第74話 「恋人はナルルース その2」
部屋のベッドに座っていると、シャワー室からは水音が響いてきた。
俺は深呼吸をする。深く息を吸って、そうして深く息を吐いた。まるで自分自身が空気と同化するかのように、深く、深く。邪念を頭の中から追い出して、俺の意識は無と一体になる。
シャワー室から恥ずかしそうな「いいよー」という声がした。俺は目を見開いて立ち上がる。無はこの身に宿った。今の俺は『真の無に目覚めしマサムネ』だ。欲を捨て去ったのだ。
来た。このときが、来た――。
俺は一歩一歩を踏みしめ、シャワー室へと向かう。
かつてニール・アームストロングという男が月に降り立ったとき、このような言葉を残した。『これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ』と。
俺の歩む道も同様だ。これは俺にとっては小さな一歩かもしれない。だが、これより子孫に脈々に引き継がれるであろう俺の遺伝子にとっては偉大なる一歩だったのだ。俺は後に孫やひ孫たちにそう語るとしようじゃないか。この日、運命のヒロイック・サーガを。
シャワー室の前には更衣室がある。まずは更衣室のドアを開いた。そこにはナルの洋服が綺麗に畳まれてかごの中に入っていた。もちろん下着もだ。スポブラとショーツだ。俺は喉を鳴らした。
湯煙で覆われたシャワー室の中に、ナルの姿と思しきシルエットがあった。彼女が、中にいるのだ。
もしこのドアを開けて中にいたのがジャックで、あのときの仕返しとばかりに「残念だったなああああああ! 僕だよおおおおおおおお!」とでも言い放ってきたら、俺は思いつく限りのむごたらしい方法を使ってジャックを殺すだろう。それだけの覚悟が俺の魂には燃えていた。
俺は小さく呼びかける。
「ナル、入るぞ」
「……うん」
ガチャリとシャワー室のドアを開いた。
そこには髪をアップにまとめたナルがいた。生まれたままの姿だった。いや生まれたままの姿ではなかった。バスタオルを体に巻いていた。あられもないところはなにも見えなかった。俺は心の中で泣いた。
笑顔でナルに手を伸ばす。
「じゃあ、一緒にシャワー、浴びようか」
「うんっ」
そうだ、すべてを一度に手に入れようとしてはいけない……。ナルは嬉しそうな顔でうなずいている。だったら今はそれでいいじゃないか。
「こうしてナルと一緒に湯を浴びるのは、二回目だな」
「う、うん、そうだね。あのときのことは、思い出してもちょっと恥ずかしいな」
「お前が温泉で待ち構えていたんだよな」
「そ、そんなつもりはなかったんだけど……、でも、あのときはずっとマサムネくんに避けられていたから、あとで考えてみたらいい機会だったな、って……、えへへ」
するとナルは、俺にシャワーを向けてきた。溺死させて一緒に心中しよう――と言うわけではなく、頭を洗ってくれようとしているらしい。すごい。俺人生で初めて、女の子に頭を洗ってもらえるんだ。床屋はいつもおっちゃんだったしな。嬉しい。幸せすぎる。
さらにシャワー室では思う存分、ナルのふとももをもにゅもにゅさせてもらった。ナルはくすぐったがりながらも、決して嫌がらなかった。むしろ楽しんでいる節さえあった。もにゅもにゅは正義であった。
シャワーからあがったあとお互いの体を拭いて、俺たちはなんだか甘酸っぱいような気持ちを共有していた。
もし恋人同士になれたのなら、こんな毎日が続くのだ。それはきっと幸せなことだろう。
俺たちは「おなかすいたねー」と言い合いながら、外に飯を食いにいくことにした。
町を歩いていると、例のシャツを着た俺はやはり周りのやつらから指を指される事態になった。
「おい、童貞が動いているぞ!」
「マジかすげえ、本物だ……!」
俺はUMAかなにかだろうか。しかしそんな俺の横で、ナルはニコニコと微笑んでいる。周りの声など一切気にしていないようだった。
そういえば食堂に入っても追い出されるのだろうか、なんて思いつつ近くの店を訪ねてみると案の定、若いイケメンのウェイターに「すみません、そのTシャツを着ている方はちょっと……」と顔を曇らされてしまった。
だが今の俺は気分がいい。他の店に回ってやろうじゃないか、と思っていると、ウェイターの顔が一変した。
「あ、あのすみません、お童貞様! お連れ様とは、どういった関係で……?」
ウェイターは結構なイケメンだ。そいつはナルを見て、俺におそるおそる尋ねてくる。聞きたいか? ならば聞かせてやろう。俺はこともなく言ってやった。
「恋人だよ」
「こっ――」
隣でナルが「えーへーへー……」と笑いながら体をくねくねと揺らしながら悶えていた。ナルかわいい。
ウェイターは絶句する。
「な、なんでこんなお童貞様に、こんなすっごい美少女が……。えっ、ほ、本当にですか? ボランティアじゃなくて? マジで、マジもんすか? えっ、すごい、兄さんすごいっすね! マジで!? やるっすね兄さん! すげえ!」
「え? あ、お、おう」
ウェイターはなぜか笑顔を浮かべると、俺の手を握って握手を求めてきた。え、なんなん? どういうことなん?
さらに店内で食事している客に向けて、高らかに声をかける。
「えー、お客様二名様のご来店でーす! スーパー童貞様に拍手―!」
するとあちこちの席から拍手が巻き起こった。なんで!?
指笛やらが鳴らされる中、俺たちは奥まった窓側の一番いい席に案内された。まったく意味がわからないんだが、この町では自力で女の子をゲットした童貞は評価がグンとあがるシステムでもあるんだろうか。
ともあれ、ナルは俺がいい扱いを受けているのを見て、妙に嬉しそうな顔をしていた。
「なんか、本当に変わった町だよな」
「うん、そうだね。面白い町だよね。あたし、いろんなところを旅するの好き!」
「そ、そうか」
俺はちらりと振り返る。ウェイターはまだこっちを見ていた。拳を握って俺を応援している。なにをがんばれっていうのだ。夜か、夜のことか。
「しっかし調子のいいやつだなー」
「うん、でもあのウェイターさん、ちょっとカッコよかったね」
「あ? あ、ああ、まあそうだな」
ナルが他の男を褒めた! 他の男を! ナルが! ほめた! なんでだ! 俺が目の前にいるってのに! ほめた! ほめた!
俺は動揺を表に出さないようにして運ばれてきたコップに手を伸ばす。ぷるぷると手が震えていた。
が、ナルは直後に笑顔を浮かべてこう言った。
「マサムネくんは、その百億倍カッコいいけどね!」
そうか、先ほどの一手はこの布石だったのか。ナルは天然の策士だな。思わず一本取られてしまたよ、ははは。
思わず見とれてしまいそうなほどに、清らかな笑顔だった。自然と周りの客から拍手が巻き起こる。俺は頭をかいた。
きょう一日だけで、今まで一度も味わったことのないような気恥ずかしさが波のようにやってくる。
これが誰かを好きになって、そうして自分を好きになってくれた人と一緒にいる、ということなのだろうか。
この心地よさが両想いというものなのだろうか。
朝食兼昼食をとって、俺たちは辺りをぶらぶらと散歩している最中である。
するとそこに、見慣れた金髪の女が通りがかった。というかミエリだった。
「あっ、マサムネさーん!」
「ん、お前どうしたんだこんなところで」
「えーと、なんか体が変なんですよわたし!」
「へ? また猫になんの?」
俺たちは通りで立ち話をする。ナルは先ほどから俺の隣で手を出したりひっこめたりもぞもぞしていた。なんだろう。
ミエリは浮かない顔で胸の辺りを押さえていた。
「なんだかわたし、この辺りがきゅーっと痛いんです。これってなんでしょう。あの肉の体を持つものが噂によるとかかるらしい、病気ってやつなんでしょうか!」
「いや、知らねえよ。なんか悪いもんでも拾い食いしたんだろ」
「品行方正なわたしがそんなことするわけないじゃないですかっ」
ぎゃーぎゃーわめくミエリに眉根を寄せ、俺は適当にしっしっと手で払う。
「わかったわかった、キキレアにでも言って回復魔法をかけてもらえ。俺たちは今忙しいんだ」
「遊んでいるだけじゃないですか!」
「はいはい子どもは宿に帰んなさい」
「うううう~~~、マサムネさんのばか~!」
ミエリは唇を噛みながら、捨て台詞を吐いて去ってゆく。失礼な、誰がバカだ。
残された俺は首を傾げた。なんなんだあいつは唐突に。
「ま、いいや。いこうぜ、ナル」
「う、うん……」
ナルもまた顔を伏せていた。なんだろう。俺が立ち止まっていると、彼女はばっと顔をあげた。耳まで赤く染まっている。
「ね、ねえ! マサムネくん!?」
「お、おう?」
ナルは手を差し出してきて、そうして往来のど真ん中で俺に向かって叫んだのだ。
「て、て、つなぎたいんだけど! どうかなっ!?」
そのとき俺はナルの真剣なまなざしを見て、柄にもなくすごくドキドキしてしまった。
なんか順序が違う気がするが、おっぱいを揉むときよりもドキドキしていたのだった!
その後もナルは俺をさんざんに甘やかしてくれた。
俺の行きたい場所を聞くと、自分もそこに行きたいと心から嬉しそうに言い、俺が疲れたようなそぶりを見せると、近くの喫茶店で休もうと言い出した。
俺の隣に立っているナルは心から幸せそうに微笑んでいた。その笑顔を見ると、俺もこの町相手のささくれた気持ちが癒されるようだった。
ああ、やっぱりナルはいい。ナルすごい。ナルやわらかい。もう明日を待たずにナルでいいんじゃないかな。もにゅもにゅしているし。もにゅもにゅ。
そうしてのんびりと町を回る。ナルといると、俺は本当に満ち足りた気持ちになる。本当の幸せを見つけ出したような気分になるのだ。
日も落ちていい頃合いになったとき、ナルは予約しているレストランに向かおうと言った。夕食だ。
そして、それが終わったとき、俺はきっとこのTシャツを脱ぎ去るのだろう。
ありがとうナル。そして今までありがとうキキレア。俺はこの町で、ようやく本当の運命の人と出会えました。
そう、初めて冒険者ギルドでナルと出会ったあの瞬間が、俺にとってのディスティニードローだったのだ――。




