第97話 「平和を愛する者たち」
俺はベッドの中で、ゆっくりと目を覚ました。
温かい日差しがカーテンの隙間から差し込んでくる。
さっきまで俺はひどく苦しんでいたような気がしたけれど、あれは夢だったのかな。
そう思って起き上がろうとすると、右腕に重みを感じた。
「くー……くー……」
横を向くと、そこには金髪の美少女が目を閉じていた。長いまつげが風もないのに揺れていて、開いた唇の隙間からは寝息が漏れる。
ああ、俺はこの子のことを知っている。
彼女は一糸まとわず裸だった。俺も同じようにそうだ。ふたりはこの大きなベッドで、一緒に眠っていたのだ。
俺は彼女の、眠っているミエリの頬を撫でる。ミエリは俺の腕に抱きつきながらも、くすぐったそうに体をよじった。なんだかその寝顔を見つめていると、俺の胸に多幸感がわきあがる。ああ、俺は今、幸せなんだ。誰に言うでもなく、俺はそう思った。
顔を逸らして天井を見上げる。真っ白で綺麗な天井だ。そうか、ここはホープタウンだ。俺がハンニバルからもらった豪邸か。なんでこんな当たり前のことを忘れていたんだろう。
ガチャリとドアが開いた。そこにはネグリジェを身に着けた緑色の髪の美少女が立っていた。ナルだ。
「あ、マサムネくん、ちゃんとひとりで起きていたんだ」
「うん」
俺は寝ぼけたような顔でうなずいた。ナルは目を細めて笑う。
「さすがマサムネくん、ようやくパパとしての自覚が出てきたのかなあ」
「どうかな」
ナルはその胸に赤子を抱いていた。黒髪の赤ちゃんだったが、その耳は尖っていた。すやすやと眠っている。
「じゃあ、朝ごはん用意してあるから、着替えたら降りてきてね。ミエリさまも起こしてきてくれると助かるかな」
「あ、ああ」
俺が手を振ると、ナルはやはり笑顔でガチャリとドアを閉じた。俺は横のミエリを起こし、服を着てから一緒に下の食卓へと降りていった。
食卓にはキキレアがいた。彼女は不機嫌そうな顔でキャベツらしき葉っぱを、フォークでつついていた。
「昨夜はお楽しみだったみたいね」
「キキレア」
「……なによ、そんなもの珍しいものを見るような顔で」
キキレアはきょとんと俺を見つめ返す。ゆったりとした服を着る彼女のお腹は膨らんでいた。まるで妊婦のようだった。まるでというか、なんというか。
そうか、そういえばそうだった。キキレアは三番目に俺の子どもを身ごもったんだ。産む順番で誰が正妻かを決める争いに負けて、しばらく悔しそうにしていたんだった。どうして忘れていたんだろう。
俺はキキレアの頭を撫でた。
「ごめんな、キキレア。きょうは一緒に寝ようか」
キキレアの顔が赤くなった。
「い、いいってば。私に気を遣わなくても……、わ、私たちみんなで、あんたを幸せにするって、誓ったんだから……」
「でも俺はキキレアのことも幸せにしたい」
「なによそれ、ばか」
ミエリは朝ごはんの支度をするナルから黒髪の赤子を受け取り、べろべろばーとあやしている。その足元にひょこひょこと、はいはいで金髪の幼児が近寄ってくると、ミエリはその子も抱きあげた。
両手に子どもを抱きながら微笑むミエリはまるで女神のように美しかった。
キキレアはその様子をぼーっと見ながら、小さくつぶやく。
「……十分幸せよ、私は。ありがとう、マサムネ」
「ん」
俺はキキレアの手を握る。するとキキレアも恥ずかしそうに微笑みながら、俺の手を握り返してきてくれた。
幸せだな、と俺は思った。
女神さまからチート能力を手に入れて、異世界に転移して。度重なる激闘の果てに魔王を倒した俺は、こうして家も持てて、三人の妻をめとることもできた。
子どももできた。これからは平和なこの世界で、妻と子どもたちに囲まれながら、第二の人生を送るんだろう。これこそが平和なんだ。俺はずっとこんな光景を見たかったんだ。
俺はようやく幸せを自分の手で掴み取ったんだ。これこそが、お手本のようなチート系の異世界転移物語だ。
よかった。本当によかった。
ミエリに抱かれていた赤子が俺を指差した。ミエリが気づき、キキレアが気づき、ナルが遅れて気づいた。みんな目を丸くしている。
俺は泣いていた。
「ど、どうしたんですか、マサムネさん」
「わからない」
俺は首を振った。
わけもわからず、両目から涙がこぼれていた。
急に胸の奥が締め付けられた。悲しさがあふれてきて、もうとまらない。
「俺は幸せだよ」
改めて口にする。だがその言葉にはひどく空虚な響きがあった。
だって俺はこれが――叶わなかった未来だって、知っているから。
世界が足元から崩れた。
なにもかもが崩壊してゆき、俺は奈落へと落下していった。
甘い夢は終わりだ。
俺はゆっくりと拳を開く。
握り締めていた未来の光景を、手放すように。
思い出の残滓は風に吹かれて消えていった。
「く、これ見よがしに魔力を発動しやがって! どうせいつものハッタリだろ! 偽神め! 貴様はそういう手ばかりだ! 死ねェ!」
ドレイクが振り上げたその双剣に、今度は稲妻が走る。俺はそれをつまらないものを見るような目で眺めていた。
「砕け散れ! 奥義――『雷神剣』!」
双剣が俺に襲い掛かる。
「兄ちゃん危ない!」
叫ぶラースの声。俺は軽く腕を掲げた。
「遅いな」
「――――!?」
風神剣が遠距離用の奥義ならば、雷神剣は近距離用の奥義だろう。その威力は恐らく風神剣の比ではないはずだ。だがそのような一撃を、俺は素手で防いでいた。
ほんのわずか手のひらに力を込めると、ドレイクの持っていたなんとかという剣の刃が砕け散った。
「バカな!? バカな!? ええい!」
ドレイクはその巨大な尻尾を俺に叩きつけてきた。平常時なら一撃でぺしゃんこになりそうな攻撃だが、しかし今の俺は強すぎた。虫でも払うように手を動かしたそれだけで、ドレイクは軽く吹き飛ばされる。
【ゴッド】のカードはまさしく、俺に神の如き力を与えてくれた。
たった『三分間』だけの制限時間付きだが、絶大なる力。誰かを叩き潰すための力。そうして誰かを守るための力を。
俺は狼狽して後ずさりするドレイクに向かって、跳んだ。拳を引き絞り、それを突き出す。瞬撃はドレイクの顔の横をかすめる。拳圧によってドレイクの背後の地面がまるで隕石が衝突したかのようにめくれ上がった。
わざと外したその一撃を見て、ドレイクは真っ青な顔でその場にへたり込んだ。頭部がリザードマンの状態に戻っている。ドラゴンウォーリアのモードを維持することすらできなくなったようだ。
「……これが、力か」
俺は俯いた。
ゼノスは言っていた。
『こいつはすごいぞ。一度しか使えず、効果時間も三分だけだが、まさしく神のごとき力が手に入る』
まさに最強な力だ。
だが……、なんて虚しいんだ。
「か、か、神、だと……!? なんだその力は、いったい……! 急にそんな、そんな力を隠していたのか……! 卑怯な……!」
「卑怯だって?」
俺は目に力を入れてドレイクを見返した。
「この未来を! 希望を! 可能性を代償に支払ったこの力が、卑怯だって!? お前はなにもわかっちゃいない! なにも!」
「ひっ!」
俺は悲しかった。力を見せつけられないとなにもわからない魔王軍の存在が。
無力な自分の存在が。
そして――。
――もう二度と童貞を卒業できないこの我が身が、とてつもなく悲しかった!!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
『っ!?』
俺の雄叫びを前に、魔王軍たちはビクッと震えた。村人たちも同じようにびっくりしていた。
驚かせてすまん! だが、叫ばなければやっていられないんだ!
「魔王軍! 今すぐに周り右をしておうちに帰れ! そうでなければ俺はなにをしてしまうかわからない!」
「ぜ、全軍退却ガル~!」
ガルヴォルが情けない声をあげて転進してゆく。あいつは相変わらず反応がめちゃめちゃ早いな。
それに続いて、たくさんの魔物たちが散り散りに逃げていった。俺は追いかけていって一匹一匹の股間を爆発させたい衝動を抑えながら、その背を見送った。
相手がどんなに憎くても、それをやっちゃあおしまいだ。憎しみの連鎖は終わらない。どこかで誰かが相手を許してやらなきゃいけないんだ……、いけないんだよ! その役目が貧乏くじだとしてもさあ! くそが!
ドレイクは固まったまま、いまだ俺を見上げている。
「タンポポ神……! まさか、本当だったのか……! 本当に、貴様は…!」
俺は静かにうなずいた。
「……そうさ、ドレイク。タンポポはどこにでも咲くさ。誰の心にだってな!」
「言っている言葉の意味はまったくわからないが、なんだかすごい気がする……! ぐぐぐ……!」
魔物たちが一目散に逃げ出してゆく中、ドレイクは逃げなかった。その場にとどまったドレイクは、圧倒的な力の差を知りながらも吼えた。
「うおおおおおおお! だが俺様は! 俺様はあああああ!」
その姿が再びドラゴンウォーリアのものへと変わってゆく。もう勝てないことはわかっているだろうに、懲りもせずドレイク――。
この俺に無益な殺生をさせるのか。どうしてもさせたいっていうのかよ!
「お前では俺に勝てないぞ、ドレイク! もうやめろ!」
「だが俺様はお前に勝つためだけに修業を積んできたのだ! ここで引くなら死んだほうがマシだぁあああああ!」
そう叫んだ瞬間だ。
なんだか肩の荷が下りたような気がした。
「あ、そう? 死んだほうがマシなの? マジで? そっかー、じゃあしょうがないなー」
「え?」
そうかそうか。そこまでの覚悟があるなら仕方ないな。俺は聞き返してきたドレイクに、大きくうなずく。
あーあ、俺は穏便に解決したかったんだけどなあ! しょうがないなあ! まったくもう! ドレイクってやつは聞き分けのねえやつだなあ!
俺は腕まくりをした。
「だったら俺もこの力を思いっきり試してみたかったんだ! せっかく代償を支払ったんだからなあ! あの魔物たちはきれいごとを言って追っ払っちまったけどさ。お前がそう言ってくれるならありがたい。思う存分試させてもらうぞ! 弱いものいじめになっちまうけどなあ!?」
「え、あ、いや、なんかそういうテンションで殺されるのは違うっていうか」
急にもじもじとし始めるドレイクに、俺は思いきり拳を握り固めた。
「異世界に来たんだったら一度はやってみたいからな、俺TUEEEEEEをな! どっかのバカ女神のせいで俺に与えられた能力は散々だった! そのうっぷんを今ここで! この瞬間に! お前で! 晴らさせてもらうぜ! うおおおおおおお!」
「うあああああああ! 最終奥義――『風神雷神双剣』!」
ドレイクが剣をやたらめったら振り回しながらなんか斬りかかってきたけど、俺は完全に無視した。当たっても痛くねえし。神の力は無敵だからな。
その代わりに魔力は十分溜まった。右拳を中心に魔力がなんかしゅわしゅわと渦巻いている。これだけの威力を相手にぶつけたら、ドレイクはどうなってしまうのだろうか。恐らく粉微塵だろう。粉微塵とかやべえ、楽しそうすぎる。すごいウキウキしてきた。
よし、ならばあとはこの拳を放つだけだ。剣を折られたドレイクはもう為すすべもなく立ち尽くしている。おっ、すっげー殴りやすそうないいサンドバックがあんじゃん! よっしゃ! 粉微塵にしてやんぜええええええ!
「行くぞ、ドレイク――!」
「うわあああああああ!」
「――タンポポ神奥義、スーパータンポポ拳!」
俺は適当なことを叫びながら思いきり踏み込んだ。拳にタンポポ色のオーラが宿る。
――するとその直後だ。俺の踏み出した一歩で大地が砕ける。やべ。ここまでのパワーがあるとは予想していなかった。地面はクッキーのように割れて、俺は体勢を崩しそうになった。
このままじゃドレイクを粉微塵にできない! 慌てて踏み止まろうとする、が――。
そう、すでに拳は放たれているのだ。俺はとっさに受け身を取ろうとして、手をパーに変えた。無意識の行動だった。
直後、俺は思いっきりドレイクの体をドンッと押してしまった。
「ああああああああああああああ!」
ドレイクは神の力で押し出されて、叫び声をあげながら上空へと吹き飛んでいった。しまった、こんなはずでは!
かつての強敵は夜空の星のひとつとなり、キラリと輝いて消えた。ちくしょう、ばらばらにぶち殺してやりたかったのに! ドレイクめ。うまいこと逃げやがったな!
俺は自分の力をまったく使いこなせていなかったようだ。かくして俺の粉微塵にしてやるぜ計画は失敗に終わった。次回は恐らくないだろう。まあ仕方ない。
そうだ、ドレイクを殺さずに戦闘を終えることができたのだ。今はなによりもそれだけが大事なことだろう。そうさ、俺は冷静に戻った。
ここまでの力を見せつけられたドレイクはもう逆らうこともあるまい。世界中にタンポポ神の伝説を語り継いでくれよ。俺のためにさ。
俺は割れた大地の上で、夜空の向こうに消えていったドレイクを見上げ、グッと拳を握った。
地平線の向こうから朝日が見えた。長い夜は終わりを告げ、こうして平和が戻ってきたのだ。
「……やはり、力とは空しい……」
俺のその言葉こそが、なによりも空しく聞こえたような気がしたが、気のせいだろう。
後ろからは村人たちの歓声が響いてきた。
ともあれ俺は、この村を救ったのだ。




