第50話
九月十二日、火曜日。
午後四時過ぎ、茉鈴はおとぎの国の道明寺領へアルバイトで訪れた。
「ちわーっす」
「あっ、安良岡さん。お疲れさまです」
スタッフルームでは、春原英美里がテーブルにレポート用紙を広げ、何やら書き物をしていた。
英美里を初め周囲から、もう髪型について触れられることも、反応されることもなくなった。短時間だが見慣れたのだと、茉鈴は思った。
「なにそれ? 夏休みのレポート?」
茉鈴はパイプ椅子に座り、水を飲んだ。
まだ残暑は厳しい。汗が引いてから、衣装に着替えるつもりだ。
「はい。あたし、昔っから夏休みの宿題はギリギリにやるタイプで……」
「私は速攻で終わらせたよ」
とはいえ、夏季休暇で課題が出るのは、ゼミぐらいだ。茉鈴は楽なゼミを選んでいたので、そもそも課題は少ない。
「へぇ。なんか意外ですね」
「面倒事は早く終わらせたいのと……放っておいたら忘れちゃうから」
主に後者の理由で、茉鈴は過去より早く片付けることを心がけていた。
怠ける性格だと自覚しているが、結果的にそのような習慣が付いていることだけは、誇れた。
「なるほど。安良岡さんっぽいですね。……就活の方は、どうですか?」
英美里は集中力が切れたのか、テーブルにペンを置いて茶を飲んだ。
「今はなるべく説明会に行って、自分なりに業界研究してるところ」
茉鈴は口にしなかったが、それよりも自己分析に手間取っていた。
先月、玲奈が手伝ってくれるも泣いてしまった時から――全く進んでいない。自分という人間が、理解できない。
いや、向き合うのが怖いのだ。
就職活動の手順が破綻していることは、理解している。それでも、嫌なことを後回しにしていた。
この問題は忘れることがないから大丈夫だと、英美里に気づかれない程度に小さく自嘲した。
「いやー、完全に出遅れたね。就活は早めに動いた方がいいよ。早すぎて困ることは、たぶん無いと思うから」
「大変ですねぇ」
英美里の物言いが、茉鈴はなんだか他人事のように聞こえた。
実際、まだ二年生の彼女に実感は湧かないだろうから、おかしくないが――茉鈴には違和感があった。決して、悪い意味ではない。しかし、何かが引っかかる。
「エミリーちゃんは、進路考えてるの?」
だから、ふと訊ねてみた。
「はい。ここの社員というわけではないですけど……卒業したら、領主様とこのお店を盛り上げていきます」
英美里の答えに、茉鈴は納得した。
進路がそのように確定しているなら、就職活動など他人事になる。
「へぇ。ちゃんと夢に向かって進めるのって、凄いね。応援してるよ」
茉鈴は皮肉を漏らしたわけではない。英美里の選択を、心から尊敬した。
確かに、収入面では世間一般から劣り、また不安定だろう。しかし、店の発展と共に大きく飛躍する可能性があると共に――何よりも、楽しく働けることが、茉鈴には羨ましかった。
玲奈にしても、そうだ。外資系金融業に就職するという、確かな夢を持っている。
彼女達の姿が、茉鈴は眩しく見えた。いや、世間では何も特別ではないのだろう。それで『普通』なのだ。
「安良岡さんこそ、もしその手の雑誌に関わることあったら、取材に来てくださいね」
「う、うん……」
茉鈴はやや視線を逸しながら、頷いた。
英美里や玲奈と違い、何が何でも出版業界で働きたいわけではない。なんとなく文学部に進み、なんとなく食べ口を探した結果だ。出版業界といっても漠然としているため、英美里の言う地域情報誌に携わるのか否かも、未だはっきりとしない。
考えるほどに、不安になる。そして、誇れるような『夢』を持ち合わせていないことが、後ろめたかった。
茉鈴は、誤魔化すようにテーブルのレポート用紙に目を落とした。
「あれ? そこのところ、文章なんか変じゃない?」
軽く文章を読むと、些細な文法間違いに気づいた。
該当箇所を指でなぞりながら、英美里に訂正内容を説明した。
「あっ、本当だ。こういうの、書いてる本人はわからないものですね」
「そうだねー」
書きながら気づかないといけない次元の間違いだと茉鈴は思うが、偉そうな物言いになりそうなので黙っておいた。
「そうだ。いっそのこと、これまでの分チェックして貰っていいですか」
まだ書きかけなのだろう。茉鈴は英美里から、二枚のレポート用紙と赤色のボールペンを手渡された。一度口を挟んだ以上、乗りかかった船だと思った。
「うん。いいよ」
受け取り、順に目を通していく。
レポートにおいて、最も大切なことは――かつ最も基本的なことは、分野外の人間でも読める内容であることだと、茉鈴は考えている。その意味で、専門的な知識を持たない茉鈴が推敲することは、適している。
先入観をなるべく捨て、純粋な読み物として文字を追った。そして、気になる箇所をボールペンで記していった。
きっと、編集はこのような仕事なのだと、ぼんやりと思った。
「はい。終わったよ」
「ありがとうございます!」
最後まで確認し、レポート用紙とボールペンを返した。
英美里は受け取ったレポート用紙に目を通すが、どれも納得しているようだった。
「安良岡さんって、こういうの得意ですよね」
「得意ってほどでもないよ」
「そんなことないですよ。勉強教えるのも、上手かったじゃないですか。出版系もいいですけど……学校の先生もアリだと思いますよ」
編集のような仕事だと感じていたので、その言葉が茉鈴には意外だった。
しかし、驚くよりも、あることを思い出した。
以前、菫に家庭教師が向いていると言われた。教職向きだと他の誰かにも言われた記憶があったが――英美里の試験勉強に付き添った時だった。やはり、少なくともふたりには推されていた。
「でも……教えるの上手いだけだと、先生には成れないんだ」
――お前はガキの成長を導けへんからな。責任感があらへんもん。
菫から言われた通り、その能力に著しく欠けている自覚が茉鈴にはある。だから、数少ない『根拠』を得たとしても、鵜呑みにしてはいけないと思った。
「ああ、教員って資格取るの大変そうですよね」
「うん……まあ、そうだね」
資格を取得するための権利なら持っているが、話がややこしくなりそうなので、茉鈴は黙っておいた。
「お疲れさまです」
ふと扉が開き、玲奈の声が聞こえた。
茉鈴は顔を上げると、玲奈が白けた表情でテーブルを見下ろしていた。
「何やってるんですか?」
「あっ、玲奈ちゃん。安良岡さんに、夏休みのレポート見て貰ってたの」
「ふーん」
玲奈は相変わらず冷めた様子で、テーブルに鞄を置いた。
「勉強教えるの、すっごい上手いんだよ。ほんと、先生に成れると、あたしは思うんだけどなぁ」
「いやいや……わたしには想像できないわ」
笑いながら否定する玲奈に、茉鈴は貶されていると感じなかった。適当でいい加減な人間だと理解されているのだから、そう捉えられるのは当然だ。
そのように割り切るが、テーブルに俯いた。
「さて……着替える前に、お手洗い」
英美里はテーブルを片付け、席を立った。
スタッフルームに、茉鈴は玲奈とふたり取り残された。
「でも、英美里が言うんだから本当なんでしょうね」
ぽつりと、玲奈が付け加えた。
茉鈴は顔を上げる。
「先輩。就活で忙しいところ、すいませんけど……時間ありますか?」
「え?」
玲奈は腕を組み、やはり白けた表情だった。
何かを要求する台詞だと、茉鈴は理解する。ただでさえ、突然の会話なのに――態度と言葉が一致しないため、とても困惑した。
「わたし、交換留学の願書を書き終わったんで……提出前に、一度見てくれませんか?」
玲奈がどこか恥ずかしそうな表情で、腕を組んだまま漏らした。
茉鈴にとって、思いもしない要求だった。いや、頼られた。たとえどれほど些細でも、玲奈からまだ価値を見出されたことが、ただ嬉しかった。
「うん! 見るよ! 絶対に見る!」
だから、ふたつ返事で頷いた。予定は合わせよう。これが最優先事項だ。
必死な返事だと、茉鈴は自覚している。玲奈は少し驚いた後、苦笑した。
「それじゃあ……金曜日、お願いできますか?」
玲奈が、壁のホワイトボードに目を向ける。
十五日の金曜日はどちらもシフトが入っていないため、休日が重なっていることになる。
茉鈴はその日の予定が思い出せない。だが、もし企業説明会の予定があったとしても、取り消すつもりだった。
「わかった。何時でもいいよ」
携帯電話で予定を確かめることなく、頷いた。
「場所は、どこにしようか?」
てっきり、適当なカフェが挙がると思っていた。
だが、玲奈が少し悩んだ末に――茉鈴にとって思いがけない場所を口にした。
「そうですね……。わたしの部屋に来てください」




