第56話
「それ食べてから、ちょっとお出かけしない?」
茉鈴はテーブルで牛丼を食べている菫の隣に座り、微笑みかけた。
箸を動かしながら、菫が露骨に嫌な表情を浮かべる。
「なんや、いきなり……。気持ち悪いやっちゃな」
菫との付き合いは二年になる。外食程度ならあるが、ふたりで『外へ遊びに出かけた』ことは、茉鈴の記憶には無かった。だから、菫が気味悪げに警戒するのは当然だ。
「ほら。今、季節の変わり目でしょ? 秋物の服欲しいから、付き合ってよ」
優先度は極めて低いが、その用件があることもまた、事実だ。嘘ではない。
しかし、茉鈴の意図は別にあった。
「は? なんで、うちが?」
「菫ちゃん、センス良いよね」
少なくとも、私よりは――茉鈴は心中で付け加える。
決して、菫のような格好をしたいわけではない。ただ、どこで耳にしたのかは思い出せないが、菫が服飾の専門学校に通っているという情報を持っていた。
具体的にどのようなことを学んでいるのかは、知らない。服を制作する技術と、似合う服を選ぶことは、違うとも理解している。だが、どちらもセンスが問われることには違いない。
「きっしょ……。おだてても、何も出えへんで」
「むしろ、私が手間賃出すよ。甘いものでも晩ごはんでも、私が奢るね。菫ちゃんの貴重な時間を借りるわけだから」
茉鈴は貯金に余裕がある現在、有無を言わさず頷かせるには、それが手っ取り早い手段だと思った。
菫はまだ警戒している様子だが、少しの間を置き、溜め息をついた。
「なーんか解せんけど……そこまで言うんやったら、しゃーないなぁ」
「ありがとう。急いでないから、ゆっくり食べてね」
ひとまずは漕ぎ着けたと、茉鈴は微笑みながら、内心で肩の力を抜いた。
しばらくして菫が食べ終え、ふたりで部屋を出た。
衣服の購入なら、量販店があるため近場でも可能だった。だが、それではなんだか味気ないと茉鈴は思い、電車に乗った。向かう先は、アルバイト先でもある繁華街だ。
「えへへっ。菫ちゃんとデートだね」
電車に揺られながら――茉鈴にそのつもりは無いが、冗談のつもりで隣に座る菫に微笑みかけた。
「何がやねん……」
菫は気だるそうに相槌を打った。
空回りしている自覚は、茉鈴に無かった。ここまでは狙い通りだ。いっそ、こちらの意図が見え透くぐらいで構わないと思った。
やがて電車を降り、少し歩いた。
週末や休日に比べては空いているが、平日のこの時間帯でも街は賑わっていた。外国人観光客が目立つ。
「そういえば、この前凄かったらしいね。ここから飛び降りたりしてさー」
大きな橋に差し掛かり、茉鈴は河を見下ろした。
二週間ほど前、地元の野球チームが十八年振りに『リーグ優勝』したのであった。この橋一帯はとても混雑し、ファンの伝統行事らしいが――何人もが、この汚い河に飛び込んだのであった。
熱気から一部が暴徒化した。フライドチキンのチェーン店の象徴である老人の像も、胴上げされた末、河に投げ込まれたと茉鈴は聞いた。
それほどまでに、あの日の夜は大賑わいだった。
「あいつら、アホやわ」
「え? 菫ちゃんも『Vやねん』じゃないの?」
「知らんがな」
話を振るも、菫は白けた様子だった。
鬱陶しく絡まれていることよりも、野球自体に興味が無いように、茉鈴には見えた。茉鈴も野球については詳しくないが、確かにこれまで菫と話したことが無いことに気づいた。
そして、地元民の割には意外だと思った。
あの日の夜、茉鈴はアルバイトだった。店内も試合で持ち切りであり、各々が携帯電話で状況を追っていた。優勝が決まった瞬間は、大いに盛り上がった。地元民であるハリエットが興奮し、客に一杯ずつ奢ったほどだ。
「ウチの店も、凄かったよ。とにかく、お祭り騒ぎで」
「お前らも、アホやなぁ」
「そうかもしれないけど……。喜びは皆で分かち合うのが、人間さ」
「は? 何言うてんねん」
確かに臭い台詞を口にしたかもしれないと、後になって茉鈴は思った。しかし、恥ずかしさは無かった。
菫が誰かと喜べるようにって欲しいと願うのは、茉鈴にとっての本心だった。
「そうだ。菫ちゃんも、ウチでバイトしてみない? それなりに楽しいし、それなりに儲かるよ?」
この場で浮かんだ、ただの思い付きを、茉鈴は提案した。
菫は目を丸くした後、大笑いした。周辺の通行人が、何事かと目を向けるほどだ。
「なんで、お前らみたいにアホな真似せんとあかんねん」
「私も最初は恥ずかしかったけど、コスプレって皆でやれば案外楽しいよ」
そもそも、菫の格好こそいつもコスプレじみていると茉鈴は思うが、口には出さなかった。
「冗談で言ってるんじゃないからね。一回、考えてみてよ。ほら……菫ちゃんなら、小悪魔的なキャラが似合いそう」
「誰が小悪魔やねん」
茉鈴が具体的な姿まで提示したところ、菫から足を軽く蹴られた。
まるで『小悪魔じゃなくて本当の悪魔』のような物言いに聞こえた。しかし蹴られた感触としては、恥ずかしい、或いは癇に障ったと言いたげだった。
「大体……うちは出禁リーチ食らってるんや。あんな店、もう二度と行かんわ」
その事実に対し、菫は呆れているように、茉鈴は感じた。少なくとも、後悔や物寂しさは無い。
「暴れたりするのはナシで、普通にしてればいいじゃん。お客としてでも、全然歓迎するよ」
「は? 来んな言うたん、そもそもお前やんけ」
「あれ? そうだっけ?」
茉鈴は苦笑するが――言われてみれば確かにそうだったと、思い出す。
そう。事の発端は、菫が蓮見玲奈と接触したからであった。玲奈を守るために、店に近づくなと言った。ハリエットが菫に警告を出した日も、入口で揉めたのであった。
「ごめん。私が間違ってたよ」
これまでは、主に余裕が無かったせいで、茉鈴はそのような態度を取っていた。
しかし現在は、明白にかつての言動を否定した。
この件だけではない。喜志菫を排除してはいけなかった。どうにかして彼女を受け入れるべきだったと、今は思う。
「……そんなにコロコロ変えられてもなぁ。まあ、どうでもええけど」
菫は僅かに驚いた後、素っ気なく漏らした。
確かに、迎えようとしたところで菫が素直に応じたとは、茉鈴は到底思えない。だが、すぐ結果に現れなくとも構わなかった。こちらから歩み寄る姿勢を見せることが、大切だったのだ。
「もう二度と、絶対に変えないよ。だから、お客さんとして楽しもうよ――行儀よくしてさ」
「いや……そういうの、ええから。ウザイで? ほんま」
菫が白けた様子で歩く。その少し後に、茉鈴は付いた。
暑くはないが、晴れて暖かい昼下がりだった。世界は明るく、喧騒が耳に触れた。
「ていうか、お前があの店でバイト始めて、ここまで続いたんが……ほんま意外や」
「そうだよね。私も、信じられないよ」
「なんでや? ……って、あのオンナやな」
「うん……。ぶっちゃけ、それ目当てだった」
間違いなく、菫に見透かされている。だから茉鈴は、照れながらも素直に頷いた。
菫の前で余所の女性を出すことは、喜志菖蒲の件から、失礼にあたると思っていた。今でも、罪悪感が全く無いわけではない。しかし、以前に比べ肩が軽くなっていた。
この態度に、菫が怒ることを覚悟した。
だが、ここは街の真ん中であり周辺に人も居るからか、菫は振り返ることなく歩き続けた。
「あの日……あんな店で働いとるあのオンナを見せたいがために、お前を行かせたんや」
ふと菫が立ち止まり、振り返った。やはり、白けた――つまらないものを見るような目で、茉鈴を見上げた。
六月のことを、茉鈴は思い出した。菫からの急な電話が不可解ながらも、それに従いおとぎの国の道明寺領へと足を運んだのであった。
あの時は、玲奈との再会で頭がいっぱいだったため、菫の意図など考えなかった。
今の台詞から、幻滅させたかったのだと、理解する。
だが、玲奈の美しい姿はまさに理想通りであり、幻滅どころか見惚れたのだ。
「ありがとう、菫ちゃん」
皮肉の意図は無い。茉鈴は純粋に、菫に感謝した。
きっと、あの機会が無ければ――二度と再会できなかったような気がした。
「菫ちゃんは、私のキューピットだね」
茉鈴は思ったことをそのまま漏らしたところ、菫から足を、今度は割りと強く蹴られた。
「いった」
「やかましいわ! 死ね!」
足を擦り痛がる素振りを見せながら、調子に乗りすぎたと少し反省した。
とはいえ、菫が怒っているのは何気ない一言だけではないと、茉鈴は理解していた。
「この世界には、大勢の人達が居るんだ。隙間をすり抜けて自分の思い通りに事を運ぶのは、難しいよ」
ごく当たり前のことだ。しかし、ひとりでは意外と気づかないと茉鈴は思う。
「私がそうだったから……」
茉鈴は、蓮見玲奈との出来事を振り返った。恋心を抱くが、理不尽さに阻まれ届かなかった。
そう。他人の気持ちを理解することは、とても難しい。だが、この世界で生きていく以上は、避けて通れない。
茉鈴は菫に、まずはそれを伝えたかった。




