第48話
九月四日、月曜日。
自宅で遅い昼食を済ませた午後二時過ぎ、茉鈴はインスタントのホットコーヒーを淹れた。
座椅子に座り、ミルクキャンディーを口に含む。甘いそれを口内で転がしながら、ノートパソコンを起動させた。
学校のウェブサイトにログインした。念のため成績情報を再度確かめるが、やはり卒業に必要な単位はあらかた取り終えていた。
次に、履修登録の画面を開いた。今日から登録受付が始まっているのであった。
ひとまず必修科目を登録し、画面をぼんやりと眺めた。
――出版社なんて、どうですか? 茉鈴、本好きじゃないですか。
玲奈に相談した末、茉鈴は出版業界へ進むことを考えていた。出版社からの採用にあたり、何か有利な科目はないかと見渡すが――まるでわからなかった。
ミルクキャンディーを舐めた状態で、ブラックコーヒーを口に流し込む。そして、テーブルに積んでいた本を手に取った。
学校の図書館で借りてきた、就職活動に関する本だ。じっくりと読んだが、今知りたい情報は書かれていなかった。改めてページを捲ったところで、同じだろう。
茉鈴は頭のどこかで理解していた。
そのようなものは、きっと存在しない。もう、勉学に縋る段階ではない。手持ちの武器は、これまでの経験なのだ。
「はぁ……」
茉鈴は溜め息をつき、諦めた。
やはり、もう履修は最小限に抑え、時間の確保を優先するべきだ。
コーヒーを飲んでいると、ふと教職課程プログラムが目に留まった。
一年生時、単位欲しさに履修したものだ。演習も含め、単位を取得済みだった。
だが、二年生時の介護実習には参加していない。茉鈴はうろ覚えだが、これを終えていなければ中学校教諭の免許は取得不可能だったはずだ。
とはいえ、最低限の教職課程を終えているため、教育実習の申し込みが可能だった。
「先生か……」
高校以上の教諭に成れる資格を現在は所持しているのだと、確かめる。
しかし、茉鈴は興味が無いため、どうでもよかった。これまで一度たりとも、教師になりたいと思ったことはない。
かといって、出版業界も――そこで働いている姿が、今ひとつ想像できなかった。
確かに、本は好きだ。ただし、それは読む側、即ち消費者側としてだった。生産者側に回ろうと思ったこともまた、これまで一度も無かった。
それでも、大学卒業後に食べていくためには、何らかの職に就かなければいけない。玲奈に言われたことが、今も耳に残っていた。
そう。『妥協』する点としては、確かに出版業界が丁度いいと思っていた。
茉鈴はそのように考え、履修登録を一旦済ませた。もし修正が必要だとしても、十三日まで可能だ。
学校のウェブサイトを閉じた時、玄関の扉が外から乱暴に叩かれた。
ブザーを鳴らすことを知らないのだと呆れながら、茉鈴は座椅子から立ち上がり、扉を開けた。
「ほら。アイス買ってきたったで」
コンビニのビニール袋を掲げた喜志菫を、仕方なく部屋に入れた。
アイスと言うが、実際はソーダ味のアイスキャンディーが二本入っていた。茉鈴はテーブルを挟み、菫と一緒に食べた。直前までホットコーヒーを飲み、口内にはまだミルクキャンディーが残っていることから、何ともおかしな味だった。
「ねぇ。菫ちゃん、学校は?」
「知らんわ。お前こそ行けや」
「大学生はね、来月からなんだよ」
受ける講義はほとんど無いけど、と茉鈴は心中で付け加える。
溶けそうなアイスキャンディーを必死に食べながら、横目で菫を見た。アイスキャンディーを咥え、気だるそうに携帯電話を触っていた。
菫が前回来た時のことを思い出す。姉の菖蒲から逃げた、自分と同じ『臆病者』だと指摘し、怒らせたのだ。
怒って帰ったにも関わらず、何事も無かったかのように再び部屋を訪れることは、珍しくない。今回も、菫としては『無かったこと』なのだろう。
それでも、今回に限っては、それで済ませてはいけないように茉鈴は思う。だが、とても口には出来なかった。
「菫ちゃんはさ……普段、どんな本読む?」
その代わり、居心地の悪さを誤魔化すように、何気なく訊ねた。
いきなりの質問に、菫が少し驚いた様子で顔を上げた。
「は? 漫画やけど?」
「どんな漫画?」
「お前に言うても、わからんと思うけど……悪役令嬢に転生するやつとか、チートスキルで婚約破棄してきた男を見返すやつとか」
「え? なにそれ、本当に面白いの? そんなの読んでたら、バカになっちゃうよ」
「うるさいわ! 死ね! バカはお前や!」
菫は怒るが、茉鈴には理解できない範疇であった。
確かに、漫画を読む機会はほとんど無い。菫個人だけではなく、世間でそのようなものが流行っているなら、大きな隔たりを感じる。
「お前みたいに難しい本読んでへんけどな、他人が何読もうと勝手やろ」
「ちょっと驚いたけど……菫ちゃんが面白いなら、それでいいんじゃない? 謝るよ」
「大体、何やねん。うちが何読んでるんか、そんなに気になるんか?」
菫にしてみれば、質問の意図が掴めず不審がるのは無理がないと、茉鈴は思った。
「うん。私、出版業界の就職目指すからさ……どういうのが需要あるのか、ちょっと気になっただけ」
だから、正直に話した。
隠すほどではないと、茉鈴は思った。また、覚悟を示す意図も含まれている。
「は? お前が出版業界?」
それを聞いた菫が、大笑いした。
おそらく、進路に関して何を言ってもこの反応になると茉鈴は想定していたので、怒りはしなかった。
「やめとけ、やめとけ。今みたいに、トレンドなーんも知らんやんけ」
「そのへんは、今から勉強していくよ」
茉鈴は読書量こそ自信があるが、本の発行年月も種類も傾向は無かった。どの種類にしろ、その時代の流行を考えたことは無かった。自分が読んで、面白いか否かの二択を考えるまでだ。
「そうやとしても……お前が本を作るとこなんか、全く想像できへんわ」
自分と同じことを他人も感じているのだと、茉鈴は理解する。
残念だが、説得力のある意見となった。
「それじゃあ、菫ちゃんには何が想像できるの?」
「なんやろ……無職? ニート? まあ、そのへんやな」
「ちょっと! 私にだって、働く気はあるよ!」
おかしそうにケラケラ笑う菫に、茉鈴は反論した。真剣な悩みに対し、ふざけた回答が許せなかった。
とはいえ――そのような印象を抱かれることを、否定できなかった。
「マジレスすると……家庭教師や。お前にはそれが似合っとる」
ひとしきり笑った菫が、ぽつりと漏らした。
その単語が耳に届き、茉鈴の頭に振り返りたくない過去が蘇った。
「菫ちゃんが、それしか私を知らないだけだよ……」
「そうかもしれへんな……。けどな、悔しいけどお前は勉強教えるんだけは上手かったで」
菫としても振り返りたくないのは同じなのだと、どこか浮かない表情を見て、茉鈴は思った。
ただ、そのように言われたのは初めてだった。
いや、違う。家庭教師のアルバイト経験自体が浅くとも、菫以外の誰かにも言われた記憶がある――思い出せないが。
それらは少なくとも、自身を納得させる根拠となった。このような手応えは、初めてだ。
「あっ、ごめん。やっぱり無理やわ」
菫がにんまりと笑みを浮かべた。
「お前はガキの成長を導けへんからな。責任感があらへんもん。どんだけ勉強教えるんが上手くても……それやと『先生』には成られんわ」
かつての『被害者』の言葉が、茉鈴に深々と突き刺さった。
成長を導けないことも、責任感がないことも、紛れもない事実だ。教える側として、肝心なものが欠けている。
初めて手応えがあったと思うも――虚空を掴んだかのような感触だった。
「そうだよ。私に、先生なんて無理だ」
大人として、人間として、手本になるような生き方を送っていない。子供に対し、責任を負える立場ではない。
教師など、無理だとわかっている。諦めるべきだ。
しかし、どうしてか頭から離れなかった。先程眺めていた、履修登録の画面を思い出していた。
出版業界か、教師か――どちらも途方もない進路だが、茉鈴の中にふたつの選択肢として留まった。
やがて夕方になり、菫が部屋を出て行った。
ひとりになった茉鈴は、ノートパソコンで履修登録画面を開いた。
そして、躊躇なく教職課程プログラムの履修申請をした。
折角だから、選択肢として手元に残しておきたい。もし不要になれば――失礼だが、後で取り消せばいい。そのように思ったまでだ。
第16章『女王との再会』 完
次回 第17章『友達には戻れない』
茉鈴は就職活動を始める。




