035.わからぬ真意
季節は夏。ミンミンとけたましく鳴く蝉の音を聞きながら、俺はボーッとカウンターに肘をつく。
外はきっと暑いだろう。もしかしたら出て5分と経たずに俺なんかはシャツが汗でびっしょりになるかもしれない。
けれど、幸いにもここはエアコンの下。文明の利器から発せられる冷風が、暑すぎる外気から俺を守ってくれている。
あぁ、この時代に生まれてよかった。冷房がなければ今頃どうなっていたか。きっと灰になっていたか溶けていただろう。
そんな地獄と天国が隣り合わせの空間で、今日も今日とて無為な時間を過ごしている。
「暇ですねぇ」
「…………そうだな」
ふと声がするが、そちらを見ずに適当に答える。
「あなたって、毎日こんなふうにして過ごしているんですか?」
「……まぁ、こんな感じだな。毎日」
「なんだか…………暇で死んじゃいそうです」
「案外慣れるもんだぞ。 人間って慣れる生き物だからな」
ハァ……。と聞こえるため息を流しながら、俺は苦笑する。
暇は人にとって地獄と聞くが、今の所そういうケは見られない。
もしかしたら、これまでとある少女たちの手によって暇にならない出来事が続いたからかもしれないが、それでも辛いと思ったことはない。
俺はそんな忙しい出来事を作った原因である一人の少女に目を向け、背中に流れる汗を感じながら口を開いた。
「それよりさ……近すぎない? …………灯」
顔を向けた先…………俺のすぐ隣に見えるのは、黒髪で小さな体躯の少女である、灯が座っていた。
それもカウンターの内側に椅子を持ってきて、ピッタリとくっつく形で。
「そうですか? 私にとってはこれが普通なんですが」
まさしく「何を言っているの?」と言わんばかりの勢いでキョトンとしてきた。
両者の距離は俺の二の腕と彼女の肩がピッタリとくっつくほどの距離。もはやゼロ距離だから彼女のいい香りがダイレクトに伝わってくる。
しかも肩を思いっきり寄せてきて体重をかけてくるものだから、下手に動けば彼女がバランスを崩して落ちかねない。なにこれ、新手の攻撃?
「その普通って、遥に対してだよね……?」
「それは……その…………。 そう!貴方が本当にいかがわしいお店を営業していないか監視してるんですっ!今この瞬間も遥先輩を守っているんですよっ!!」
一瞬何か逡巡する様子を見せたが、すぐにいつもの調子を取り戻し、早口でまくし立ててきた。
まだそれ疑ってるのかなぁ……。今日まで散々ここで遥たちと勉強して、一緒に帰っていったというのに。
「監視して守るって言ってもさ……今その遥も、誰も居ないぞ?」
その言葉に両者店を見渡すも、そこには一人人っ子見当たらない。
今は平日のお昼前。普通なら学生も務め人も、それぞれのことに集中している頃だ。
それでも彼女がここにいるのは、シンジョがテスト期間だから。
今日は夏休み前恒例の、7月の期末テスト。
5教科は昨日ですべて終わり、今日の灯は選択科目の影響であの2人より早く終わっただけだ。まさかの1時間授業。羨ましい。
そして彼女は学校が終わるやいなや真っ先に店にやってきて、ずっとこうだからなんというか……やりづらい。
「そいや灯はテストどうだった? 何か返ってきた?」
「へ? あ、はい。5教科なら……どうぞ」
「ありがと。 ――――うわっ!なにこれ……」
なんてことのないようにバッグから取り出したテスト用紙の右上には、どれもこれもただ一つの数字しか書いていなかった。
それはすべて100…………満点だ。まさか高校で満点を取る人物が居るなんて。さすが全国トップ。とんでもない。
「さ……さすがだな」
「私はいつもどおりだからいいんです。 遥先輩は……遥先輩はどうでしょう……」
ブツブツと呟く彼女の頭の中はいつだって遥でいっぱいだ。
しかし俺も心配ではある。今日までの勉強は順調にいったが、それでも本番は何かアクシデントがないとも限らない。母親とは今度こそ赤点回避を約束したんだし、達成してもらいたい。
「――――そういえば、私には何かないんですか?」
「……へっ?」
俺たち以外誰も居ない空間での会話も途切れ、また静寂が訪れたと思ったら彼女がふと怒ったように問いかけてくる。
何かってなんだ……?俺なにかまずいことでもした?
「以前、遥先輩と伶実先輩にすっごく美味しいパフェを作って貰ったとお聞きしました。私、100点取ったのですが……何かないんですか?」
「えぇ…………」
思わぬ要求に困惑の呟きが漏れてしまう。
確かに以前、参観日の日2人に利益度外視のパフェを振る舞った事がある。美味しいパフェとはそのことだろう。
あの時は在庫問題もあったし、色々雰囲気最悪だったから苦肉の作でだな…………。まぁ、利益なんて開店当初から度外視なんだけど。
「別に私はこのままでもいいんですけど。これはこれで悪くないですし」
「…………」
しかし要求を取り下げるかのように肩を上下させた彼女は、今度はひっついている肩に加えて頭までコツンと俺の腕に乗せてきた。
それはさながら腕に抱きついているかのよう。ふと何かが這うような感覚を覚えれば俺の手を恋人繋ぎのように絡ませてくる。
…………え、なにこれ。灯ってもしかして俺のこと好きなの?でも本人は遥一筋だし…………あれ?
「あのパフェは今材料なくって……。とりあえず、ケーキでも奢ろうか?」
「…………いえ」
「じゃあ……お昼だしごはんとか? スパでもサンドイッチでも、メニューにあるのならなんでも――――」
「いえ、このままでいいです」
「えっ?」
なんて言った?このままがいい?このなんとも俺の腕がむずかゆい状態が?
「このままノンビリとした時間を過ごすのも、悪くないと思えてきたのです。だから、動かないでください。それが私へのご褒美です」
「…………はい」
ご褒美の要求がそれじゃ、頷くしかない。
でもやっぱり恥ずかしいな、こんなにひっつかれると。
嫌どころか嬉しい。いい香りが漂ってくるし。
香水……という感じはしない。でも、なんでこんなにいい香りがするのだろう。
例えるのはしづらいが、強いて言うならシャンプーの香りだろうか。顔のすぐ下に頭があるものだから、髪からフワリといい香りが漂ってきて鼻孔をくすぐる。
そのいつまでも嗅いでいられる香りを堪能していると、ふと固く握っていた手を解いて開放してくれると思いきや、今度はニギニギ、サワサワと俺の手を触れて観察するように様々な角度から触ってきた。
「へぇ……やっぱりあなたもなんだかんだ男性なんですね。手がおっきぃです」
「なんだかんだってなんだよ……」
「だって私が遥先輩に抱きついて見せても何の反応を示さないじゃないですか。混ぜてともなんとも……実は女性とさえ思っちゃいましたよ」
「それは…………」
それはそう取り繕ってるだけで内心血の涙を流してるの!
羨ましい!変わってくれ!って何度思ったことか!
「まぁ、私としてはそのほうがやりやすいんですけどね…………」
「やりやすい? なにが?」
「なんでもないですよーっだ」
少し投げやりにそう答えた灯は、もう飽きたのか俺の手を解いて肩と頭をこちらに寄せてくる。
なんだったんだ?俺に何かする気か?
そう、答えの出ない答えをふわふわと香ってくる香りに邪魔されながら考えていると、ふと何かを察知したのか彼女が突然俺から跳ね返るようにして立ち上がる。
「灯……?」
「来ます…………」
「来る? って、まさか――――」
彼女の直感は正しかった。
灯が反応した数秒の後、外から聞こえてくるのは駆け足の音。その音が段々と大きくなっていき、すぐ店の近くまでやってきたところで扉が大きな鈴の音を発しながら開かれる。
「マスター! たっだいまぁ!!」
満面の笑顔で入ってくるのは灯が予言したとおりの人物である遥。
その笑顔は、今回のテスト結果をまさに表しているようだった。




