第51話
九月十五日、金曜日。
午前十一時過ぎに茉鈴は自宅を出て、電車の駅まで歩いた。
電車に揺られること、十五分。とある駅で降りた。駅前は整備され、大きな商業施設もある。同じ学生街の駅にも関わらず、茉鈴は自分の住んでいる街と比べ、こちらはとても綺麗に見えた。
ここへ来るのは、二度目だった。大学の別キャンパスがあるとはいえ、足を運ぶ機会は滅多に無い。そもそも、学校での用事があればバスを利用する。
約三週間振りに訪れた。あの時は――蓮見玲奈に気持ちを伝え、そして振られたのであった。
茉鈴は今でもその印象が強いため、気分は優れなかった。
「あっ、先輩。遅刻しないで来るなんて、凄いじゃないですか」
ふと声をかけられ振り返ると、玲奈が笑いながら立っていた。
ベージュのシャツワンピースと黒いパンツといった格好だった。
駅まで迎えに来るだけなのに、きっちりとした服装だと、茉鈴は思った。白黒のボーダーニットとデニムパンツで来たことが、なんだが恥ずかしかった。
「遅刻なんて、もうしないよ」
午前十一時半に駅前で待ち合わせをしていた。
確かに、過去に水着の買い物に行った際は大遅刻をした。約束の時間に約束の場所に居るという当たり前のことが、どうして出来なかったのだろうと、今は思う。
「それじゃあ、行きましょうか」
玲奈が先導して歩き出し、茉鈴はそれに続いた。
駅前には飲食店がいくつかあった。正午前なので匂いが腹をくすぐるが、我慢した。
今日は交換留学の願書を確認する代わりに、玲奈が昼食を用意してくれる。
このようなかたちで玲奈の部屋を訪れることになると、茉鈴は思わなかった。
玲奈の部屋を訪れたいと願ったことはあった。だが、先日の失恋と共に、叶わぬ願いとなったはずだった。
だから、願書の確認もそうだが――部屋に招かれた時は、とても驚いた。
玲奈の目的は明白だ。そのためにカフェではなく自宅を選んだのは、まだ納得できる。
茉鈴はそう割り切ろうとした。しかし、どうしても頭の片隅では『許し』を期待していた。
複雑な気持ちで、玲奈と歩いた。
駅から十五分ほど歩くと、玲奈の賃貸マンションに到着した。
玄関のオートロックを解除し、最上階である六階までエレベーターで上がった。そして、一室へと入った。
「どうぞ」
「お、お邪魔します……」
玲奈から差し出されたスリッパを履き、茉鈴は緊張しながら上がった。
玄関のすぐ傍には、キッチンがあった。置かれた調理器具や調味料から、普段から料理をしていることが窺える。
キッチンを抜けた先は、八畳ほどのワンルームだ。日当たりが良く、レースのカーテン越しに明るい陽射しが差し込んでいる。
ベッド、テーブル、テレビ等――置かれている家具は自分の部屋と変わらないと、茉鈴は思った。だが、カーテンやカーペットの色調、そして小物から、明るく彩りのあるデザインだった。質素な自分の部屋と、雰囲気は大違いだ。
マンションの外観や部屋の様子から、建ったのが最近というわけではないが、古くもないと感じた。それでも、家賃は自分の部屋の倍は必要だと思った。
部屋に物はあるが、整理されている。その中で、茉鈴はテーブルに目が向いた。
テーブルの中央には、小さなクリアケースが置かれていた。その中で、フリルを彷彿とさせる大輪の白い花が豪華に、しかし気高く咲き誇っていた。
先月、玲奈の誕生日に、理想の象徴として贈った『レイナホワイト』だ。
あの一件で捨てられたと、茉鈴は思っていた。だが、この部屋を彩るひとつとして役目を果たしていることが、泣きそうになるほど嬉しかった。
「適当に座ってください。今、昼食作りますから」
視線の向いている先を、玲奈はわかっているはずだ。
意図的に触れないのか、それとも本当に関心が無いのか、茉鈴にはわからない。どちらにせよ、玲奈の何気ない声に涙を堪えた。
窓を背に、キッチンの方向を向くように、テーブルの前に座った。
角度から玲奈の姿は見えないが、料理の音が聞こえ、香ばしい匂いが漂ってくる。
あの時、告白しなければ――間違わなければ、別のかたちでこの部屋を訪れる未来があったのかもしれないと、ふと考える。
悔やみきれない思いを馳せながら、料理を待った。
「お待たせしました。さあ、食べましょう」
やがて、玲奈がふたつの皿をテーブルに置いた。
どちらの皿にも同じものが載っていた。汁気の無い麺に、豚バラ、キャベツ、ニラ、もやしが見える。匂いから、塩焼きそばだと茉鈴は理解した。
「先輩、こういうの好きですよね?」
「うん! めっちゃ好き!」
玲奈が麦茶のグラスもふたつ持ってきたところで、ふたりで食べた。
香ばしい味がとても美味しく、茉鈴はビールが飲みたくなるが、場を弁えた。
いや、それ以上に玲奈が『好み』を理解し、寄せてきたことが嬉しかった。これまでの『付き合い』があったからこそだと、思い出を噛み締めて食べた。
「ご馳走様。美味しかったよ。ありがとう」
「お粗末様です。喜んで貰えて、良かったです」
玲奈が食器を下げ、後片付けを行った。
その後、コーヒーの良い匂いが漂ってきた。粉末状のインスタントコーヒーの、独特の臭みはない。少なくともドリップコーヒー以上だと、茉鈴は察した。
「さて……それじゃあ、お願いしてもいいですか?」
おそらく、急冷の後に冷たい牛乳が注がれたのだろう。アイスカフェオレの注がれたグラスがふたつ、テーブルに置かれた。カランと、氷の崩れる音が茉鈴の耳に聞こえた。
「食べた分は働くよ」
茉鈴は玲奈からファイルを手渡された。ようやく、この部屋に招かれた本来の目的を果たすことになった。
カフェオレを美味しく味わいながら、交換留学の願書に目を通す。
自らの生い立ちと家庭環境から、外資系金融企業に憧れた。そして、そこで働きたいがために交換留学を志願すると、正直に書かれていた。
論理的かつ簡潔にまとめられているため、説得力がある。さらに、現在の語学習得状況から、留学後の習得予想まで展開され、効果が想像し易い。
「内容は良いんじゃないかな」
玲奈らしさを感じた。
その先入観を除いたとしても、文句の無い出来だ。少なくとも、茉鈴は大いに納得した。
「そうですか?」
「うん。ただ……言い回しをちょっと変えた方がいいかも」
茉鈴は赤色のボールペンを受け取り、訂正案を順に記していった。
おそらく玲奈の性格によるものだろうが、良く言えば淡々としている――悪く言えば味気ない文章だった。この手の願書はやや遜り、多少なりとも感情を見せた方が、印象に残りやすいと思った。他の学生と比較され、選ばれなければいけないのだ。
それらを説明しながら書き終え、玲奈に返す。
玲奈は確かめ、満足そうに頷いた。
「ありがとうございます。わたしじゃ思いつかなかったんで、頼んでよかったです」
駅まで迎えに来た時からずっと、玲奈の態度がどこか他人行儀だと、茉鈴は感じていた。好きな料理で昼食を振る舞ってくれたにも関わらず『隔たり』があった。
いっそ、露骨に嫌悪感を示してくれた方が、まだ良かった。『好意』の対極にあるのは『無関心』だ。このまま途切れてしまうことを、恐れていた。
だが、今――玲奈の自然な微笑みが、茉鈴の思い出に触れた。かつての記憶と完璧に一致した。
玲奈の期待に応えられたと茉鈴は確信する一方で、寂しさが込み上げる。
そう。思い上がってはいけない。手応えなど、きっと無い。カエルの自分にとっては『勘違い』だと、自分に言い聞かせた。
「それじゃあ……私、そろそろ帰るね」
茉鈴は居心地が悪くなってきたので、立ち上がった。
文句を言われない程度の仕事は、したつもりだ。これで去っても構わないだろうと思った。
しかし、玄関に向かおうとしたところ――座ったままの玲奈から腕を掴まれた。そして、引っ張られた。
突然視界が一転し、茉鈴は状況が掴めなかった。身体に伝わる衝撃さえ、床に転んだと理解できなかった。
窓からの明るい陽射しが、玲奈の顔を照らしていた。
今にでも泣き出しそうな表情だが、とても美しいため、茉鈴は目が離せなかった。
玲奈から押し倒され、見下されていることに、ようやく気づいた。
「どうして……」
震える唇から、その一言がこぼれ落ちる。
茉鈴には、とても重く響いた。
その先に続く言葉が、瞬時にいくつも思い浮かんだ。だが結局のところ、玲奈が言おうとしているのは、たったひとつだった。
「……私に期待しないんじゃなかったの?」
茉鈴にその意図はなかったが、玲奈の神経を逆撫でしたようだ。見下ろす玲奈から、睨まれた。
「そうですよ! 先輩に期待なんて、したくありません!」
悲痛な叫びが聞こえた。
茉鈴の視界の隅には、テーブルの影が映っていた。そこに白い花が置かれている。
「期待したくないのに……どうでもいいはずなのに……髪だってもう矯正したのに……どうして、まだ先輩のことが好きなんですか!? 自分でも、ワケわかりませんよ!」
茉鈴の頬に、涙が落ちる。だから茉鈴には、思っていた通りの言葉だったといえ、全く嬉しくなかった。
部屋に招いて料理を作るが、他人行儀な態度を取る。考えてもみれば、実に矛盾した言動だった。行動原理はひとつしかない。『許し』どころではなかった。
だが、それを抑えたところで――いくら外堀を固められているとはいえ、もう『友達』に戻ることなど出来ないのだと、察した。互いに、深く踏み込みすぎた。
そう。この中途半端な関係が、玲奈をこんなにも苦しめている。
「ごめん」
茉鈴は腕を伸ばして、玲奈の頬を拭った。
「このままだと、たぶんまたカエルになっちゃうから……もうちょっと待って欲しい」
冷静に退けた。まだ臆病になっている現在、目の前の美しい女性が、醜いカエルになろうとしたのであった。
きっと、こちらの視点だけではないと、茉鈴は思う。このまま応えたところで、玲奈の目からも蛙化するだろう。
現在の状況では、どの道上手くいかないのだ。
「わたし、怖いんですよ……。このままだと、本当に冷めちゃいそうで……」
「信じて欲しいだなんて、無責任なこと言えない。それでも……待っていて欲しい」
茉鈴は玲奈に嘘をつけなかったが、言葉を選んだ。
玲奈の瞳に、自分の顔が映る。綿菓子のような髪から変わり、もう見慣れた姿のはずなのに――ストレートヘアの自分が、無性に頼りなく見えた。
心細いのは、茉鈴も同じだった。しかし、弱い姿を見せらず、我慢した。
「わかりました。待ちます」
玲奈は自分でも涙を拭い、身体を退けた。そして、何かを決意したかのような、凛とした表情を見せた。
やはり女王らしいと茉鈴は思いながら、身体を起こした。
今度こそ部屋を出るつもりだった。だが、玲奈と気持ちを交わした現在、全てを抑えることは出来なかった。
「ちょっとだけ、ワガママいいかな?」
玲奈の返事を確かめるより早く――茉鈴は屈み、玲奈を正面から抱きしめた。
アルバイトでの抱擁と、明らかに違った。温もりが、より伝わったような気がした。そして、震える細い肩を、今度こそ大事にしたいと思った。
この女性が、髪を短く切らないためにも。
「ありがとう……。玲奈の方も、留学上手くいくといいね」
ぎこちなくないかと不安だが、茉鈴は精一杯の笑顔を作った。
玲奈に微笑みかけ、この場から逃げるように部屋を出た。
エレベーターのボタンを押す。上がってくるのを待っている間、時間は限られているのだと、玲奈の言葉を思い返していた。当たり前のことを、どうしてか今まで考えなかった。
焦りが込み上げるが、今はそれよりも――
到着したエレベーターに、茉鈴は乗った。狭い空間でひとりきりになったことを確かめると、目頭を抑えて少し泣いた。
第17章『友達には戻れない』 完
次回 第18章『十六夜』
おとぎの国の道明寺領で、月見イベントが開催される。




