第60話
「こんな時間に、どうしたんだい? 菫ちゃん」
こちらを鋭い目つきで睨んでくる喜志菫に、茉鈴は緊張感を隠し――優しく微笑んだ。
人通りの疎らな、深夜の繁華街。駅まで向かう道で、菫が立ちはだかった。
この遭遇は偶然ではない。明らかに待ち構えていたものだと、茉鈴は察する。
「……」
訊ねるも、菫は何も答えない。むしろ、微動だにしなかった。
それを確かめると、茉鈴は隣の玲奈に首を向けた。先程から、恐怖や心細さが、ひしひしと伝わっていた。
「ごめん。先に帰ってくれる?」
付き合わせるのが申し訳ないため、この場から開放した。
「は、はい……」
玲奈は戸惑いながらも頷き、歩き出した。
ひとりで菫の横を通らせることが、茉鈴は心配だった。手を出されることを危惧した。しかし、菫を信じた。
玲奈は、早足で道の端を――なるべく大回りで菫を躱し、過ぎ去った。菫は玲奈を一瞥すらしなかった。
その様子を眺め、茉鈴はひとまず安心した。
「この前『最後の授業』をやったばかりだよね?」
だが、茉鈴の緊張感は解けない。自分にこそ、手を出される危険性がある。
それでも菫に向き合うべく、正面から近づいた。そして、道の真ん中でおよそ一歩分の距離を置き、立ち止まった。
「……お前が許せんだけや」
睨んだまま、菫がぽつりと漏らした。
「またそれ? もう何回も聞いたよ」
やれやれと言わんばかりに、茉鈴は苦笑した。
冗談のように受け流していいものではないと、理解している。菫とその姉に対しての罪悪感は、決して消えない。しかし、意図的にふざけた態度を取った。
都合よく罪を消したいわけではない。許されるまでは、どれだけ時間がかかろうとも償うつもりだ。
これまでは、罪悪感に苛まれることが『償い』だと思っていた。だが、何の解決にもならないことに気づいた。
「やかましい! うちらのこと、メチャクチャにしよって!」
菫が怒鳴る。
疎らな通行人からの視線を集めるが、少なくとも茉鈴は気にならなかった。
「いい加減、教えてよ。私は、どうすれば許されるの?」
菫の神経を逆撫でする意図で、投げやりに訊ねた。本音を引き出すために、なるべく菫を怒らせた。
立場から、これまで訊ねられなかった質問だ。だが、今となっては知る必要があると思った。
菫にここまで手を尽くしてもなお駄々を捏ねられるならば、埒が明かない。なるべく深くにある『根本』が知りたかった。
「菫ちゃんは私に、何をして欲しいわけ?」
「一生、うちの言うこと聞け。お前はずっとヘコヘコしてたらええねん」
何気ない回答に聞こえた。本心なのかすら、わからない。
これまで言われたことがあるのかも、わからなかった。それでも、これまでの菫の言動と一致しているため、何らおかしくないと茉鈴は感じた。
かつての自分は、確かにそう言われた通りに従っていたと思う。だが、どうしてか今は実感が湧かなかった。
一年前、玲奈に失恋をしてからは――アパートの狭い部屋で菫とふたり、怠惰に時間を過ごした。
茉鈴の頭に浮かんだのは、その光景だった。菫との時間の大半は、それなのだから。
罪悪感から、菫を受け入れていた。確かに居心地は悪かったが、不思議と苦痛ではなかった。
きっと、無気力に堕落する『相方』だったのだろう。ひとりでないなら、怖くない。当時、将来の不安が無かった理由のひとつに菫の存在があったと、今になって思う。
そう。茉鈴にとって菫は、決して悪くない存在だった。
ならば、菫にとってはどうだったのだろう。
菫に憎まれている自覚はあった。それでも部屋を訪れる理由は、罪悪感に付け込まれてのことだった。
実に歪な関係だった。加害者と被害者――茉鈴の持つ罪悪感こそが、ふたりを繋ぎ止める唯一の『絆』だったのだ。
「ごめん。それは出来ない」
茉鈴は、菫の本心をようやく理解した。
「私の時間を、キミひとりには使えない」
かつての自分であれば、きっとその要求を素直に受け入れていたと茉鈴は思う。
罪悪感なら、今でも確かにある。拒めない立場であると、わかっている。
だが、教職という目標へと歩き出した現在、別のかたちで償いたかった。それに、加害者の立場でとても言えないが――犯した罪に対し、明らかに見合っていない要求だ。
菫はじっと睨んでいたが、瞳が大きく見開いた。
おそらく、こうして拒まれることが想定外なのだろうと、茉鈴は思った。
「アホか……。うちだけに使うんや……」
菫が俯いた。
か細い声に茉鈴は、命令というより懇願しているように聞こえた。
「そうしたいのは山々なんだけど……もう出来ないんだよ」
茉鈴は、菫に将来の可能性を示すことが『償い』だと思っていた。
だが、それは間違いだったと今気づいた。世界の広さを知って貰う前に、やらなければいけないことがあった。
「菫ちゃんも、あの部屋から出よう!」
きっと、これがあの時に感じた違和感の正体だ。『最後の授業』を菫が拒んだ理由だ。
あの部屋を自分ひとりで出るのではなく、菫の腕を引き、連れ出さなければいけなかった。菫をひとり放っていたのだから、聞き入れて貰えなくて当然だ。
茉鈴は一歩踏み出し、正面から菫を抱きしめた。
「いやや。出とうない……。お前かって、先生なんか成らんかったらええねん……」
俯いたままの菫が、握った手で茉鈴の胸を叩いた。
「わかるよ。あれでも、居心地が良かったんだよね?」
とても弱々しく、茉鈴は痛くなかった。だが、重い悔しさを感じた。
菫にとって変わらないと思っていたものが――様々な要因が重なり、変わろうとしている。何を恨めばいいのか、わからないのだろう。
「でも、永遠なんて無いんだ。時間の流れには逆らえない。今こうして足掻いても、いつかは絶対に追い出される」
茉鈴としても現実的に考えれば、大学卒業後に学生向け賃貸であるあの部屋を引き払う。就職先によっては、菫と会えなくなる可能性はある。そのような未来が、近く待ち受けている。
喜志家とは奇妙な付き合いだが、菫が二年前と何も変わっていないのだと、茉鈴は思った。きっと今でも、本質は人懐っこい妹のような存在なのだろう。
「でも……私はこれからも、菫ちゃんの『先生』のつもりだよ。『最後の授業』は終わったけど……もし困ったことがあれば、いつでも頼って欲しい。もし力になれなくても、一緒に悩むから」
茉鈴は菫を、より強く抱きしめた。
自分本位の素っ気ない態度を取ったことを、反省した。菫を連れ出すために必要な言葉は、それだった。
結局は菫の意思に委ねるため、彼女がどうなろうと知らないのは事実だ。
家庭教師と教え子。加害者と被害者。それらの関係を終わらせる。罪悪感という繋がりを断ち切る。
しかし、菫を孤独にさせてはいけない。何らかの繋がりがなくては、菫を連れ出せない。それが何かはわからないが――ただ『味方』であると説いた。
「なぁ。偉そうなこと言うてるけど……なんで泣いてるん? もう泣かへん言うたやろ?」
菫の声が耳に届き、茉鈴は頬に熱いものが流れていることに気づいた。いつから流していたのか、わからない。全く自覚が無かった。
茉鈴自身驚くも、原因はすぐにわかった。
「私だって、寂しいんだよ」
恥ずかしそうに苦笑した。
菫との関係を、少なくともこちらから切るつもりはない。だが、ふたりで過ごした怠惰な時間は、終わりを迎える。
今になれば――無言で読書に耽っていたあの時間は、茉鈴にとっても居心地が良かったのだ。
これから新たに、蓮見玲奈の元へ向かう。それでも、かつての時間に別れを告げることに、茉鈴は名残惜しさがあった。
非情に徹することが出来なかったことが情けないが、悔いるほどではなかった。
「ていうか、菫ちゃんこそ泣いてるじゃん」
「アホ……。誰が泣いとるか」
震える声に続いて、菫が顔を上げた。マスカラが崩れるほど涙を流しながら――無邪気に笑っていた。
茉鈴は菫と泣き顔を突き合わせ、互いに笑った。
「私もあの部屋から出た時は、しんどかった。たぶん、キミも同じようになると思う。それでも……キミはひとりじゃない。それだけは覚えていて欲しい」
茉鈴の言葉に、菫が確かに頷いた。今度こそこちらの意図が通じたようだ。
「お前のことはやっぱり許せんけど……とりあえずは勘弁しといたるわ」
「ありがとう」
ひとしきり笑った後、菫の『許し』に感謝した。
これで許されたと、茉鈴は受け入れたわけではない。罪悪感は、これからも付き纏うだろう。
だが、少しずつ薄まればいいと、この時初めて思った。
「お前の……あのアホみたいな動画、観たんや」
涙を拭い、ふたり並んで駅まで歩き出したところで、菫がぽつりと漏らした。
「まあ、悪う無いんとちゃうか……」
茉鈴は隣の菫に首を向けるが、菫が顔を背け、どのような表情なのかわからなかった。
それでも、この女性から教師として肯定されたことは、とても嬉しく思う。
そして、遠くに離れるかもしれない焦りから、このような行動に出たのだと、ようやく理解した。
「菫ちゃんも、絶対に大丈夫だからね」
根拠や可能性は、茉鈴の頭に無かった。
おそらく服飾関係へと進むのだろうが、菫も歩き出そうとしていることを、茉鈴は純粋に応援したかった。何よりも、心から信じていた。
恥ずかしそうに嫌がっている菫の頭を撫でながら――ひとりの『生徒』を導くことが出来た手応えを、ようやく得た。
第20章『最後の授業(後)』 完
次回 第21話『ふたりで流す涙』
茉鈴は玲奈から食事に誘われる。




