第37話
八月二十八日、月曜日。
午後四時頃、春原英美里の携帯電話が着信を告げた。蓮見玲奈からの通話着信だった。
『飲みに行くわよ!』
不機嫌な声に、拒否権が無いことを英美里は察する。
玲奈に何があったのかは知らないが、この手の役回りは安良岡茉鈴だと思っていた。どうして自分に振られたのだろうと疑問を持ちながら、午後六時に――玲奈の部屋の近くにある居酒屋へと向かった。全国チェーンの、安くて不味い店だ。
「えっと……玲奈ちゃん?」
「悪いわね。急に誘って」
電話で聞いた声の通り、やはり玲奈は不機嫌――というより、やさぐれているように英美里には見えた。瞳が赤く晴れていた。
実際に会うと印象がより悪くなり、面倒だと思った。申し訳ない気持ちが本当にあるのか疑うが、とても訊ねられない。
「生ふたつ。それと、海老マヨに、フライド茄子。……他に何か要る?」
「いや……大丈夫」
ふたり掛けのテーブルに通されてすぐ、玲奈がタッチパネルで注文した。
英美里は二十歳であり、アルバイトでもカクテルを作っているが、飲酒が好きというわけではない。
玲奈にしろ、二十歳になったばかりであり、おそらく飲酒を覚えたてだろう。そのような者からやけ酒に付き合わされることを考えると、英美里は憂鬱になった。
「この前の土曜日に、花火が観えるからって、友達に誘われてラグビー場近くまで行ったんだけどさ……なんか変テコな花火だったなぁ。その後、お天気配信のキャスターが好きそうっていうか、チーズ牛丼食べてそうっていうか……生理的に無理な気持ち悪いオッサン達がぞろぞろラグビー場から出てきて、マジで怖かったよ」
英美里は苦笑しながら、俗に言う『弱者男性』を貶す流れを作ろうとした。とりあえず全人類共通の敵を叩いておけば、玲奈の気が少しは晴れると思った。
「そうなの……。生理的に無理なのよ……」
「だよねー。ああいうの相手に商売してる人ら、ほんと凄いよね」
「……あの女が」
「は?」
玲奈は共感しているようで、違う何かのことを言っていた。
それからすぐ生ビールのジョッキがふたつ運ばれてきても、英美里はポカンとしたままだった。
乾杯することなく、玲奈はジョッキを半分ほど一気に飲んだ後、盛大に咽た。
無理をしていると思いながら、英美里はビールを一口飲んだ。
「わたし、一年前に……茉鈴にコクって振られてるのよ」
玲奈は勢いよくジョッキをテーブルに置き、ぶっきらぼうに言った。
もう目はとろんとし、頬は紅潮していた。
「へ、へぇ」
英美里は玲奈から、茉鈴との関係を『元カノみたいなもの』としか聞いていない。かつてのふたりに触れると面倒だと思っていたため、なるべく避けてきたが――知りたくない情報を告げられた。
とはいえ、玲奈から告白したのは、なんだか意外だった。
英美里の目から、玲奈は気高く美しい人間に見えていた。恋愛で頭を下げるのは、想像できない。どちらかというと、振り向かせるタイプだと思っていた。
「それなのに……あのバカ、一年越しにコクってくるなんて、ありえないでしょ!?」
たとえ居酒屋でも、声を荒げると周囲の視線を集める。英美里は恥ずかしかったが、とても玲奈を抑えられなかった。
玲奈がジョッキを全て飲み干したところで――ほとんど飲んでいない自分のジョッキを、とりあえず二杯目として差し出した。そして、タッチパネルで三杯目のビールと烏龍茶を注文した。
二杯目を受け取った玲奈は、続けて飲みだした。
最近の玲奈と茉鈴はアルバイト以外でも仲が良いと、英美里は思っていた。偶然とはいえ、ふたりで買い物に行ったり、プールに行ったりするほどだ。ふたりがアルバイトを始めた頃は険悪だったが、現在では恋人のように見えていた。
惚気けを聞かされるなら、どれほどよかっただろう。現在の玲奈がそれを話しているようには、とても思えない。
そして、茉鈴ではなく自分が呼び出された理由を、英美里はなんとなく察した。だが、どうしても解せない点があった。
「一年越しでもコクられたなら、それでハッピーエンドじゃないの? 安良岡さんのこと、今でも好きなんでしょ?」
この様子から、玲奈が茉鈴の告白を拒絶したのは、間違いない。さらに、これほどまでに荒ぶる理由が、英美里には想像できなかった。
茉鈴のことだから、何か絶対に踏んではいけない『地雷』を踏み抜いたのだろうと、ぼんやり思った。
「コクってきた瞬間、カエルになったのよ。だから、振ってやったわ」
「カエル? ああ、蛙化現象ってやつ? 最近、流行ってるよね」
フラフラと揺れる頭で、玲奈が頷く。
蛙化現象という言葉を、英美里は友人間やSNSで耳にしていた。大抵は、相手を貶すための誤用として使われていることも知っている。
「それで……どうして蛙化したの?」
玲奈に限って誤用は無いと思った。現に、生理的に無理だと言っていた。
「何に怯えてるのか知らないけど……なんか、泣きそうな表情でコクってきたから……」
口を尖らせる玲奈に、英美里は少し納得した。
確かに最近、茉鈴の何かに追い詰められたような、余裕の無い一面をよく目にしていた。普段から飄々とした様子だったので、違和感があった。
英美里にも茉鈴のことはわからないが、それが原因で蛙化したと玲奈は言う。
結局のところ、理想と現実の隔たりに幻滅したのだと、英美里は一応理解した。インターネットで読んだ、蛙化現象の記事に書いてあった通りだ。
「いやー。玲奈ちゃんも、乙女だねぇ」
そして、率直な感想がそれだった。
理解は出来るが、納得は出来ない。他者に理想を見ていることが――呆れるほどに、微笑ましい。
完璧な人間など、この世には存在しない。いついかなる時でも理想の姿を演じ続けることは、たとえアイドルでも不可能だ。どんな人間でも欠点が必ずあるのだと、割り切らないといけない。
それに、相手の長所と短所をどちらも受け止めるのが恋愛だと、英美里は思う。
「乙女!? どこがよ!?」
「まあまあ……。ていうか、それぐらい許してあげたら?」
「それぐらい!? 絶対に許さないわ!」
ちょうど玲奈が二杯目を空にした頃、注文した飲み物が運ばれてきた。
英美里は烏龍茶を飲みながら、玲奈がどうしても譲れないのだと理解した。まさに、度を過ぎた『夢見る乙女』だ。大人びたように見えるが、中身は純真な可愛い少女だった。
「それじゃあ、玲奈ちゃん的に、安良岡さんはもう脈ナシってこと?」
「……そういうことになるんじゃない?」
極論として訊ねたところ、どこか釈然としない様子で玲奈が頷いた。
どうしたものかと、英美里は考える。やはり納得できないが、この場で玲奈に賛同することは簡単だ。頭の良い玲奈のことだから、一度傾けさえすれば、すぐに正当化へと切り替わると思う。
ふたりがどうなろうと、英美里自身としてはどうでもいい。『残念だ』で済ませることができる。
しかし、おとぎの国の道明寺領に大打撃を与えるのは、立場上避けなければいけないと思った。せめて、ふたりがアルバイトを始めた頃の状態を保持しておきたかった。
「それで切り捨てるのは、なんか勿体ない気がするなぁ」
「そ、そう?」
つまり、至極面倒だが、ふたりの間柄をかろうじて取り持たなければいけない。
かといって、自論を玲奈相手に説いたところで、聞いて貰えるとは思えない。むしろ、知能の差から言い負かされる可能性がある。
「安良岡さんの肩を持つわけじゃないけど……お互い冷静になるべきだと思うよ」
だから、英美里は中立を装ったうえで『意見』として述べることにした。
カエルになった茉鈴にも非はあるだろうが、蛙化するのは本人にも問題があると、聞いたことがある。
玲奈に対し、理想が高すぎると言いたいところだった。しかし、それでは説教になり、また具体的な解決策にもならない。
そもそも、理想を求める根本的な原因は、純真無垢な少女だから――即ち、恋愛経験の少なさから生じるものだと、英美里は思う。
「今回のことは一旦置いといて……安良岡さんと、友達としてもう一回付き合ってみたら? 友達だもん、何でも遠慮なく言えばいいじゃん」
恋愛経験を積み重ねるといっても、別の誰かを宛てがい遠回りさせては、時間の無駄だ。
茉鈴という相手が居るなら、恋愛への過程をもう一度やり直せばいい。幸い、一度やり直しているようなので、二度目も可能だと思った。
「まあ、わたしは構わないけど……あっちがどうなのかしらねー」
玲奈はウトウトしながらも、不貞腐れた様子で三杯目のビールを飲んだ。
ひとまずは最悪の事態は免れたと、英美里は安心した。
蛙化現象による失恋は理不尽な分、落ち着けばまだ挽回し易いと思う。現に、玲奈としても、心のどこかで諦めきれない部分が――未練がありそうだった。
「それじゃあ、バイトでもレイナとマーリンで、またよろしくね」
英美里は玲奈の様子から機会を図り、そう確かめた。
「だから、あっち次第だって……」
狙い通り、玲奈の目蓋が睡魔に耐え切れなくなった。
玲奈は項垂れると、割と大きな寝息を立てた。
短時間のアルコール過剰摂取による障害だ。英美里は面倒な役に回るよりも、こうして潰すことを選んだのであった。
「一応、言質は取ったからね……玲奈ちゃん」
玲奈の記憶に残っているのか定かではないが、少なくとも英美里は事実として主張可能だ。
勿体ないのでテーブルの料理を食べきると、携帯電話でタクシーを呼んだ。そして会計を済ませ、玲奈の肩を担いで店を出た。
玲奈と茉鈴、ふたりがどれだけ深刻なのか、英美里にはまだよくわからなかった。ただ、自分ひとりで抱える問題でないのは確かだ。関係者で共有しなければならない。
しばらくしてタクシーが到着したので、玲奈と共に乗り込んだ。
「飲み代は割り勘でいいけど、タク代は後で請求するからね」
涎を垂らして熟睡している玲奈に、英美里は念のため言っておいた。
玲奈のマンションは割りと近いので、さほど高値にはならないと思った。
ふと、夢見る乙女が寝言を漏らした。
「絶対に……許さないんだから……」




