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情けねぇ。これじゃまるで、ボケたみたいじゃねぇか!
ちゃんと辻褄、合わせなきゃな。
俺はまだ若い。だってよぉ。ついこないだ、六十五の定年を迎えたばかりだってのによぉ……
気分は樽のディオゲネス。
あぁ、俺はずっと独りでいよう。結婚なんて所詮、人生の墓場じゃろ?
気持ちを切り替えて、スマホの電源スイッチを押す。
暗い液晶画面と睨めっこ、操作のまごつきを乗り越えて、ほっと一息。
先日、あの嫌味な三枝に勧められて買った真新しい携帯電話の画面を見ると、珍しく新たなメールが入っている様だ。
SNSからの通知メールで、『アキコ』という名前の女性から友達申請が来た、と言う内容らしい。
アキコ?
名前に微かな聞き覚えがある。
誰だっけ?
又、三枝の奴がつまらん悪戯を仕掛けてきたかと思い、アプリのリンクを起動させるかどうか、迷いに迷っている間、玄関のチャイムが鳴った。
基弘の体が凍り付く。
普段と違う事が突然起きると、どうしていいか、一瞬判らなくなってしまう。
猫か? 隣りのお節介か?
そ~っと廊下を進み、玄関ドアの覗き穴から外を見てみる。
あぁ、やっぱりお隣りのドラ猫だ。
限りなく黒に近いダークグレイの毛並みをした二頭のオスが、生意気にメタルフレームの眼鏡なんか掛け、何処となく落ち着かない物腰で玄関のチャイムを繰り返し鳴らしていやがる。
投げつけるスコップを持っていないのが口惜しかった。
代りに右手の、このひどくぶっ壊れたスマホを思いっきり投げつけてやろうか?
その時、薄いドア一枚を隔てた玄関の外では、八王子市の保健福祉局から派遣された職員二人が中の様子を伺っている。
「チャイムの反応、ありませんね」
「多分、向うも警戒してんだろ」
まだ二十代の若手職員が支給品の黒眼鏡の奥で、やれやれと眉を顰めた。
隣に立つ四十絡みのベテランも、ほぼ同じ身なりをしている。
オゾン層破壊による紫外線の極端な増加により、裸眼で長時間外出するのは危険、と厚労省が広く呼び掛けたのは11年前の事。それ以来、紫外線を弾く加工が施されたグレースーツとサングラスは、外回りする公務員の定番になっている。
見た目だけで公務員と判る点にメリットがある反面、着心地の良さとは程遠い。
特に暖冬には不向きだ。ここ数年、冬真っ盛りの時期でも摂氏30度を超す真夏日がざらにあり、岡山ならではの強い日照と相俟って、汗を拭うハンカチが手放せない。
でも、日本はまだマシな方なのだ。
今年は一体どれ位の島国が上昇した海面に呑まれ、どれ位の生物種が絶滅リストに加えられてしまうのか?
正に世も末。明日をも知れぬ御時世だからこそ、しがない公務員としてはチャッチャと仕事を片付けたいのだが……
チャイムへ応答しない今井家の様子に長期戦を覚悟し、若手職員は激しい直射日光を大地へ突き刺す鮮烈過ぎる青空を、うんざりした顔で見上げた。
「せめて健康状態だけでも確認させてくれたら、僕ら、役所へ帰れるのに」
「お隣りの民生委員も不安がってたもんな。今井のご主人、ひっそり孤独死してるんじゃないかってさ」
「ひっ!?」
いつの間か玄関のガラス張りにぴったり張り付いている男の影を見、若手が悲鳴を上げた。
「お、いるな」
「ええ、しっかり右手にスマホを握ってますよ」
動揺を噛み殺し、若手がドアを睨む。ガラス張りの部分を通し、うっすら基弘のシルエットが伺えた。
「さて、次はどうしたもんかな」
「今井さんの携帯番号はスマホのキャリアに照会し、データをメモって来てます」
「それ、まだ生きてんの?」
「料金が口座から自動的に引き落とされているから、少なくとも契約は未だ死んでいません。試しに掛けてみましょうか?」
「あ~、ソレ、やるだけ無駄だと思うけどね……」
ベテランの言葉を遮るように、ドアチェーンを掛けたまま薄く扉が開き、基弘の怒鳴り声が飛んでくる。
「帰れ! 帰れ、ネコ共! ウチの庭はお前らのトイレじゃない」
若手は思わず後ずさり、目を丸くしてベテランを見た。
「ネコ?」
「俺達が?」
ベテランが苦笑すると、今度は玄関ドアの隙間へスマホを押し付けたらしく、ひび割れた液晶画面の上半分が見えた。
果たして何十年前の機種なのだろう?
完全なガラクタだ。目に付くパーツは全て朽ち果て、機能の全てを喪失しているのが一目で判る。
「早う、いぬれや! ちばけてたらコイツ、頭へ投げつけんぞ!」
「な、投げる? スマホを?」
「あ~、本気だよ、その人。俺、前にここへ来た時、垣根越しにスコップを投げられた事がある」
「状況は聞いていましたが、やっぱり今井さん、もうすっかり……」
答える代りにベテランは又、大きく肩を竦めて見せた。
「スマホにせよ、メーカー修理もできないでしょ、あんな骨董品」
「だろうな。それでも、彼は絶対にアレを手放そうとしない」
「どうして?」
「今井さんの安否確認を求めてきたのは、彼の昔の同僚、三枝って人なんだがね、その言葉によると」
ドアの向う側へ聞こえる可能性を配慮したのだろう。ベテランは声を潜め、そっと若手の耳元で囁いた。
「あのスマホへ、死んじまった奥さんからSNSの友達申請が届くらしいよ」
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