第57話
茉鈴は菫と話しながら街を歩いた。やがて、菫に連れられ、地下へと下りた。
この街の地下は広く複雑であり、地理感覚も薄れることから、まるで迷宮のようだと茉鈴は以前から思っていた。ひとりで迷わず歩く自信が無かったが、今は地元民の菫が居るから安心した。
地下道は地下鉄の駅へ続くだけでなく、無数の店が並んでいる。買い物として訪れることは、おかしくない。
「ここにしよか」
菫の案内で、一軒の店に入った。
「なんか……普通だね」
茉鈴は率直な感想を述べながら、菫の全身を眺めた。
落ち着いた雰囲気の店だった。店頭の割とカジュアルな品揃えから、菫が普段着ているような衣服を扱ってはいないようだ。
「なんや? ケンカ売っとんのか?」
「いや、そうじゃないんだけど……。ありがとう」
菫が普段利用している店に連れて行かれると、茉鈴は考えなかったわけではない。
この女性にも、最低限の良心――いや『常識』に近いものがまだ残っているようだと、安心した。
店の奥へと進んでいく菫の背中を、茉鈴は追った。
「とりあえず、これなんかどうや。花柄とかチェック柄とか、レトロな柄が最近のトレンドやで」
菫が取って渡したのは、ガンクラブチェックのワイドスラックスだった。
「へぇ。詳しいんだね」
どこのどの層で流行っているのかは定かでないが、茉鈴は信じるしかなかった。
それを抜きにしても、柄物パンツを持っていないので新鮮だった。確かにレトロな雰囲気があり、なんだか上品な印象を持った。
「そうやな……それに合わせるんやったら、これや」
続けて菫が取ったのは、一枚のニットだった。
明るい緑色なのは、コーディネートとして合わせたのか、それともアルバイトのローブを意識してのことか――茉鈴には、わからない。
「ありがとう。一度、試着してみるね」
茉鈴はフィッティングルームに入り、着替えてみた。
サイズに疑問があったが、菫の目測が正確なのか、丁度良かった。
そして、鏡を見ると――まるで自分ではないような姿が、映っていた。
「ちょっと、菫ちゃん! 私、超クールなお姉さんみたいなんだけど!?」
「自分で言うて、どこがクールやねん」
茉鈴は興奮気味にカーテンを開けた。
現在の髪型も合わさり、知的で落ち着いた雰囲気だった。それに、秋らしさも感じる。勿体ないぐらいの上品な格好に見えたのだ。
間違いなく、自分ひとりでは選ばない衣服だ。どれほどの年月を重ねても、きっとたどり着けない姿だと思う。
だから、菫のセンスを素直に尊敬した。
「ゴールドのネックレスでもあったら、完璧なんやけどな」
「えー。そんなの持ってないよ」
確かにアクセントとして引き締まると、茉鈴は思った。
菫がにんまりと笑っていた。かつて、家庭教師をしていた時に見た――幼くも、どこか誇らしげな笑みだった。
茉鈴まで嬉しくなり、笑みが漏れた。
「菫ちゃん、ほんと凄いよね。これ買うからさ、もうひとつ……スカートのコーデもお願いしていい?」
着替え終えてフィッティングルームから出ると、目を輝かせて訊ねた。
自分の衣服として欲しいというより――菫の可能性を、より確かめたかった。
菫は気だるそうに溜め息をつくと、踵を返して歩き出した。
「トレンドの色は、シンプルに赤と青や。それも、アホみたいにはっきりしたやつな」
「赤は……たぶん私には似合わないよね」
「当たり前やろ」
菫の言葉から、茉鈴は真っ赤とも言える派手な色を想像した。蓮見玲奈なら似合いそうだと思った。
「お前に真っ青なんも似合わんわ」
茉鈴はふと、鮮やかな青色のシャツが見えた。いくら青色とはいえ、難易度が高そうだった。
「一応は、トレンドに近い色やな」
菫は、くすんだ青色の――カーディガンを掲げた。
前開きでボタンの付いたニット製品だから、茉鈴はカーディガンだと理解した。丈が短く、見た瞬間は何かわからなかった。
菫がカーディガンのハンガーを手に悩みながら、次にマキシ丈の黒いフレアスカートを取った。
「ショートカーディガンもフレアスカートも、トレンドや。上半身は引き締めて、下半身はボリューム出すで」
ふたつのハンガーを重ねて見せる。
茉鈴は菫の言葉に納得し、それらを持って再びフィッティングルームに入った。
普段はやや大きめのカーディガンを着ることが多いため、ゆったりとしたシルエットを鏡で見慣れていた。
しかし、このカーディガンの丈は、ちょうどスカートのウェスト位置までだった。だから、ショートヘアであることからも――すっきりとした三角形のシルエットになった。
それでいて、どこか穏やかな印象でもあるため、なんだか不思議な感触だった。とはいえ、茉鈴としてはこちらもとても似合っていると思う。
そして、確信した。
トレンドを知識として振りかざすなら、誰でも出来るかもしれないが――さらに似合うコーディネートを考えるなら、センスが必要だ。
菫はそれを持っている。元々あったのか、或いは磨かれたのか、茉鈴にはわからない。だが、万人が持つことのできない、貴重な能力であることには違いない。
「私、もう無敵になったよ。ありがとう。ていうか……菫ちゃん、ファッションリーダーになれるんじゃない?」
その言葉はおそらく誤用だと自覚しながらも、茉鈴はカーテンを開け、感激の意を述べた。
「なにアホみたいなこと言うてんねん」
菫はやや照れくさそうに、視線を外した。
茉鈴が再び着替え終えて出ると、店員がやって来た。手持ちの商品が四点もあることを気にしてだろうと、茉鈴は察した。
「これ全部買いますんで、お会計お願いします」
「ありがとうございます。……先程から眺めていましたが、とてもお似合いでしたよ」
商品を受け取りながら、店員が漏らした。
冷静に考えれば、世辞のひとつだったのかもしれない。だが、茉鈴の頭にその可能性は無く、純粋な感想として受け取った。
「でしょ? いやー、この子のセンス、ほんとヤバいですよね。私、尊敬しますよ」
「はい。とってもオシャレなセンスですね」
笑みを浮かべた店員と共に、茉鈴は誇らしげに菫を見る。
菫は驚いたように――いや、どこか挙動不審にふたりを見渡した後、店の出入り口へと去っていった。
「お、表で待っとるからな。はよ金払ってこい」
明らかに照れている様子が、茉鈴には珍しかった。
そして、視界から消えようとする菫の背中に、連れてきて良かったと思った。
その後、地上に上がった。
時刻は午後三時前。菫に言った通り、衣服を選んだ礼をしなくてはいけない。それに、茉鈴としても買い物と試着で疲れたため、休みたかった。
菫の提案で、近くにある大型商業施設に向かった。六階にある、一軒のカフェに入る。時間帯から、少し混んでいた。だが平日のせいか、十五分ほど待った後、四人がけのテーブル席へと通された。茉鈴は菫と向かい合って座った。
カフェとはいえ、海外のとあるリゾート地をモチーフにしたパンケーキ屋だった。菫はミックスフルーツパンケーキとミルクティー、茉鈴はマカダミアナッツパンケーキとキャラメルラテを注文した。
茉鈴はこのような店に来る機会がほとんど無いため、少し落ち着かなかった。だが、豪勢なパンケーキを美味しそうに頬張る菫を見ると、年相応の女性なのだと思い、微笑ましかった。
明るい雰囲気の店内だった。窓からの陽射しも、心地良い。初秋の昼下がりは、とても穏やかだった。
滅多に口にしないパンケーキを、茉鈴もまた美味しく食べた。もしも『機会』があるのなら、玲奈を連れて訪れたいと思った。
マグカップのキャラメルラテを飲みながら、隣の席に置いた大きなショップバッグを眺めた。衣服が四着も入っている。自宅まで持って帰ることを考えれば、やや億劫だ。
「菫ちゃんと買い物したのって、たぶん初めてだよね」
「そうか? そんな気せえへんけど」
「外食はあるんだけどね……。ほんと、どうして今まで無かったんだろ」
無邪気にパンケーキを頬張っていた菫だが、外食という言葉に眉が少し動いたのを、茉鈴は見逃さなかった。
そう。茉鈴の記憶では『三人』で外食していた。
触れるべき過去ではないと、茉鈴は思う。しかし、触れなければいけない。もう避けては通れない。
「私ね、学校の先生を目指すことにしたんだ。誰かに教えるのが、楽しいから……」
茉鈴はテーブルに肘をつき、菫に微笑みかけた。
ようやく、今日こうして菫を連れ出した真の目的に触れた。
「でも、キミの言うことも正しい。確かに私には、生徒を導いていく自信が無い――今までは」
菫がフォークを皿に置いた。そして、先程までとは打って変わり、険しい表情で茉鈴を睨みつける。
場所など関係ないのだろう。今にでも大声で怒鳴りそうだと、茉鈴は思った。
「キミのため、だなんて綺麗事を言うつもりは無いよ。あくまでも、私のため……。そうさ、私は聖人なんかじゃない。自分本位で狡賢い、クズだ」
それでも茉鈴は肘をついたまま、苦笑した。
その意図は無いが、煽っているような口調だと自覚した。しかし、紛れもない本心だった。
自分自身のために。乗り越えて、前へ進むために。教師になるという夢を掴むために。
巻き込んだこの女性がどうなるかは、二の次だ。その考えで、騙すように連れ出した。
だが、願わくば――彼女にとっても、少しでも良い方向へ進んで欲しいと思う。
「だから、これからキミに……もう二年も開いちゃったけど……最後の授業を始めよう」
第19章『最後の授業(前)』 完
次回 第20章『最後の授業(後)』
茉鈴は菫に、ひとつの可能性を説く。




