第56話 「破軍の竜王アシュタロス」
かつて、魔王領域がホットランド近くまで支配を及ぼしていた時代。
この迷宮には、魔王の腹心であるひとりの男――いや、一匹の竜王が棲んでいた。
その名も、竜王アシュタロス。
かの者はあらゆる光を吸い込む闇暗の鱗に覆われ、あらゆる者を裂く鮮血のように紅い爪を持ち、あらゆる者を焼き尽くす獄炎のブレスを吐いたという。
一国の騎士団総勢ですら、竜王アシュタロスを打ち倒すことはできなかった。ついた異名が『破軍の竜王』である。
だが、あらゆる竜族の頂点に立っていたはずの魔王の腹心もまた、その時代の勇者に滅ぼされる。
迷宮は地下深く封印され、それから二百年の時が流れた。
「ククク……」
ここは今は名も失われた迷宮の地下三十階――王の間。
かつての竜王は長き眠りから覚め、人間体となって復活を遂げていた。今まさに手勢を増やすため、魔力をかき集めている最中であった。この迷宮は竜王が作ったものだったのだ。
かつてほどの力はない。だからこそ、完全復活を遂げてから、魔王の下へと会いにゆくつもりであった。そのために準備に時間を費やした。
だが、ダンジョンは見事な出来栄えになったと自負している。
かの男――竜王アシュタロスは玉座に深く座りながら、ダンジョンコアに映し出される侵入者の反応を眺めていた。
手に持つワイングラスを口元に運んで傾け、そうして嗤う。
「地下六階までたどり着いたか」
その声には愉悦の色が混じっていた。
竜王アシュタロスは愚かな侵入者の運命を想い、口元を歪めた。
人間にしてはがんばるものだと言いたいものだが、しかしその反面このぐらいはできてもらわなければ困るな、という気持ちがあった。
地下六階までは『攻略できる』ように造っているのだから――。
竜王アシュタロスはその強大な力とは裏腹に、芸術的なダンジョンマスターであった。彼の造り出すダンジョンは決して、難攻不落の大迷宮ではない。だが、だからこそ人に絶望を与える地獄であった。
地下六階までは単純な作りだ。地下一階から二階が初心者を呼び込み、そして地下三階で殺す。そこをクリアーした中級者を、地下四階の魔竜が喰らう。竜は死ぬたびに何度でも自動召喚されるように魔法陣を敷いてある。
この程度の仕掛けはまだまだ序の口である。
地下五階と六階には、さまざまなトラップを配置している。手練のシーフを連れてこなかったものは、さらにここで確実に死ぬ。六階までに総合力が足りていないパーティーはすべてふるい落とされる。
また、五階と六階の仕掛けは、大量にやってきた侵入者たち――たとえば騎士団などだ――を排除する役目も果たす。それらの階層に魔物がほとんどいないのは、召喚した知能の低い魔物が引っかかって、罠を誤作動させないためだ。
竜王アシュタロスの造るダンジョンは、すべての階に意味がある。
地下六階まで踏破した侵入者は、初めて歓迎するだけの価値が生まれる。それではお出迎えだ。地下七階には大量の魔物とボスがいる。地下八階も同様に。七階にはアイスドラゴンが、八階にはサンダードラゴンが、人間を待ち構えている。
大きな空洞となった地下九階に魔物は一体しかいない。
それは三頭竜アジダハーカ。高度な知能を持った竜だ。竜王アシュタロスが自ら選び召喚した毒竜である。単純な戦闘力だけならば、あのギガントドラゴンをも凌駕するだろう。
「さて、どこまで楽しませてくれるかな、侵入者よ」
アシュタロスは人間の絶望を食らい、魔力を高める。
そのため、一息に殺してしまうような迷宮を作ることはない。
宝を配置し、バランスを調整して、もっと先へ、もっと奥へと進ませ、そうして冒険者をなぶり者にするのだ。
アシュタロスはダンジョンコアを指で撫でた。
紫色の輝きを放つ結晶には、あまり魔力が蓄えられていない。この迷宮に挑む者たちがまだまだ少ないのだ。
少し前までは初心者のパーティーが次々と訪れていたが、しかし二階で皆引き返していった。三階まで足を踏み入れれば死んでいたものを、臆病者こそが長生きする例であろう。
迷宮の存在がもっと知れ渡れば、世界中から強力な冒険者が集まってくるだろう。そうなったときこそ、このダンジョンの真価が発揮される。
もう少し経ったら、ダンジョンに眠っている宝の存在を流布しなければなるまい。そうしたとき、爆発的に挑む者が増えるはずだ。
さらに迷宮は続く。
地下十階から地下十四階までは、火山の迷宮だ。アジダハーカを倒した冒険者がさらに地下に潜れば、そこは熱気渦巻く空間となっている。
ホットランドは火の精霊の影響が強い土地だ。だからこそ火山は消費ポイントも安く精製することができた。五階も続くこの火山地帯では、強力な冒険者の不快感をたっぷりと摂取することができるだろう。ところどころに水源を配置したのは、生かさず殺さず進ませるためだ。
さらにこのエリアには、パーティー同士が常に疑心暗鬼に陥るような仕掛けを数多く詰め込んだ。三人しか進めぬ近道。同士討ちを真似るドッペルゲンガー。ひとりを拘束していなければ開かない扉。まだまだある。
心と体。その両方をボロボロにしてやるのだ。
地下十五階から地下十九階までは特別な仕掛けはなにもない。だがそれで十分だ。複雑な迷路。強力な魔物。巧妙な罠。それらが連携し、冒険者を常に追い詰める。
気力を振り絞って火山地帯を抜けてきた冒険者は、心身ともに弱り切っている。ここで永久の眠りについてもらおうではないか。
アシュタロスはダンジョンコアに登録した情報を確認し、さらにその下を見やった。
地下二十階から地下二十九階までは、まだなにも造られていない。がらんどうの部屋が続いているだけだ。
「ククク、どうしてやろうか」
目覚めた段階での魔力は、地下十九階までを作成するのにほとんど使い果たしてしまった。予備は残っているが、それはあくまでも予想外の事態があった場合に対処するためのものだ。
もっとも、地下十九階までの段階ですら、このダンジョン攻略できる者がこの世界に存在するとは思えないが――。
地下三十階にて、竜王アシュタロスは満足そうに顎を撫でる。
このダンジョンは、我ながらいいダンジョンだ。
封印されていたときにずっとダンジョンの構想を練っていたのだ。
次は決して攻略されない、だが挑まずにはいられない、そんな矛盾を両立する見事なダンジョンを作ってやろう、と。
設計思想にブレはなく、計り知れないほどの魅力を持ち、広く万人を受け入れ、そして容赦なく殺す。
これこそが、アシュタロスの造りたかったダンジョン。この世界のどんな迷宮よりも美しい、ダンジョンオブダンジョンだ。
――と、そのときである。
アシュタロスはおもむろに顔をあげた。日がな一日ダンジョンコアのデータを眺め続けているだけでも飽きないが、しかし今はそうしている場合ではない。
――エレベーターが動いているのだ。
まさかという気持ちと、ようやくかという気持ちが同時に降ってきた。アシュタロスは知らず知らず拳を握っている。
ブラックマリアを招いたのは四か月前のことだった。彼女はこのダンジョンを「ふーん、引きこもるにはちょうどいいかもね……」と冷たいまなざしで言った。
人の生み出した芸術品をニートの部屋みたいな言い方をされたことに少し苛立った思いもあったが、しかしそれでも彼女は一緒に暮らしてくれるというのだ。なら、ツンツンな態度も照れ隠しのようなものだろう。
地下三十階の居住区に隣り合わせで彼女の部屋を作ったのだが、彼女は六階に住むと言い出した。ここから二十四階も離れている。徒歩で行くと三日近くかかるぞおい、とアシュタロスは思った。照れ隠しにしては度が過ぎている。
もしかして自分と一緒に暮らすのが嫌なんだろうかと一瞬嫌な想像が脳裏をよぎったが、しかし女の子には色々とあるものだ。今は夫婦が家庭内別居もする時代だしな、とアシュタロスは無理矢理自分を納得させた。二百年前とは時代が違うのだ。
だがそれでは会いたくなったときに会えないのは寂しいだろう? ということで六階への直通エレベーターを配置した。できる男のニクい心遣いである。
彼女はあからさまに顔をしかめて舌打ちをしていたが、その頃にはもうアシュタロスは彼女の乙女心をばっちりと理解していたため、これが照れ隠しであることは十分すぎるほどわかっていた。彼女はひどく恥ずかしがり屋なのだ。
というわけで、それから四か月。一度も直通エレベーターが使われたことはない。自分から会いにいくのはなんか恥ずかしいし、あと露骨に拒絶されたらもうたぶん現実逃避もできないくらい心が折れてしまうと思うので、まだ試みたことはない。たぶんこれからもない。
だがいいのだ。なぜなら自分と彼女は――ひとつ屋根の下で暮らしているのだから!
その事実だけを胸に黙々とダンジョンを造り続けてきたアシュタロスだが、彼女のほうからエレベーターを動かしたとなれば、話は別だ。
アシュタロスは咳払いをした。そして「あ、あ、あ」と声をあげた。独り言はよくしゃべっているが、誰かと言葉を交わすのは四か月ぶりだ。うまく話せるだろうか。台詞が喉につっかえないだろうか。
様々な心配を胸に、アシュタロスは第一声をどうするかを考えなければならなかった。だが己にはやはり威厳がなければならないだろう。最初に喜びをあらわにするのはまずい。あくまでも王として恥ずかしくない態度を取るのだ。
「……よし、よし」
アシュタロスの行動は決まった。ワイングラスの中に入っていた液体を飲み干すとそっと床に置いて、アシュタロスは玉座に大仰に肘をついて足を組んだ。
ちなみにエレベーターはダンジョンコアのある玉座の間に到着する。自分が普段ここにいるからだ。
エレベーターはもうじき到着する。ドアが開くと同時に、偉大なる声をかけようではないか。我は『破軍の竜王』アシュタロス。魔王の腹心であるぞ。
チンッ、と小気味よい音を立ててエレベーターが到着した。設置して以来、初めてエレベーターのドアが開く瞬間だ。内心、心臓がはちきれそうなほどにドッキドキであった。アシュタロスはタイミングを見計らって声をかけた。
「――誰だ! この我の前に姿を現すのは!」
決まった。完璧なタイミングだ。アシュタロスはエレベーターをガン見した。そこからは恐らく頬を染めたブラックマリアが顔を出すだろう。そうして「アシュタロスさま素敵! 抱いて!」とやってくるのだ。今宵は彼女の体に隠された神秘の迷宮を攻略してやらねばなるまい。
――エレベーターから降りてきたのは四人の少女と、彼女らを引き連れたひとりの目つきが悪い少年だった。
「誰だーーーー!?!?!?」
アシュタロスは叫んだ。もはや絶叫であった。




