第54話
九月三十日、土曜日。
午後十一時になり、茉鈴はアルバイトを終えた。
スタッフルームで衣装から私服に着替え、店を出る。その際に玲奈と一緒だったのは、少なくとも茉鈴が意図したことではなく、ただの偶然だった。
「お月見の雑学教室、今日も良い感じでしたね」
隣を歩く玲奈が茉鈴の顔を覗き込み、微笑んだ。
「あと一日あるけどね」
十五夜は昨日終えている。しかし、ハリエットが取った混雑の対応として、今日の他、明日も開かれる。
この国でまだお月見気分なのはウチぐらいだろうと、茉鈴は思った。
やはり、今日も昨日と同じく、雑学教室の時間帯は満席だった。茉鈴は昨日と大筋の同じ話を喋った。
客席を見ている限り、手応えは良かった。話しかける口実なのかもしれないが、後で質問をする客も居るほどだ。
おそらく想像以上にイベントが成功し、ハリエットは大喜びだった。
茉鈴としても、思っていたより楽しかった。
「この調子で、ハロウィンとクリスマスも開かないとですね」
「いや……お月見だからこそ、こじんまりやれたんだと思うよ。そのへんのイベントは、もっと騒いだ方がいいんじゃないかな」
ハロウィンとクリスマスに関して、茉鈴は雑学の知識が無いわけではない。だが、ハリエットから頼まれたとしても、その理由で断るつもりだ。
「それじゃあ、読書会なんてどうですか?」
参加者がそれぞれ好きな本を薦めたり、事前に読んだ指定の一冊について意見を交わしたりする集まりだ。
楽しそうではあるが、茉鈴はこれまで参加したことがなかった。どこで集まっているのかすら、知らない。いや、そもそも、この国ではあまり馴染みの無いイベントだと思う。
「うーん……。あのお店でやるのは、ちょっと……」
もし読書会を開催したところで――雑学教室のように誰でも参加できるわけではないため、ごく少数しか集まらないだろう。店の隅で騒いでいるところを想像すると、なんだか物寂しい気持ちになった。
「もうっ。せっかく提案してるんですから、前向きに考えてくださいよ」
「あははは……。ありがとう」
文句を漏らす玲奈に、茉鈴は苦笑した。謙遜しているわけではない。これでも前向きに考えたつもりだが、伝わりにくいと思った。
とはいえ、こうして次回以降を考えてくれている玲奈に感謝しているのは、事実だ。
「ほんと、ありがとうね。ちょくちょくアシストしてくれて」
昨日と今日と、雑学教室で合いの手を入れるがごとく、挙手してくれていることにも――
玲奈は話の腰を折り、純粋な疑問を挙げているわけではない。質問をすることで話を広げられる意図で、訊ねている。
まるで『八百長』のようだが、息が合っていなければ出来ない芸当だと、茉鈴は思っていた。だから、嬉しかった。
「あれぐらいなら、全然構いませんよ……」
玲奈が優しく微笑んだ。
そして、隣に並んで歩きながら――ふと、手を繋いできた。
突然の出来事に、茉鈴の手が一瞬震える。自分のような人間に、このような資格があるのか、少し考える。
「ちゃんと自分の言葉であそこまで喋れる先輩が、カッコよかったです。まるで、先生みたいで……」
だが、玲奈から指を絡められた。少なくともこの瞬間だけは、肯定された。
ぽつりと漏らした玲奈が、どのような表情をしているのか、茉鈴はわからない。ただ、手に伝わる温もりを感じていた。
昼間の暑さは、いつの間にか和らいでいた。外に出ただけで汗が浮かぶほどではない。
むしろ、この時間帯は少し肌寒い。カーディガンやパーカーなど、長袖の羽織るものが手放せない。
そう。夏が終わり、季節は秋へ移ろう。
深夜にも関わらず、この街はまだ明るく騒がしい。それでも、茉鈴はふと夜空を見上げると――乾いた空気の向こうで星は輝き、大きく丸い月が静かに浮かんでいた。
綺麗な満月にしか見えないが、厳密には違った。
「十五夜の翌日の今日……新月から十六日目の夜を『十六夜』って言うんだ」
茉鈴は、魔法使いマーリンのように切り出した。
「躊躇うことを『猶予』って言うよね。十五夜に比べてお月さまが出てくるのがちょっとだけ遅いから、躊躇ってるように見えて、そう呼ばれるようになったんだ」
「へぇ。確かに、昔から似たような言葉だなって、思ってました」
特殊な読み方をする言葉には、必ず何らかの由来がある。この場合は誤差程度の遅れなので、強引な解釈だと茉鈴は思っていた。
とはいえ、茉鈴が玲奈に伝えたいことは、それについてではない。
「私もね……これまで猶予ってきたなって、思うんだ」
玲奈との交際のこと、大学卒業後の進路のこと、そして遡れば――喜志菖蒲とのことも。
目の前にして立ち止まってきたことは、挙げればきりが無い。中には後悔していることもある。
それらはすべて、自身の臆病さが原因だった。弱い人間だからこそ、進めずにいた。
「ほんとですよ……。バカみたいです」
玲奈が不満げに漏らす。当然の反応だと茉鈴は思い、苦笑した。
「十五夜の満月を『望月』って言うけどさ、十六夜の月を『既望』って言うんだ。『既に望月を観た』という意味で」
夜空には大きく丸い月が浮かんでいた。
満月にしか見えないが、十五夜から一日経っている以上、満月とは定義できない。おそらく、よく観察しないとわからない程度の、何らかの欠けがある。
「おかしな言葉だよね。hopeの方の『希望』と、何も関係無いのに……」
「でも、なんだか素敵ですね」
同じ読み方なのは、ただの偶然だった。
天文学の観点では、確かに違う。だが、少なくとも一般人の茉鈴は、どうしても語呂合わせを連想してしまう。
だから、このように至った。
「結果論だけど……猶予ったからこそ、キボウにありつけたと思うんだ」
茉鈴は大学を卒業した後、出版業界で働こうと、漠然と考えていた。
だが、その姿が全く想像できなかった。いざ就職活動を始めても、何の感触も得られなかった。
このまま進んでいいのか、立ち止まった時――ふとしたきっかけで、雑学教室を開くことになった。昨日と今日と、他人を相手に、自分の知識と考えを披露することができた。納得と満足をして貰えたとこが、とても嬉しかった。
「きっと、既に見えていたんだろうね」
その道に進むのを薦める声は、いくつかあった。とはいえ、そちらの姿も想像できなかった。
しかし、こうして確かな手応えを掴み――そして、愛する女性の些細な一言が、最後の後押しになった。
涼しい風が、頬を撫でる。
この瞬間だけは、静かな夜だと感じた。
月が綺麗で、愛する女性と手を繋いで、茉鈴はとても心地良い気分だった。きっと、海外から月見という風習が伝わった当時、貴族達はこのように楽しんだのだと思った。
だが、今日は十六夜だ。月の最も綺麗な日から、一日ずれている。
茉鈴はそれでも構わなかった。既に『望』を観たのではない。自論通り――望む限り、いつでも観ることが出来る。
それに、多少不格好な方が自分に相応しいと思った。
「ごめんね。せっかく、出版業界を薦めてくれたのに……。私にはどうも合わないみたいだし……他の進路が……やりたいことが見つかったんだ」
玲奈と手を繋いだまま、道路の真ん中で立ち止まった。そして、向き合った。
この時間帯でも、人通りが無いわけではない。しかし少ないため、支障は無いと判断した。
「え……」
玲奈が顔を見上げる。街の灯りが、玲奈の驚いた表情を照らした。
茉鈴には申し訳ない気持ちがあった。謝罪するまでもなく玲奈が怒らないように感じたが――謝罪をしてでも切り替えたかった。
それほどまでに、強く決意した。誰に何を言われようと、もう二度と揺らぐことはないだろう。
成れるかは、わからない。しかし、成りたいと初めて思った。成るべき姿が、鮮明に思い浮かんでいた。
内から熱く込み上げるが、茉鈴は不思議と落ち着いていた。いや、気分はすっきりとし、とても穏やかだった。まるで、十五夜の余韻を味わうかのように。
茉鈴は玲奈に、優しく微笑みかけた。
「私、先生を目指すよ」
第18章『十六夜』 完
次回 第19章『最後の授業(前)』
茉鈴は菫と買い物に出かける。




