第45話 「爆誕・正宗荘!」
村の外れに、高々と水しぶきが舞い上がる。
それは地中から湧き出た熱湯――すなわち、紛れもなく温泉であった。
危ない危ない。もうちょっとで湯を全身に浴びて、火傷するところだった。
俺が慎重かつ冷静でよかったぜ。
さて、遠方から町人たちが走ってくる。
まさかの温泉の復活だ。みなが歓喜の声をあげていた。
これでこの町も生き返るだろう。
そう思っていると、走ってきた町人はみんな手にたらいを持って、そうしてその中にたくさんの卵を入れていた。
「お、温泉卵が!」
「また食べられるのね、あの温泉卵を!」
「ああ、温泉卵さま、温泉卵さま! ありがとうございます!」
「新生と炎と温泉卵の女神、フラメルに、大いなる感謝を!」
なんなのこの町のやつら。みんなジャンキーなの? 卵中毒者なの?
とんでもないものを司らされて、さすがのフラメルも顔をしかめるだろうな。
まあいい。これでこの町の雰囲気も少しはマシになるだろうさ。
人々は舞い上がる温水に目が釘付けになっていた。
集まった町人たちに、俺は告げる。
「いいかお前たち! この温泉は俺が見つけ出した温泉だ! 俺の名はマサムネ! あのイクリピアで七羅将を倒した偉大なる冒険者だ!」
このときのために作っておいた壇上にのぼった俺を、人々は尊敬の念と、そしてなにを言い出すのかと不安な気持ちを込めて見上げてくる。
ま、大丈夫さ。悪いようにはしない。だいたいこの温泉を独り占めしたところで、俺になにができるわけでもない。
というわけで。
「この俺が掘った温泉は。町のみんなで使ってもらいたい! ここから湯を引いて、みんなで分かち合おう! ホットランドにかつての輝きを取り戻すために! 俺たちは魔王軍なんかには負けないぞー!」
俺はひとり、おー、と拳を突き上げる。すると最初は不安そうにしていた人々も、互いに相談しながら少しずつ微笑みを取り戻していった。
そんな町人に、俺はなおも叫ぶ。
「いいか、俺たちは決して希望を忘れちゃいけないんだ! 魔王軍がこの温泉街を狙ったのもきっと、俺たちから希望を取り上げようとしていたからだ! だが、そんな彼らに俺たちは負けない! そのための温泉だ! もう一度ここからやり直そうじゃないかー! おー!」
おー! と今度は大きな掛け声が集まった。
それから皆が俺を尊敬のまなざしで見つめてくる。うむ、悪くない。
まあ三日間、延々とホールを使い続けるという苦行をやり遂げたんだ。これぐらいの報いはあってもいいだろうさ。
壇を降りた俺を、ナルとミエリが出迎える。
「すごい、すごいマサムネくん! 温泉まで掘り当てちゃうだなんて、マサムネくんはホンットにになんでもできるんだね! 拍手喝采、空前絶後! すごいよマサムネくん!」
「今回ばかりはわたしも、マサムネさんのことを見直しました! あのマサムネさんがまさか人のために動くだなんて、まるで寝ている間に脳に寄生生物が入り込んで内側からマサムネさんという人間を作り替えたみたいですね!」
「怖いこと言うなよミエリ……」
ほめているんだかなんだかわからんぞそれ……。
いやまあ、ミエリだから天然なんだろうが。
俺は、急ピッチで温泉卵を作るための施設を立てている町人たちを眺めながら、声をひそめた。
ふたりだけに聞こえるように、ささやく。
「つーか、俺がなんの得もなく、こんな真似するわけねえだろうが」
「えっ!? そうなの!? だって魔王軍に希望をくじかれないようにって」
「あんなのは建前だ、建前」
「ですよね~~~~、マサムネさんですしぃ~~~~~~」
ミエリの満面の笑みがムカついたので、その頭に思いっきりゴリゴリと拳を押しつける。「ふにゃああああああ!」という悲鳴を聞き流しながら、俺は語る。
「せっかくの温泉街に来たのに温泉がないなんて、ほら、つまらないだろ?」
それを聞いたナルはしばらくぽかーんとしていた。(ミエリは泣いていた)
「え、って……理由って、それだけ?」
「ん? ああ。でも大切なことだろ、しばらくこの町にいるんだからさ。こんな死んだような町にとどまっているなんて、辛気臭いだろ。だからこれは誰のためでもない。俺のためにやったことだ」
俺は胸を張る。
うむ、我ながら完璧な理論だな。
するとだ。ナルはしんなりと眉を寄せて、照れくさそうに頬を染めた。肌が白いから、紅潮するととても目立つ。そうして、控えめに俺の腕に抱きついてきた。
「そんなだから、マサムネくんのこと……、大好き!」
「って、お前……っ」
俺は慌ててのけぞる。普段から鍛えているくせに、絡みついてきた腕は細くてしなやかで、さらに柔らかかった。
ナルはすぐに身を翻すと「えへへへ……」と微笑み、頬をかく。
俺はなぜかその笑顔をまっすぐに見るのが恥ずかしくて、目を背けた。
まったく、ナルのくせに俺を動揺させようとは、生意気なやつだ。
大好きなんて、気軽に言うもんじゃないぞ、若いおなごが……。
さあそんなことよりも、すぐに俺たちも始めようじゃないか。
俺はナルとミエリを促して、歩き出す。
「せっかく湧いた温泉だ。俺たちも有効利用しようじゃないか」
『?』
俺はニヤリと笑う。
「まあ見てな。面白いことになるぜ」
一週間後、この空き地には俺の立派な銅像が建った。
『温泉の神・マサムネ』と掘られた名前を見て、ミエリは爆笑していた。
確かに面白いことになったが――違う! これじゃない!!
さらに一週間後、俺たちは大通りの一角に店を構えていた。
それは旅館だ。そう、ファンタジー的な宿屋ではなく、完全に旅館である。
なんちゃって和室に、なんちゃって浴衣。この町の職人に頼んで作ってもらったのだ。
俺がプロデュースした俺のための温泉宿である。
こうしてなにかモノ作りに協力するのは、ホープタウンでのドラゴンボーンソード以来だな。あのときも俺がプランを制作したんだった。まあそれはともかく。
やっぱり温泉といったらこれだよな。
別に日本が恋しいとはまったく思わないが、素晴らしいものはこの世界にもぜひ広めていきたいからな。
旅館の構えは純和風……というわけにはいかない。俺が絵で描いて伝えただけなので、材質とかも全然違うだろう。だからこそのなんちゃって和風だ。
さて、中に入ると靴を脱ぐ場所がある。この世界は基本的にすべて土足だ。なので下駄箱をつけてみた。お客さんにはスリッパに履き替えてリラックスしてもらいたい。嘘だ。リラックスしたいのだ、俺が。
木の板の踏み心地が気持ちいい。わずかにギシギシ鳴る床にあがると、ひとりの少女がトタトタと元気よくやってくる。
これこそが俺の創り上げたもの――ジャパニーズ・キモノである。
といっても、やはり見よう見まねのため、細部は確実に間違っているだろう。そもそも俺、着付けとかできないし。
だが、それでもだ。見た目だけはほぼ完ぺきに仕上げてやった。ファンタジーの世界に登場する長耳のエルフが、鮮やかな模様をあしらったキモノを身に着けているのだ。綺麗な外国人がしっとりとした和服をまとっているととても凛として見えるように、今まさに小走りでやってきた少女もそうだった。
そう、ナルである。普段はエメラルド色の髪をポニーテールにしているナルだが、きょうは清楚なアップにまとめている。そう、キモノといったらうなじである。それを強調するための髪型だ。もちろん俺がプロデュースした。
しかし、これは……。
「いらっしゃいませ、長旅お疲れ様です! あたしが女将見習いのナルルース・ローレルです!」
その場で深々とお辞儀をするナル。そうして太陽のような笑顔を浮かべる彼女は、なんかこう、いつもと比べて……おしとやかに見えるというか、正直グッと来るというか。
「どう? マサムネくん、あたし言われた通りにできてる? ねえねえ、どう? どう?」
「うん、まあ、うん」
俺が曖昧にごまかそうとしているところで、もうひとりの女性がやってきた。まだ少女のあどけなさを残したナルに比べて、彼女は完成された美女だ。
長い金髪を同じように後ろでまとめて、華やかなキモノを身に着けた彼女は、楚々とした足取りで俺の前に立つ。そうして優美に頭を下げた。
「よくいらっしゃいました。こちらでごゆるりとお過ごしください」
顔をあげて微笑むそいつを見て、俺は思わず叫んだ。
「誰だお前――――!」
ミエリであった。
いったいどうなっているんだ。
ナルはとんでもない美少女に。そしてミエリは凄まじい美女に大変身を遂げている。あのノーコン能天気アーチャーと、ポンコツ女神がだ。
これもキモノの力なのか。ワフクの生み出した奇跡なのか。ホワイジャパニーズピーポー、ホワイ。
「なに言っているんですか、マサムネさん。マサムネさんがやれっていうからやっているんじゃないですかー。こんなに窮屈な服、着てあげているんですよー」
「えへへ、でもあたしは結構楽しいよ。こういうひらひらとした格好する機会なんてなかったし。キティーみたいな女の子らしい服、着てみたかったんだ」
「これ、女の子らしい服なんですかぁ? 胸のところがすごく締めつけられて、やっぱり苦しいですけどお」
「そうかな。ちょうどいいよ?」
ナルとミエリの印象の差は、おそらくそのままふたりの胸のサイズに直結するのだろうが……まあいい。
口を開くと多少は正気を取り戻すことができた。ミエリはあくまでもミエリだった。
だが、ぶーぶーと不平を垂れるミエリに比べて、ナルはご機嫌だ。俺の言った通りのことを、嫌な顔ひとつせずに楽しんでいる。天使か。天使なのか。あるいは悪魔なのか。冒険のときとのギャップがありすぎて、もうよくわからん!
苦悩する俺の前、ミエリとナルはマニュアルに従って――もちろん俺が作った――こちらの手荷物を取ると部屋へ案内してくれる。
「お部屋はこちらでございます」
「う、うむ」
床の間にそれっぽい絨毯を敷き、座布団を置いた手頃な部屋へと通された。
できれば畳がよかったのだが、一週間や二週間で作れるようなものではないからな。代わりにちゃぶ台や部屋のレイアウト、飾りや趣向などはきちんと旅館を再現したつもりだ。
そうして地べたに座ると、やはり落ち着く。
ちゃんと押し入れの中にはジャパニーズ・フトンも用意してある。
「それではごゆるりと、くつろぎください」
「くださーい!」
女将見習いズのミエリとナルがゆっくりと戸を閉める。
その最後の一挙動まで見送り、俺は満足そうにうなずいた。
よし。
途中で激しい心の動揺はあったが、おおむね問題はない。
これで完成だ。俺の思い描いた旅館。
すなわち――正宗荘、爆誕である。
他の旅館が温泉の準備をしている最中、彼らに先駆けて俺は正宗荘をオープンさせた。
大通りのそれなりにいい立地に店を構えた正宗荘は、我ながら繁盛していると言ってもいいのではないだろうか。
従業員は当然、ミエリとナルだけではない。というかそもそも、あいつらはただの客寄せパンダだ。お出迎えと、あとはたまに食事を運びに行かせているぐらいだ。やっている本人たちが楽しそうだし、なによりである。
主な業務は従業員に任せている。彼らや彼女らは、あちこちの旅館が潰れて働く場所を失った者たちだ。それだけに温泉復興となるとモチベーションは高く、さらに手際もよかった。いい拾い物をしたな。
さて、この段階でイクリピアからもらった報奨金はほぼ使い果たしてしまったわけだが。
しかし問題は一切ない。俺は慎重な男マサムネ。これからの運営計画はとうに完成している。一ヶ月。四半期。半年。そして一年。さらに二年後、三年後も見越したプランが俺にはある。銀行マンが涙を流しながらお金を貸すために走ってくるほどの完成度でな。
俺が提供するジャパニーズ・リョカン・スタイルは、大流行するだろう。そしてあちこちに旅館が作られ、すると競争が行なわれるようになる。こうして旅館は品質を高めながら、世界に広まってゆくのだ。あとは労せず、俺はいつでもどこでも旅館に泊まれるようになる。
これが俺の今回の計画だ。先ず隗より始めよ。とにかく始めることが大事なのだ。
この温泉旅館には、冒険者や観光客だけじゃなくて、辺りの旅館の従業員たちも泊まりに来ていた。日本人的なOMOTENASIは、彼らにとってもの珍しかったのだろう。
風呂は特筆すべき点は特にないが、食事には気合を入れている。名物はなんといっても、俺が作り出した【レイズアップ・パン】だ。疲れるので大量生産はできないが、お客様は「こんなにおいしいパン、これまでの人生で一度も食べたことないザマス!」と喜んでくれている。これが魔典の賢者の力だ。
さて、プロデューサーとして旅館の中をぷらぷらしていると、料理を下げてきたナルと鉢合わせた。
女将というかやっていることは仲居みたいなもんなのだが、ナルは妙に楽しそうにしている。給料のためではないのだろう。(ミエリはもらった銀貨を数えていやらしい顔で舌なめずりをしていたが)
ふと俺は尋ねてみた。
「なあナル。お前なんでそんなに楽しそうなんだ」
「え? そうかな? そう見える?」
「ああ。弓を操っているときのお前とは少し違うが、これはこれで幸せそうだ」
「そうかなあー……えへへ」
ちなみに人化竜穿ことリューも、仲居として働いていてもらっている。ロリ小さいそのボディが、一部のマニアに大ウケのようだ。
配膳台を調理場に戻した後、キモノ姿のナルと旅館の庭園をぶらり歩く。庭園はもちろん池つきだ。辺りにはいっぱいのタンポポが植えられている。さながら黄色い絨毯だ。
辺りは少しずつ闇が降りてきて、足元の照明に照らされたナルの恥ずかしく笑う顔が妖精のように浮かび上がっていた。
そんな中、ナルは語る。
「あのね、あたし森で育って、ずっと武芸の修業ばっかりの毎日だったんだ」
「ん」
「物心ついた時から、剣、斧、槍、短剣、格闘、棒、杖、いろんな武器の使い方を教えられていて、毎日生傷が絶えなかったんだよ。でもそのうち自分がなんのために強くならなきゃいけないのかわからなくなっちゃって。竜穿と出会ったのはそんなときだったんだ」
ナルは虚空に浮かぶなにかを掴もうと手を伸ばす。それはさらさらと舞い落ちてくる雪だ。光に照らされ、乱反射して輝いている。
「あたしはいろんな英雄譚とか、伝説とか、そういうのが好きになって……、いつか、あたしの仕えるべき勇者さまが現れるんだって、思っていた。この力をいつかその人のために役立てよう、って」
「……ん、勇者じゃなくて悪かったな」
「ううん、マサムネくんはすごいよ。だってあの女神さまが連れてきた、賢者さまなんだから。だからね、あたし幸せなんだ。マサムネくんと一緒にいれて、幸せだよ。ううん、もしマサムネくんが女神さまの連れてきた賢者さまじゃなくても、マサムネくんはすごいもん。七羅将だって倒してみせて。まるで、夢みたい」
キモノを着たナルは俺を見て、はにかむ。
いつものように軽い調子で言っているのかと思えば、うなじまでも真っ赤に染まっていた。
「あはは……なんか、変なこと言って、ごめんね。こんなあたしがこういう風に、人前で武芸以外のことで役に立てるなんて思わなかったからさ。なんかでも、あたし上手にできているかな……?」
「あ、ああ。お前の弓よりはよっぽど上手だよ」
「もう、マサムネくんってば」
「いやマジで」
「あっ」
と、そこでナルがわずかに体勢を崩した。庭園に出るときに下駄に履き替えたため、足元が慣れなかったのだろう。俺はとっさに手を伸ばす。するとナルが俺の腕にしがみついてきた。
「ご、ごめんね」
「い、いや別に、ナルは軽いしな……」
俺がナルを抱き締めるような状態になってしまった。両手の置き場に困る。ナルの背中に回すのもおかしいし……。宙ぶらりん状態だ。
動悸が激しい。これは俺のものかナルのものか、よくわからない。
というかなぜすぐにどかない!? お前ほどの運動神経があれば、すぐにでも離れられるだろう、ナル!
俺は遠目から見たら、両手をわきわきさせながらナルに抱きつかれている不審人物だ。
常に冷静で慎重な俺が、なぜこのような目に……!?
だらだらと背筋に汗が伝う。ナルはまだ離れようとしない。いったいなんだ、どういうことだ。ナルの意図が見えない。ぬぐぐ。
俺から言葉をかけようと思いながらも、なぜだかやたらと口が重い。まさか緊張しているのか? この俺が? バカな、オンリンの決勝戦でも緊張などしなかった。それをこんな小娘ひとり相手にバカな……。
ナルが俺を見た。目が合う。その上目遣いに、思わず生唾を飲み込んでしまった。なんだ、これがキモノの魔力なのか。
「……」
「っ」
そしてナルが静かに目を瞑る。
意味深に。俺を仰ぎ見るような体勢のまま、目を瞑る。
背中を流れる汗がさらに量を増した。これはいったい。
いや、知っている。わかっているさ。俺は冷静で慎重すぎる男マサムネ。ナルの態度がどういう意味を表すのかは十分わかっている。
この女、俺にキスされたがってやがる……!
あとは俺次第だ。衝動的ではなく、じっくりと考えよう。恐らくチャンスはそう長くはない。
ナルはいい匂いを漂わせながら、俺を信じているかのように目を閉じて、体を預けてきている。彼女の信頼にぜひとも応えたい気持ちは嘘ではないのだが、しかし俺は慎重だからな、うん、慎重慎重。はー、慎重ってつらい。
たとえばそうだ。もし今ここにいるナルが魔王軍に操られていて、キスをすることによって俺の命を吸い取ろうとしているのだとしたら――!? そう、可能性はゼロではない。危ない、危ないところだった。俺はとんでもないミスをしてしまうところだった。
そんなことを思っていると、どこかから俺たちを呼ぶ声がした。従業員だ。俺もナルも姿が見えないので探しているのだろう。
その声を聞いて、ナルが俺の胸元からすっと離れた。彼女は気まずそうに微妙な微笑みを浮かべる。
「えへへ……、なんか、急にごめんね、マサムネくん」
「あっ……、い、いや、別に」
「こういうの……、もしかしたら、嫌だったかな? そうだよね、あたしなんて、ただのスーパーアーチャーだもんね」
そこだけは明確に否定をしたかったのだが、そうすると話がこじれそうなのでやめた。
ともあれ、ナルは身を引いて、俺を残したまま去ってゆく。
「う、うん、じゃあ……またね、マサムネくん!」
「あ、はい……ま、また」
彼女にぷらぷらと手を振り、俺は空を見上げた。
晴れていた空に雪雲がかかり、ぱらぱらと小さな雪を降らせている。この地方の初雪かもしれない。
先ほどのナルの顔が、脳裏に焼きついている。
俺は空を見上げながら、思った。
――もったいないことをしたんじゃないだろうか。
そう、俺は衝動的に動かなかったことを、人生で初めて後悔した。
あとでどんな面倒くさいことになろうとも――というか、そもそも相手があのナルの時点で確実に面倒くさいことになるだろうが――そんなの構わずにやっちまえばよかった。
十七才の男の肉欲を俺の理性は凌駕したのだ。鍛え抜いた理性は強すぎた。後先とかそういうのすごい考えてしまった。俺は肉欲に勝利した。
だがそれはなにも得られない、空しい勝利だった!
「ああああああああ、俺は、俺はあああああああああああ!」
強くなりすぎてしまったことを、まさかこんなにも悔やむ日が来ようとは。
慎重すぎるがゆえに、俺はこれから先も色々なチャンスを潰してしまうような気がしていた。
頭を抱えながら苦しむ俺の慟哭は、誰にも聞こえることなくひっそりと雪の中に溶けて消えていったのだった……。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一方、こちらはイクリピア。
書庫にてジャックは報告の手紙を受け取っていた。
そのそばにはボロボロになったローブをまとうキキレアがいる。
このところ連日連夜ダンジョンに挑戦しているのだという。その鬼気迫る姿から『赤鬼』の異名を授かったキキレアである。ジャックは先ほどからマサムネへの恨み言を聞かされていたのだ。
「なによそれ」
「マサムネくんからの報告書だね」
「はあ? あいつがなにをしたっていうのよ! この私のことを捨てたあいつがさ!」
「いや、君は自分から勝手に抜けたって聞いたけど……、え、ええとね」
そこにはこう記されていた。
「……マサムネくん、どうやらホットランドで温泉旅館を開いたらしいよ」
「…………なんなの、あいつ、なにを考えているの」
「………………さあ……」
ジャックは頭をかく。
その様子だと、恐らく彼はまだ気づいていないのだろう。
ジャックは肩を竦めて言った。
「ともあれ、もう少し様子を見てみようじゃないか。カンのいい彼だ。ホットランドの『秘密』にも、いずれ行き着くに違いないさ」
「そうね……、そのときにはきっと、あの男は泣きながら私に協力を求めてくるでしょうね。私の復讐が果たされる日も近いわ」
なおも小声でマサムネへの呪詛をつぶやき続けているキキレアを眺めて、ジャックは「逆恨みなんだよなあ……」と思った。キキレアが怖いので口には出さなかったが。




