第39話
一年前の四月。
十七歳の喜志菫は高校三年生になんとか進級するも、学校へ通うことはほとんど無かった。卒業する意思は一応あるため、最低限の出席日数だけを計算していた。
菫にとって学校も、卒業後の進路も――この世界さえ、最早どうでもよかった。
生きる意味も自分の価値も、問わない。代わりに、腕の自傷が増えていく。薬で気分を誤魔化す。死には至らない。
こうなったのは、他者や環境のせいではない。潜在していたものが顕現したに過ぎないと、菫は自覚している。
ただ、虚ろな日々で、面白い存在がひとつだけあった。
菫は学校を怠け、安良岡茉鈴の賃貸アパートに行くことが多かった。
「ねぇ、菫ちゃん……。せっかく進級できたんだから、サボってないで学校行きなよ」
しかし、歓迎されたことは一度も無かった。
垂れ目の眠たげな女性は、読書をしながら他人事のように構っていた。
「うっさいわ、アホ。学校行くんは、お前やろ」
いつ訪れても、茉鈴は部屋に居た。
それを除いたとしても――茉鈴が説教する立場でないことを、菫は知っている。茉鈴には、この部屋から追い出す権利も、責める権利も無い。
菫は、茉鈴の持つ『罪悪感』に縋っているに過ぎない。脅迫じみたことを行っている自覚はある。
茉鈴に無理難題を吹っ掛けることは可能だった。だが、茉鈴本人には何も求めなかった。
座椅子で黙々と読書をしている茉鈴を余所に――菫はベッドで、携帯電話を触るか、持参した漫画本を読むかであった。
言葉が交わらなくとも、構わない。何も無い、狭くて質素な部屋が、菫には不思議と居心地が良かった。
茉鈴への愛情は皆無だ。それでも、この部屋は菫にとって、世界中で唯一の『居場所』だった。
親近感を持つ者とふたりきりの空間だからであるが、菫は気づかなかった。
ただ、この時間が、ずっと続けばいいと思った。
しかし、しばらくすると茉鈴が部屋を空けることが増えた。
自分から逃げたのだと、菫は思った。学校に通っている可能性は、頭に浮かばなかった。
後日、茉鈴に確かめると、学校の図書館で読書をしているらしい。菫は、とても信じられなかった。
そして、五月を過ぎた頃――菫は茉鈴の部屋で『残り香』に触れた。
香水か化粧品か、わからない。だが、明らかに『自分以外の女性が居た気配』だった。
菫には、安良岡茉鈴という人間を誰よりも理解している自信があった。故に、この人間が友人を連れ込む可能性は考えられない。そもそも、友人と呼べる人間はきっと存在しない。
「なあ、お前……何様や? なに勝手に、うち以外の女上げてんの?」
「いやいや……私が何しようと、菫ちゃんに関係ある?」
「は? 偉そうに言える立場か!? 人のこと、裏切っといてな!」
茉鈴が口答えしたので、菫はその日、部屋で大いに暴れた。
だが、それからも残り香は消えなかった。茉鈴の態度も相変わらずだった。
茉鈴への苛立ちが大きくなっていった、ある日――菫はアパートに到着すると、ひとりの女性が階段を上るのを見た。
茉鈴と同年代、或いは茉鈴より年上に見える女性だ。二階には茉鈴の部屋を含め三室あるが、このアパートの住人であるとは思えなかった。長く綺麗な髪と品のある佇まいは、古びたアパートにとても似つかない。
そして、その後姿の雰囲気に強い既視感を抱き、菫は確信した。
思った通り、女性は茉鈴の部屋へと入っていった。
すぐに乱入して暴れることを、菫は一瞬考えた。
しかし、冷静だった。直接潰しては、意味が無い。あの女性は目障りだが、茉鈴がより苦しまなければならない。
六月。菫は茉鈴の部屋に、自身の化粧品であるクリームタイプのチークを、隠すように置いた。
効果はすぐにあった。
後日、部屋を訪れると、茉鈴が死んだような表情で、ベッドで横になっていた。落ち込んでいる様子に、菫は大笑いした。
「どうしたん? 振られたん?」
「まあ、そんなところだよ……。好きなだけ笑うといいさ」
茉鈴の投げやりな言葉に甘え、菫はひとしきり笑った。
「お前みたいな奴が、誰かと付き合えるわけないやろ。なーんにも出来へん臆病者のくせに、なに勘違いしてんの?」
とてもおかしかったのだ。
この人間が人並みの幸せを手に入れるなど、甚だしい。身の程を弁えろと、菫は思った。
「……」
茉鈴は黙り、ベッドで横になったまま、菫に背中を向けた。
菫はにんまりと下卑た笑みを浮かべ、ベッドに近づいた。
「お前が幸せになる権利なんて、あらへんからな」
茉鈴の耳元でそっと囁いた後、肩を倒して茉鈴を仰向けにした。
今にも泣き出しそうな表情の茉鈴に、笑いが止まらなかった。
菫は安良岡茉鈴を、恨んではいなかった。かといって、愛しているわけでもない。
いわば、娯楽を得るための玩具であった。
壊れるまでは、存分に遊ぶつもりだ。
その後、茉鈴は再び自宅で読書をするようになった。
残り香の無い――心地良い居場所を、菫は再び手に入れた。
菫がなんとか高校を卒業した後も、この部屋に『第三者』の気配が現れることはなかった。常に、ふたりきりの空間だった。
菫は服飾の専門学校へと進学した。
多少なりとも興味のある分野だったが、真剣になれなかった。高校の頃と同じく、怠けた日々を過ごしていた。いや、より自由に動くことが出来た。
六月中旬のその日は、繁華街を特に目的も無く歩いていた。
夕方、飲食店の立ち並ぶ一角でその人物を見かけたのは、ただの偶然だった。
長い髪の女性が、小柄な女性と共に歩いていた。
繁華街での、何の変哲も無い一風景に過ぎない。しかし、長い髪の女性の、後ろ姿だが――既視感があった。
そう。品のある雰囲気を、菫は見間違えなかった。かつて、茉鈴の賃貸アパートで見かけた人物だ。
こちらの視線に気づいたのか、長い髪の女性は古びた雑居ビルの前で立ち止まり、一度振り返った。菫は咄嗟に視線を外した。
視界の隅で――女性は周囲を見渡した後、小柄な女性と共に、地下へと続く階段を下りていった。
どうやら、こちらの存在に気づかれていないようだ。そもそも、あちらは知らないのだから、当然だ。
菫は雑居ビルに近づき、看板を確かめた。
地下にある店舗は、ひとつしかない。『おとぎの国の道明寺領』という、なんともふざけた名前の店だった。
携帯電話のインターネット検索で調べると、メルヘンをテーマとしたコンセプトカフェのようだ。
開店時間は午後五時なのに、現在は午後四時。つまり、従業員として訪れたのだと理解した。
あのような気高い人物が、水商売紛いのアルバイトをしている。なんと惨めなのだろう。雑居ビルから少し離れた道端で、菫は大笑いした。
そして、茉鈴に電話した。長いコール音の後、ようやく繋がった。
『なに? 菫ちゃん、どうしたの?』
「ええか? 今日絶対に、この店に行ってこい。絶対やからな」
『は?』
困惑している茉鈴に、菫は店名と場所を伝えた。
『えー。遠いじゃん、そこ。ていうか、何のお店?』
「行ったらわかるわ。おもろいもん見れるで」
『まあ……行けたら行くよ』
「アホか! 絶対に行け! 暇してるん、わかってるんやからな!」
菫は怒鳴り、通話を切った。
茉鈴は拒むことが出来ないのだから、きっと訪れるに違いない。
これでいい。かつて好意を寄せた人間と、思わぬ場所で再開する。そして、惨めな姿を見て幻滅する。
菫はそう想像しただけでも、胸が踊った。
そう。茉鈴が苦痛を味わうことが――たまらなく嬉しかった。
紫色の花である『スミレ』は『菫』と書く。
その字はまた『トリカブト』と読むことも出来る。同じく紫色の美しい花だが、致死毒を有する危険植物だ。
菫は下卑た笑みを浮かべた。
茉鈴がたった一度の過ちを犯した時から――毒のようにじわじわと嬲っていくつもりだった。
あの玩具が壊れるまで遊ぶ。否、壊すつもりで遊ぶ。
壊す権利を持っている。誰にも邪魔はさせない。
ああ、なんて楽しいのだろう。
菫は雑居ビルを眺めながら、ぽつりと漏らした。
「誰かと幸せになろうなんてな……うちが絶対に許さんで」
第13章『絶対に許さない』 完
次回 第14章『失恋の記憶(後)』
二年前。安良岡茉鈴はアルバイトで、ふたりの姉妹と出会う。




