第40話
二年前の四月。
十八歳の安良岡茉鈴は、難関国立大学に入学した。
二週間もすれば、大学生活にも――親元を離れた古びた賃貸アパートでのひとり暮らしにも、慣れた。
ただ、友人と呼べる人間は居なかった。高校までを過ごした地元にも、数えるほどしか居ない。新しい土地でなら、なおさらだ。
どちらかというと内気であるが、人付き合いが苦手というわけではない。
茉鈴は何に対しても、面倒くさがりな性格だった。
人間に対しても、同じであった。それが表面にも影響したのか、眠たげな顔をしている自覚があった。
過去から、寂しくもなければ、人肌を求めることもなかった。孤独であることに、何も問題はなかった。
また、難関大学の入学試験に合格しても、自信や自己肯定は無かった。自分のことを、つまらない――何の価値も無い、ちっぽけな人間だと思っていた。
茉鈴は大学生活で、特に目標は無かった。強いて挙げれば、卒業さえすれば食べるのに苦労はしないだろうと思っていた。だから、部活やサークルにも属さなかった。娯楽と呼べるものは、過去より読書ぐらいであった。
生活を送るうえで人脈は不要だが、金は必要だった。仕送りを切り詰めれば、最低限の生活は可能だ。しかし、余裕が欲しい。金はあるに越したことがない。
仲介業者を通し、家庭教師のアルバイトを始めた。所属大学の価値から時給が良く、労力に対し効率よく稼げると思ったまでだ。
すぐに、ひとりの生徒を紹介された。
「喜志菫ちゃん……か」
高校二年生の、不登校気味の人物らしい。高校卒業までの最低限の学力が欲しいと、家族からの要望だった。
大学受験の勉強を期待していたため、面倒な案件だと茉鈴は思った。
夕方、自宅から三十分ほど移動し、喜志家――二階建ての戸建住宅を訪れた。
「ごめんください。家庭教師の、安良岡です」
「あらー。いらっしゃい、先生」
玄関で迎えたのは、ひとりの女性だった。
長く綺麗な髪が特徴であり、茉鈴にはとても美人に見えた。内心で戸惑ったほどだ。
大人の艶気から、母親かと一瞬思うも――あまりに若すぎる。おそらく、二十代後半だろう。
「菫ちゃん、先生来はったで」
「わかった。今行くわ」
二階から階段を下りてきた喜志菫と思われる人物もまた、長く綺麗な髪だった。しかし、あどけなさのある、歳相応の少女だった。
家族という先入観があるせいか、茉鈴はふたりが似ていると思った。少女が年を重ねれば、きっとこの女性のようになるのだろうと、安易に想像できた。
「なんや、変な奴やな」
「菫ちゃん! なんちゅうこと言うの!?」
「わかった、わかった。とりあえず、うちの部屋や」
茉鈴は菫に手を引かれ、階段を上った――申し訳なさそうに頭を下げている女性を、尻目で追いながら。
菫の部屋は、ファンシーな小物やぬいぐるみで溢れていた。散らかっているわけではないが、茉鈴はなんだか落ち着かなかった。年頃の少女の部屋はこうなのかと思った。
「あんた、名前は?」
勉強机に向いて、ふたつの椅子に並んで座ったところで、菫から訊ねられた。
「え? 安良岡……茉鈴だけど」
「まりん? 名前も変な奴やなー」
無邪気に笑う菫が決して貶しているわけではないと、茉鈴は思った。それに、自分が変わり者だと自覚していた。
菫は人懐こく、明るい少女だった。不登校と聞いた時は暗い感じを想像してただけに、茉鈴は拍子抜けた。
「とりあえず、学校のテキスト見せてくれない?」
初日の今日は、どの程度の学力なのかを確認した。現代文、古文、歴史の教科書を順に広げ、菫にいくつか訊ねた。
菫の学力は良くないにしろ、絶望的に悪くもなかった。これまでの試験結果からも、卒業までの要項は、学力面では難しくないと感じた。
一時間ほど経過した後、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「ちょっと休憩しはったら?」
扉を開き、玄関で出迎えた女性が現れた。手に持ったトレイには、ホットコーヒーと茶菓子が載っていた。
女性は菫にトレイを渡すと、すぐに部屋を出た。
申し出通り、茉鈴は休憩することにした。
「あのミルクキャンディー、貰ってもいい?」
部屋の隅に、封の開いた袋が見えていた。
茉鈴は菫からひとつ貰うと、ミルクキャンディーを舐めたまま、ブラックコーヒーを飲んだ。
「なんや。変な飲み方するんやな」
「昔っからの癖みたいなもんだよ」
ふたりでコーヒーを飲み、一息ついた。
茉鈴はこれからのことを考えると、菫のことを少しでも知っておかなければいけないと思った。だが、それよりもまず知りたいことを、訊ねた。
「ねぇ。さっきの人、菫ちゃんのお母さん?」
「は? あんな若いオカン、おるわけないやろ。アホちゃうか」
ケラケラと笑う菫に、茉鈴は恥ずかしくなった。
「菖蒲姉ちゃんや。大学の四年やから、茉鈴とそんなに変わらんで」
単純に考えて三歳差なのだと、茉鈴は思った。
その割には艶気があり、大人の貫禄があった。とても学生には見えなかった。
「へぇ。姉妹で仲良いんだね」
「なんや? 茉鈴、うちの姉ちゃんに惚れたか?」
「ち、違うよ!」
茉鈴はコーヒーを吹き出しそうになりながら、慌てて否定した。
図星だったのだ。
休憩を終え、さらに一時間――予定通り、合計二時間の勉強を終えた。
菫の学力と人柄から、なんとか続けられそうだと、茉鈴は思った。いや、割の良いアルバイトとして続けたい。
「茉鈴、ばいばーい」
菫に見送られて家を出たところ、少しの間を置き、ひとつの人影が出てきた。
菫の姉、菖蒲だった。
「先生、ありがとうございました」
慌てて飛び出してきた様子だった。そうまでして感謝の意を述べたいのだと、茉鈴は思った。
ふと、菖蒲から両手を握られた。
「菫ちゃん……あんな子ですけど、どうかよろしゅうお願いしますわ。先生となら、仲ようやってくれそうやし」
菖蒲の手の温もりに、ただでさえ茉鈴は緊張していた。そこへ上目遣いを向けられ、頭がどうにかなりそうだった。
「は、はい! 私、頼りないかもしれませんけど、頑張ります!」
「そんなことありませんよ。先生、賢いんやし……頼りにしてますわ」
ひとまず頷くと、菖蒲が優しく微笑んだ。
互いに頭を下げ、菖蒲は自宅に戻った。そして、入る寸前に振り返り、もう一度微笑んだ。
茉鈴は、しばらくその場に立ち尽くした。まだ両手には、菖蒲の手の感触が残っていた。
始まりは、些細なものだった。生徒の姉という偶然の出会いから、茉鈴は菖蒲に一目惚れした。
それから、茉鈴はアルバイトで喜志家を訪れるのが楽しみになった。
菫の家庭教師は、真面目にこなした。菖蒲は就職活動で忙しいようだが――会えると嬉しかった。
ふたりの姉妹と仲良くなり、三人で食事や買い物に行くようにもなった。
茉鈴は大学生として、ようやく充実した日々を手に入れた。
五月の半ばになる頃には、菖蒲とふたりで会うことが増えた。
茉鈴は、菖蒲との関係がよくわからなかった。
互いに気持ちを言葉にしないまま、食事の後に『ホテル』で素肌を重ねる。それだけで茉鈴は心地良く、関係性を定義することには拘らなかった。
ただ、疲れた様子の菖蒲が――おそらく就職活動の――自棄的な憂さ晴らしをしているように、茉鈴には見えた。しかし、捌け口に利用されているだけだとしても、構わなかった。
「わざわざ家庭教師を雇ったの、就活で忙しいからですか? 菫ちゃんの勉強なら、菖蒲さんでも見れたんじゃ……」
ある夜、ホテルで行為を終えた後、茉鈴はふと訊ねた。
「うちは先生みたいに、かしこないですわ」
菖蒲は苦笑した。
未だに茉鈴は『先生』と呼ばれていた。菖蒲の通っている学校は茉鈴のほどではないにしろ、入学には高い偏差値を要する。そこの生徒、かつ年上の人間からそのように呼ばれるのは、なんだか皮肉のように感じた。
それに、名前で呼んで欲しかったが、とても言えなかった。
「勉強ってのは、不思議やけど……身内が教えても、あんまり意味あらへん。外部の人間が教えるから、聞くんやと思います」
「な、なるほど」
改めて語った理由に、茉鈴は納得する一方で――解せない点もあった。
自分はもはや、菫にとって『身内』のつもりだったのだ。菖蒲の顔を見ながら、小さく苦笑した。
「先生な、ピロートークに妹の話はあきませんよ」
「え……。すいません」
「うちの就活の話もナシやで」
菖蒲はそのように言うが、冗談交じりのふざけた様子だった。
ふたりで顔を合わせ、笑い合った。
「先生は……その頭、矯正しませんの?」
「って、私の話になるんですね。いやー、矯正するのも面倒だから、放ってます」
「うちは好きですよ。綿菓子みたいで」
茉鈴は菖蒲から、頭の癖毛をわしゃわしゃと触られた。癖毛は自分の嫌な部分だったが、不快ではなかった。
「でも、そうやな……。矯正せんでも、染めたらどうです? くすんだカーキ系が似合うと思いますわ」
「流石は、菖蒲さん。インテリアの企画開発狙ってるだけあって、センス良いですね」
「もうっ。うちの話はナシや言うてるやん……」
茉鈴は再び菖蒲と笑い合った。
菖蒲の就職活動は、菫を通して断片的に聞いていた。
だが、まだ明るい話は聞かない。狭き門であり、難しい道だと、茉鈴は思っていた。
そして、心中では応援していた。
後日、茉鈴は菖蒲の助言の通り、毛髪をカーキグレージュに染めた。
確かに、無造作な髪の動きとくすみのある色は相性が良いと、実感した。
「おっ。なんや茉鈴、染めたんか」
「うん。お姉さんのアドバイスで、ちょっとイメチェン」
「ええやん。うちの姉ちゃんのセンスは、ほんもんや」
アルバイトで喜志家を訪れた際、菫からは好感触だった。
茉鈴は菫から直接言われたわけではないが、菖蒲との関係は勘付かれているように感じていた。
そのうえで三人の仲が良いことから、茉鈴にとっても菫は妹のようだった。
「先生、よう似合ってますわ」
「ありがとうございます」
菖蒲からも、欲しい言葉を貰えた。
茉鈴はそれまで嫌だった癖毛を、少しだけ好きになれた気がした。
こんな自分を、他者から認めて貰えたような気がした。
嬉しかった。楽しい、充実した日々だった。
しかし、長くは続かなかった。
七月になり、すっかり暑くなった。
菫の期末考査に向けて頑張ろうと、喜志家を訪れるが――菫が深く落ち込んでいた。
「茉鈴……うちのことはええから、姉ちゃん励ましたって」
「え?」
菫から話を聞いたところ、菖蒲がまだ内定を貰えていないらしい。
就職活動を全く知らない茉鈴にとって、この時期でどの程度まずいのか、わからない。しかし、菖蒲がひどく落ち込んでいることは、安易に想像できた。
だが、励ますといっても、どうすればいい――
茉鈴は困惑したまま菫に促され、菖蒲の部屋へと入った。
カーテンを閉じた部屋は、夕方でも暗かった。ベッドでうずくまっている人影が見えた。
「あ、菖蒲さん……」
茉鈴は扉から動けなかった。
――きっと大丈夫です!
――もうちょっと頑張りましょう!
この場では、そのような台詞が適切なのだと、茉鈴は思う。
しかし、言ったところで説得力が全く無いとわかっていた。
茉鈴は幸か不幸か、これまでの人生で大きな挫折を味わったことが無かった。また、就職活動を経験していない身であり、そもそも菖蒲より年下だ。対等どころか、遜る立場だ。
そして、菖蒲がどの程度努力してきたのかも、知らない。悪く考えれば、努力不足の可能性もある。菖蒲から就職活動の話を聞かされず、こちらからも訊いていない。
三ヶ月近く菫の家庭教師を務めてきたが、菫が不登校気味になった理由も、詳しく知らなかった。
そう。嫌な部分からは目を背けてきた。心地良いだけの、泡沫に溺れていたのだ。
茉鈴は自分の無力さと――この姉妹と薄っぺらい関係を築いてきたことを、理解した。
仲良くなったつもりだった。しかし、勘違いだったようだ。
「……」
だから、茉鈴は何も言えなかった。性格上、嘘をつけなかった。
開けた扉に立ち尽くし、一歩も動けずにいた。
「なんや、先生……。慰めのひとつも、ありませんの?」
「すいません……」
「もうええわ。期待したうちがアホでしたわ。出て行ってくれませんか?」
菖蒲に言われるまま、茉鈴は部屋を出た。
その後、菫から悔しさを強く訴える眼差しを向けられるが――やはり、何も出来なかった。
それからは、茉鈴の気分は最悪だった。
憂鬱ながらも家庭教師のアルバイトを続けるが、ふたりに拒まれているのを肌で感じた。菫からは悪態をつかれ、菖蒲からは露骨に避けられた。
もう、以前のような三人に戻ることは不可能だと悟ると同時――茉鈴の精神面は限界に達していた。激しい胃痛にうなされた。
茉鈴の方から仲介業者へ、諸事情によりアルバイトを辞める旨を伝えた。
「お前のこと、絶対に許さへんからな!」
最後は菫に睨まれ、強い恨みを吐かれた。まるで別人のようだと、茉鈴は思った。
こうして、喜志家との関係は終わりを告げた。後悔はあるが、どうしようも出来なかったのは事実だ。恨まれるのも当然だと、割り切った。
悔しく、悲しく――かつての日々を失ってから、茉鈴は気づいた。
菖蒲のことを知らなくても、どれだけ薄っぺらい繋がりだったとしても、きっとこれが初恋だった。
そして、これが初めての失恋でもあった。




