のような存在なのだと思い出した。
そう。玲奈は事情を何も知らないのであった。
「あの子ね……昔、家庭教師で受け持ってたんだ」
茉鈴もパイプ椅子に座った。
喜志菖蒲のことは玲奈に話したくなかったが、それを避けては説明できないので、腹を括って全て話した。
「なるほど……。先輩にとっては、妹みたいな感じなんですね」
「うん。この店にまた客で来るのか、わからないけど……もし来ても、行儀よくするはずだから……出来たら、普通に接してあげて欲しい」
玲奈に対し、無理な注文をしている自覚がある。それでも、そのような機会があるならば、自分以外の人間にも受け入れて欲しかった。
「わかりました。なるべく前向きに考えてみます」
玲奈は少し躊躇った後、大きく頷いた。
約束でなくとも、その返事だけで茉鈴は充分だった。菫には遊びに来て欲しい。
「ありがとう」
「って、どうしたんですか?」
玲奈の驚いた様子に、茉鈴は気づいた。目に涙が溜まり、今にも溢れそうだった。
どうして泣きそうになっているのか、わからなかった。目尻を指先で拭いながら、考えた。
「それぐらい、嬉しいんだよ」
茉鈴はきっとそうだと思い、苦笑して見せた。
いや、そう思い込むことにした。
頭に浮かんだのは、昨晩のことだった。菫と、あの部屋で過ごした時間が終わった。ふたりで部屋を出て、それぞれの道を歩き出したまでだ。
名残惜しいわけではない。これまでのことを振り返ると――やはり、寂しさが込み上げた。
感情が、負の方向へ大きく揺れ動く。いっそ流れに身を任せたいところだが、目の前には玲奈が居る。
どのような理由であれ、この女性の前では、もう二度と弱い姿を見せたくなかった。また泣いてしまっては、カエルから人間に戻れない。
茉鈴はそう自分に言い聞かせ、込み上げるものをぐっと堪えた。
「これだけ親身に向き合うことが出来るなんて……先輩は、やっぱり先生に向いてますね」
玲奈が微笑み、茉鈴はなんだか違和感を覚えた。
言葉にした理由が違うとはいえ、泣き出しそうな姿を見せた。再び幻滅されることを危惧した。
だが、玲奈からは白けるどころか尊敬の念を向けられている。どうしてなのか、全く理解できなかった。
「あ、ありがとう……」
なんだか拍子が抜け、ひとまず落ち着いた。
「そろそろ準備しようか」
「はい。そうですね」
茉鈴として結果的には良かったものの、なんだか釈然としなかった。だが、その疑問を追うつもりはなく、気持ちを切り替えた。
玲奈とふたり、パイプ椅子から立ち上がり、衣装へと着替えた。
*
午後四時になり、おとぎの国の道明寺領は祝日の昼営業を終えた。
茉鈴は玲奈と共にスタッフルームへと移動した。ふたり共、今日のシフトはこれまでだった。
アルバイトに集中していたため、その間は菫や玲奈のことを考えずに済んだ。しかし、こうして再び玲奈とふたりきりになると、アルバイト開始前のことを思い出してしまう。
茉鈴は複雑な気分になり、ぼんやりとした。
まじまじと見るつもりは無かったが、玲奈がドレスを脱ぐ姿が視界に入った。アルバイトで、これまで何度も目にした光景だった。
ピンク色の下着が可愛い。白い肌が綺麗だ。茉鈴の内に、ある欲求が静かに込み上げる。
こちらの視線に気づいたのか、玲奈が振り返った。
「どうしたんですか?」
「いや……なんでもないよ」
このような場所で性的な目で見てしまったことに、茉鈴は自己嫌悪に陥った。複雑な気分からそのように移ったので、尚更だった。視線を外すように、俯いた。
かつては、あの肌に散々触れてきた。未だに感触を覚えている。
最後に素肌を重ねたのが、八月の終わり――もう一ヶ月以上開いているのだと、茉鈴は振り返った。
肌に触るどころか、口すらきけないと思っていた。だが、玲奈の気持ちを知り、なんとも言えない関係で現在に至る。
性欲が無いと言えば、嘘になる。むしろ今は、生理前でないにも関わらず昂ぶっている。
しかし、玲奈にぶつけてはいけないと分かっていた。
もう『友達』ではないのだから。互いの蛙化を防ぎ、早く恋人になるべきだ。
茉鈴はなんとか割り切り、自身も着替えた。
着替え終えると、茉鈴は玲奈とふたりで店を出た。
外はまだ明るい。夕方のこの街は大勢の人達で賑わっていると、外の空気に触れただけでわかった。
その中を、玲奈と並んで駅まで歩くはずだった。
ふと玲奈が店の前で立ち止まり、振り返った。
「先輩……もし予定無いなら、久しぶりにご飯でもどうですか?」
口振りといい表情といい、実に何気ないものだむた。茉鈴は言葉の意味を理解するまで、数秒の時間を要した。
「う、うん! 行こう! どこでもいいよ!」
突然のうえ、想像もしなかった提案だった。あまりの嬉しさから、興奮気味に返事をした。
それは反射的な言動でもあり――アルバイトの疲れはあるものの、この時間はさほど空腹ではないと、後になって気づいた。ちなみに、茉鈴にこの後の予定は特に無い。
「だけど……この時間って、中途半端だよね」
アルバイトの昼営業が終わる時間として、仕方のないことだった。腹の空き具合だけでなく、洒落た飲食店もまだ営業していないところが多い。
今日に限った話ではなかった。かつて、玲奈の誕生日を祝った時もそうだった。午後六時まで時間を潰したことを、覚えている。
「お腹ペコペコなら、どこか適当な店に行こうか?」
とはいえ、ファミリーレストランやハンバーガーショップ等のチェーン店なら今からでも入店可能だ。
アルバイトで賄いは出たが、玲奈がわざわざ提案するということは、腹を空かせている可能性を考えた。
「いえ。まだお腹は大丈夫です」
しかし、玲奈も同じようだった。
「それじゃあ、カフェにでも入って、とりあえずお店でも決めようか」
夕飯時まで時間を潰すことになり、全くの無計画な現状では、まずはそれからだと茉鈴は思った。
面倒ではない。むしろ、ふたりで店を選ぶことは、きっと楽しいだろう。それに、可能であれば予約までを入れておきたい。
「それもいいんですけど……」
だが、玲奈は表情を変えることなく――穏やかに否定したうえで、別の提案した。
「今から移動と料理の時間を考えたら、ちょうどお腹減る頃ですよね?」




