第55話
十月二日、月曜日。
大学の後期授業が始まり、茉鈴が真っ先に向かった先は就職課だった。
これまでは、茉鈴にとってあまり縁の無い――いや、なるべく関わりたくない部署だった。しかし、初めて自らの足で出向いた。
夏季休暇明けであり、多くの生徒で混雑していた。しばらく待ち、学科担当者と面談した。
茉鈴は教師を目指す旨を伝えた。事前に用意していなくとも、志望動機から自己PRまで話すことが出来た。
担当者は納得のうえ、二年生前期で介護等体験の履修を終えていないことに触れた。教職課程プログラムのひとつだ。
茉鈴は、当時は教職に興味が無かったこと、そして中学か高校の国語系科目の教師を目指す以上――大変だが、四年生の前期で履修する考えを述べた。
計画としては教職課程終了見込みであるため、教員採用試験についての話を聞かされた。茉鈴にとって将来を左右する、事実上の『就職試験』となる。
公立校にしろ私立高にしろ、どこかしらに必ず合格する保証は無い。教職を目指す生徒の中には、一般企業の一般職と併願して就職活動を進めている生徒もいると、聞かされた。
担当者と話している感触から、危険分散の提案というより――教職へ『逃げてきた』と思われている節が、茉鈴にはあった。
勿論、教職へ就くのは決して簡単なことではない。ただ、教員採用試験の合否を問わず、就職活動へ干渉させないための意思決定だと捉えられているようだ。
これまで怠けてきたのだから無理はないと、茉鈴は思う。この時期に教職への進路を選択するのは、極めて稀だろう。
「いいえ……。私は必ず教師に成ります。絶対に試験に受かってみせます」
だが、危険分散を考えず、茉鈴の決意は揺るがなかった。これまで散々無駄な時間を浪費してきたのだから、余計なことにかまける暇はもう無い。ひとつの道を、真っ直ぐ歩いていくつもりだった。
それに、蓮見玲奈の姿が脳裏に浮かんだ。
彼女もまた、将来を決定付ける『交換留学の選考』ただひとつに、全力で取り組んでいる。その姿に、少なからず感化されていた。
こうして担当者と面談し、茉鈴は己の決意を確かめた。
昨日まで行われたアルバイトでの雑学教室は、大盛況で幕を下ろした。手応えが勘違いでなければ、茉鈴が教職を目指す、充分な根拠となる。
それに――茉鈴はあの夜の出来事を、まだ鮮明に覚えていた。
*
「私、先生を目指すよ」
アルバイトの帰り道で、玲奈に優しく微笑みかけた。
驚いた表情の後、玲奈もまた微笑んだ。
「そうですね……。わたしも、それが良いと思います」
茉鈴はひとまず賛同された。欲しくないわけではなかったが、貰えるとやはり嬉しい。
「というか、凄い適当に出版社だなんて言って……本当、すいませんでした」
玲奈が頭を下げる。申し訳無さそうな様子から、発言に責任を感じているように、茉鈴には見えた。
確かに、業界研究や企業説明会など、それほど多くはないが出版業界の就職活動に時間を費やした。現在になれば無駄だったと言える。
「ううん。どんな知識と経験でも、何かの役に立つかもしれないから」
だが、茉鈴は無駄として扱わないつもりだった。結果的には、良い勉強になったと思っている。
玲奈の罪悪感は消えないだろうが少しは和らいだのか、玲奈は顔を上げて苦笑した。
「そういうところ、先生らしいですね。今回のイベントでも……先生に向いてるって、確信しましたよ」
玲奈の後押しが、茉鈴にはとても心強かった。
決意がさらに加速する中――ここで初めて教職への同意、玲奈の意見を得たのだと、ふと思った。
いや、玲奈が出版社と発言したことを、鵜呑みにしていたのであった。
現在になって思い返せば、明らかにおかしい。責任は発言主の玲奈ではなく、何も疑わなかった自分にあるが。
そう。きっと、あの時は少なからず玲奈に依存していたのだろう。この件に限らず、玲奈の発言全てに何も疑問を持たなかった。
おそらく、これも自身の臆病さが招いたことだと、茉鈴は思った。
蓮見玲奈という人間を否定したいわけではない。ただ、強くなりたい。その結果、自分自身を意思を持つことが出来た。
「先生になるって言っても、不安はあるよ。教育っていうのは、教えるのもだけど、生徒を導くことも大切なんだと思う。問題児が居る場合、どうすればいいんだろうって……」
「確かに、そういう意味では先生って大変ですよね」
他者からの受け売りだが、その解決能力が大きく欠けていると茉鈴は自覚している。特に生徒の年齢が幼くなるにつれ、教師側に掛かる責任の比重が大きくなる。
かつては、それを理由に諦めたこともあった。
だが、現在は乗り越えたいと思っていた。乗り越えられると、自分を信じていた。
だから、玲奈の前で僅かだが弱音を吐いているという自覚は無かった。
「まあ、それも『やり甲斐』になるんじゃないかな。私も問題児だったから、目線合わせて成長を手助けしていきたいな」
玲奈には抽象的な発言に聞こえただろうが、茉鈴の頭には――未解決の具体的な一例が浮かんでいた。
「そうですね……。反面教師になるところも、たぶんありますよね」
玲奈も連れられて苦笑した。自身の言動による蛙化の危惧は、茉鈴の頭に全く無かった。
それよりも――今思い浮かんでいる問題に対し、恐怖はまだ少なからずある。だが、頑張って向き合おうと、力強く頷いた。
*
茉鈴は大学で就職課の用事を終えると、その足で図書館へ足を運んだ。教育学の本をいくつか借りた。そして、今日は受講する講義が何も無いため、アパートへと帰宅した。
もやしと卵と共に塩味のインスタントラーメンを茹で、昼食を済ませた。
茉鈴は教職の進路を選択したことで、就職活動の内容が変わった。通常ならばこの時期は、会社説明会や業界研究、エントリーシートの記入内容、適性検査の勉強を行う。教職にとって、学校の研究は確かに必要だ。しかし、現在の茉鈴にとって最も大切なことは、来年受験する教員採用試験の勉強だ。それを軸とし、読書で理想の教師像をかたち作る計画だった。
午後から勉強しようとした矢先――玄関の扉が、乱暴に叩かれた。もう慣れたが、あまり良い気はしない。
「やっぱりおったな――って、なんやその頭」
扉を開けると、喜志菫の姿があった。
茉鈴は縮毛矯正した毛髪にすっかり馴染んでいたが、菫に見せるのは初めてだった。
驚く菫の一方で、茉鈴もまた菫を一目見て、女子高生の格好かと思った。白いブラウスに黒いネクタイ、黒いスカート、そして黒いフード付きパーカー。長い黒髪をツインテールにしているため幼く見えたことも、理由のひとつだろう。制服ではなく私服だと、少しの間を置いて理解した。
菫は頭から足まで、黒一色だった。
上半身が割りと厚い割に、下半身はミニスカートと短い靴下、厚底のパンプスだ。夏場から腕は徹底的に隠すのに――まだ寒くはないとはいえ、どうして生足は曝け出せるのか、茉鈴には理解できなかった。
「就活してるから、ちゃんとしたんだよ。……あと、言っとくけど、サボってないからね。講義が無いだけだからね」
「あっそ……。まあ、飯にするで」
とはいえ、その疑問を訊ねるのも野暮であるため、ひとまず菫を部屋に上げた。
菫は有名な牛丼屋のビニール袋を持っていた。
ひとりで牛丼屋に入ることは、茉鈴にも出来る。だが、そのような格好で入る菫が、とても『強い』と思った。
「悪いけど……私、食べたばっかりだよ」
「それやったら、置いといたるから晩に食えや」
茉鈴はいつもであれば牛丼の匂いに腹が疼くが、腹が膨れた今は、なんだか重く感じた。
菫がテーブルに向かって座り、牛丼を食べ始めた。
拒んだことで怒られなかったのが、意外だった。茉鈴はインスタントの味噌汁と、熱い茶を用意したところ――テーブルに図書館で借りてきた本や勉強道具が置かれていることに気づき、内心で焦った。
しかし、菫がそれに触れず黙々と食べていることから、なんとか落ち着いた。
とはいえ、教職を目指していることが菫に知られたと捉えて間違いないだろう。
それでも、茉鈴は口にしたくなかった。菫には、まだ隠しておきたかった。俗に言う『サプライズ』ではないが、隠してまで実行したいことがあった。
計画――いや、考えはまとまっていない。しかし、この状況下かつアルバイトが休日であることから、実行するなら今しかないと判断した。
どうせ菫は、昼食を済ませた後は適当に時間を潰すだけだろう。つまり、暇なのだ。
「ねぇ、菫ちゃん」
茉鈴は床に腰を下ろし、目線の高さを食事中の菫に合わせた。
罪悪感や恐怖――不思議と、菫に対する『抵抗』は無かった。
「なんや? やっぱり食いたなったんか?」
「そうじゃないいんだけど……。それ食べてから、ちょっとお出かけしない?」




