ステイル・メイト
チェスにはステイル・メイトと呼ばれる戦法がある。
引き分けと言う意味だが、将棋のように取った駒を再利用しないボードゲームでは永遠にどちらも王を取れなくなるケースがあり、わざとその状態に追い込んで負けないようにする戦法をそう呼んだ。
チェスの公式ルールでは、ステイル・メイトに追い込んだプレーヤーを勝者とし、逆転不可能な状態から引き分けに追い込む戦法は敬意をもって称賛される。
玄一さんが麻也ちゃんの横で膝を付き、深く頭を下げるのを見て嫌な予感がした。
「あの稲荷で偽物に勝利されたのを拝見し、御屋形様なら記憶の蜘蛛に勝てると確信しておりました」
その言葉を聞いて、俺が踊らされていたことにやっと気付く。
まるで仕組まれたステイル・メイトに追い込まれたように。
そう、それならこんな回りくどいことをしなくても、初めから俺と協力して記憶の蜘蛛と対決すれば話は早かったはずだ。
じゃあ何故そんな事をした?
徐々に俺の周囲を囲い込む魔力に警戒しながら現状を整理する。
俺が自主的に悪夢に取り込まれる必要性があって、その上で何かを成して、加奈子ちゃんの部屋に閉じ込めたかった。
理由までは分からないが、それならこの矛盾が説明できる。
玄一さんは俺の偽物との戦いを見てと言ったが、あれは実力を探るためにお膳立てされたステージだったのだろう。
そして記憶の蜘蛛を討伐できると判断した玄一さんは、刀を持ち去って姿を隠す。
――丁寧に置手紙を残して。
いや、あの置手紙を持ってきたのは阿斬さんだ。そうなると彼も玄一さんの仲間だった可能性が高い。
ひょっとしたらブーメランパンツ一枚の姿は、俺の思考をミスリードさせるための演技だった可能性も…… いや、あれはただの趣味の可能性も高いな。
そして俺は自主的に悪夢に入り込み、加奈子ちゃんや両親に出会った。そこにどんな目的があったのだろう。
この部屋にはまだ玄一さんの仕掛けた魔術術式が残っている。
俺が偵察と解除の為に、玄一さんから見えないように騎士を二枚指で弾こうとすると、
「悪いことはしないから、ちょっと大人しくしててね」
俺に身体を密着させていた魅惑の暗殺者さんがそれを奪い取った。
麻也ちゃんがムクリと顔を上げて、真っ赤なリボンを揺らしながら不思議そうに玄一さんを眺める。
妖艶な暗殺者は麻也ちゃんの顔を見て慈しむように微笑み、ベッドの上の千代さんは可愛らしく首を傾げた。
表情から察するに麻也ちゃんと千代さんは仲間じゃなかったようだが、
「ダーリンごめん!」「ンギャ、ンギャギャ!」
脳内に響く声はこの状態を初めから知っていたような口ぶりだ。
最も信頼している二人の裏切りに、
「お前たちどうして……」
俺は動揺を隠しきれなくなる。
「悪夢から相談を受けてなー、今回の作戦に乗っかったんだよ。悪夢を倒すのは不可能だけど、記憶の蜘蛛ならあたいひとりでもなんとかなりそーだし、玄一と言う狐の狙いには共感できたからなー」
「ギャ、ギャギャ!」
龍王とクイーンが俺の内側から魔力を制御する。
すると玄一さんが記憶の蜘蛛を倒すふりをして展開していた魔術が、加奈子ちゃんの部屋を覆った。
きっと今頃稲荷の要岩から流れ込んだ魔力が、俺の収納魔法の中にある転移扉を伝ってこの術式に力を供給しているのだろう。
阿斬さんと吽斬さんが、稲荷でそれをサポートしている姿が目に浮かぶ。 ――何故かブーメランパンツ一枚の姿で。
室内にポンと安っぽい爆発音が響き、黒い煙が充満した。
「我は妖術と奇術を極めんと自らの道を歩みし天狐。唯一主と認めし敬愛なる若き大賢者よ、どうかこの一成一代のイリュージョンをご堪能あれ!」
名乗りと共に煙が晴れるとサンタクロース姿の玄一さんと、その横で楽しそうに微笑むミニスカサンタ姿の暗殺者さんが肩を組んでいた。
――しかも何だか凄く馴れ馴れしい。
魔力が完全にロックされたが、体術だけでも何とかなるだろうとニョイを構える。しかし玄一さんからもミニスカサンタ暗殺者さんからも、微塵も殺気を感じない。ニョイの穂先がさ迷うと……
「MerryXmas!」
二人のサンタの息の合った言葉に合わせて、俺は転移魔法に引き込まれる。
――くそっ、お前ら絶対デキてやがるな!
そんな罵倒が喉元まで出かかったが……
麻也ちゃんの手前、俺はやるせなくそれを飲み込んだ。
× × × × ×
転移途中の亜空間で、俺はため息をつく。
「それで、ちゃんと説明してくれるんだろうな」
その言葉に反応するように、光のない世界にぼんやりと紫色の明かりが灯った。
「あっ、はい。もちろんそのつもりです」
手のひらサイズの悪夢には、背に大きなコウモリのような羽がある。きっとこれが本来の姿なのだろう。
「いつから玄一さんと組んでたんだ?」
「それは、あの世界であなたが倒した魔王がまだ暴れていた頃、蜘蛛の糸を盗んだ彼が、そっと檻にそれを差し入れた時からです」
悪夢の話では、魔族軍第五部隊に入隊した玄一さんは檻を発見すると、記憶の蜘蛛の糸を盗み出し、ある仕掛けを作った。
それは悪夢とコミュニケーションを可能にし、彼女の見せる夢を共有することが可能だったと言う。
しかし玄一さんやあの妖艶な暗殺者の腕でも悪夢を檻から出すことが出来なく、諦め始めていたら……
「ある事件が違う世界で起きました」
どうやらそれは、俺が勇者ケインの陰謀を阻止した件らしい。
異世界でそれは驚愕の出来事として伝わり、魔族軍も調査に乗り出す。
そして加奈子ちゃんの命が危険にさらされていると知った玄一さんは命がけでこの世界に戻り、記憶の蜘蛛の討伐と悪夢の解放を狙うが、
「あなたの実力と、その心の悲しい歪みを知って、彼は作戦を変更しました」
「俺の心の歪み?」
周囲を舞う手のひらサイズの悪夢に問いかけると、
「はい、その歪みを正す試練を課してほしいと…… それが彼の望みでした」
「それがこの転移魔法とどうつながるんだ? だいたいこの行先は何処なんだ」
悪夢は楽し気に笑いながら、
「それは自分で確かめてください」
暗闇の中に姿を消し……
俺は見覚えのある住宅街の路地に放り出された。
よく晴れた雲一つない冬空の丁度真上に太陽がある。
お昼時だからだろう、何処かから食事を作る匂いや、路地や庭で遊ぶ子供たちの声が聞こえた。
ここは加奈子ちゃんの家から一キロ程しか離れていないが、この世界に戻ってから意図的に近寄らなかった場所だ。
どうしても懐かしさより困惑が先に立つ。
「いったい何が狙いで……」
仕方なくその路地を進むと、妙に派手なクリスマス・イルミネーションを飾る一件の住宅が目につく。
築数十年は経過しているボロくなった木造二階建てのその家には、恥ずかしげもなくびっしりとイルミネーションライトが飾られ、何か文字のようなものまで描かれていた。
近所からは思いっきり浮いているし、それをする前に外壁を塗りなおした方が良いのではないかと突っ込みたくなるぐらいだ。
その異様さに、ついつい足を止めてしまうと……
「ああ、すまない。それを取ってくれんかね」
すっかりと髪が無くなった、小太りの初老の男に話しかけられた。
そのまま立ち去ろうかどうか悩んだが、その男は脚立によじ登って、イルミネーションを必死になって直している。
仕方なく足元に落ちていた電飾のパーツを拾い上げ、脚立に乗った男に手渡すと、
「ありがとう」
その男と目が合ってしまう。
「いえ、高い場所は危険ですから注意して下さいね」
「どうしても今日中に文字を書き直したかったんだが…… その必要はなくなったかも知れんな」
男は俺の顔を見ると小さく息を吸った後、不器用な笑みを浮かべた。
「これ、なんて書いてあったんですか」
その表情に、つい、そんな言葉が出てしまう。
「『待っている』と書いてあったんだが」
「それで……」
「ああ、『ありがとう』と書き直そうと」
「そうなんですか」
俺が苦笑いをすると、
「笑われるかもしれんが失踪した息子が夢に出てきてね、一緒に踊ったんだ。夢の中ではただ驚いただけだったが、目が覚めるととても嬉しくて」
そう言いながらゆっくりと脚立から降りる。
「それで…… そんなメッセージを」
「自分で言うのも何だが、私は悪い父親でね。どうやって接して良いか分からず、失踪した息子には随分と辛い思いをさせた」
そして俺の横に並んで、自分の家を見上げる。
「しかし最近は世の中にそんな親子がたくさんいることをニュースで知った。子供が良い歳になってもひきこもったままで世間様に迷惑を掛ける事件を起こしたり、それを苦にして息子の命を絶った親が現れたり」
その背はすっかり丸くなり、威厳も何もなくなり、どこか寂しげに見える。
「それは時代のせいだと思わんし、ましてや子の責任だとも思わん」
男はもう一度小さく息を吸うと、
「やはりそれは、私が言うのも何だが、全て親の責任だ」
そう言って俺を見た。
「ダメな親はやっぱりダメで、今になってもその責任の取り方すら分からんのだが」
「いえ、きっと…… その息子さんはその話を聞いたら、心から喜ぶと、そう思います」
今俺が、どんな表情をしているのかも分からなくなる。
いつもの作り笑いだろうか? それとも素顔の冷めた笑いだろうか?
あの時から、そう、一度命を失ってから初めて……
俺は本心で、心から笑えたら良いのにと後悔する。
「キミはまだ若いようだが、子供はいるのかね」
「いいえ、まだ独身です」
「こんな爺さんの与太話に付き合ってくれて、そんな素晴らしい笑顔を見せれるのなら、きっと良い子育てが出来るよ」
男はそう言って脚立を畳むと、玄関に向かって歩き出した。
俺がその背を見送って、踵を返すと……
「ありがとう」
聞き取れないほどの小さな声が響く。
――それが誰に対してどんな意味で言われたのか、やっぱり俺には上手く理解できない。
どうしたものかと路地をひとりトボトボと歩いていると、
「古の龍の王も伝説の闇の魔女も、あの妖狐も、きっとあなたのことを心から心配して、このような事をしたのだと思います。だからその……」
申し訳なさそうな悪夢の声が脳内で響く。
「分かってるよ、だから余計に困ってるんだ」
記憶の蜘蛛は討伐し、魔族軍の陰謀も阻止したが、どうも勝った気がしない。
まるで行き場のない気持ちに追い込まれた気分だ。
「やっぱり打つ手なしだな」
俺はため息をつきながら良く晴れた冬の空に向かって……
両手を大きく上げて、降参した。




