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マザーに見えていたもの

 夜の丘陵地帯を、セリアは急いでいた。


「なにこの坂……きっつ」

「グリンヒルの館で暮らしていると、平気になってくるのよ」

「なるほどねぇ。だからお姉さん、細い割に脚の筋肉はしっかりしてるんだ」

「……脚、見たの?」

「お世話しているときに。ごめんね」


 舌を出し可愛らしく首を傾げて言われると、それ以上言うのも野暮になった。


 今、セリアはグロスハイムの騎士二人とパウロを連れ、館に向かっていた。

 丘を登るにつれ、暗闇にぽつんと浮かび上がる館の姿がどんどん大きくなってくる。ほとんどの部屋は消灯している時間だが、夜間警備係のいる場所や廊下などは明かりがついていることがある。


「俺たちは表で待っている」


 館の全貌が見える場所で立ち止まり、騎士たちが言った。


「おまえはパウロを連れて館に入り、『荷物』を取ったら帰ってこい」

「ええ、すぐに戻ってくるわ」


 セリアは屈強な男たちにしっかり頷きかけ、パウロを連れて館の正面玄関に向かった。


 セリアは、騎士たちと共に王都ルシアンナに向かうことになった。

 セリアにとって必要なのは、部屋に置いている聖弦。あれがないと、聖奏でデニスの呪いを解いてあげることができない。

 加えて、練習用の竪琴も必要だ。よって、館の三階にある自室から聖弦と竪琴を持ち出し、可及的速やかに出ていかなければならない。


 とはいえ、セリアは「デニスと一緒にファリントンに行っている」ことになっている。デニスが出発して既に数日経過しているので、事を慎重に運ばないと館の者たちに怪しまれてしまう。

 騎士たちの提案には、「夜間に館に忍び込んで楽器を回収する」というのものもあったが、却下した。事情があるとはいえ、二年間暮らした館の壁をよじ登り、鍵をこじ開け、盗人のように侵入するというのは承諾できかねた。


 そういうわけでセリアはパウロ――ファリントンへの旅に同行する使用人役だ――を伴い、館に一旦戻ることにしたのだった。


 館の門は施錠されていたが、しばらく待っていると足音が近づいてきた。夜間でも、侵入者を防ぐために傭兵たちが定期的に見回りをしているのだ。セリアは鍵を持っていないので、彼らに開けてもらうしかない。


 数度深呼吸した後、セリアは鉄格子の門を叩いた。


「……誰だ!?」

「その声は――ジェイクね。私よ、セリアよ」

「は? セリア?」


 がさがさと芝生を踏む音と共に、ランタンの揺れる灯りが近づいてくる。そうして門の向こうに、屈強な傭兵のジェイクがやって来た。


「本当にセリアだ――おまえ、デニスと一緒にファリントンに行ったんじゃなかったのか?」

「ええ。でも忘れ物をしちゃって。……私の部屋に楽器があるでしょう? どうしてもデニスが、私の演奏を聴きたいと言っていて」


 緊張を押し隠し、セリアはごく自然に見えるような笑顔で言う。


「デニスは途中で立ち寄る場所があったらしくて、まだヴェステ地方にいるわ。楽器を回収したらデニスを追いかけて、一緒にファリントンに行く予定よ」

「……そうか。で、そのチビは使用人か何かか?」

「そう、長旅のお世話係に雇ったポールよ。彼に荷物持ちをお願いするわ」


 セリアが簡単に紹介すると、パウロは打ち合わせ通り黙ってお辞儀をした。

 彼はファリントン風の名であるポールと名乗ることにやや抵抗していたが、鋭い者ならばパウロがグロスハイムの名であることに気づかれてしまうのだ。


 ジェイクはセリアとパウロを順に見た後、ゆっくり頷いた。


「分かった。でも、こんな夜に来ることないだろう。そのポールとやらも一緒に、せめて一泊していきなよ」

「ありがとう、でもデニスが待っているから」


 セリアは微笑んだ。












 ジェイクが門と正面玄関を開けてくれたので、彼に礼を言ってセリアは自室へ向かう。


「……へぇ、こうなってたんだね」


 パウロは館の内部に興味津々らしく、セリアの横を歩きながらきょろきょろあちこちを見ている。育った環境のためか大人びた物言いをすることの多い彼だが、そうしている姿は年相応の少年だった。


「ちょっとぼろいけど、なんだか居心地良さそう」

「ええ、とてもいい場所よ」


 階段を上がり、二階に差し掛かったところでセリアはふと足を止めた。


 二階は、子どもたちの寝室である。

 皆の無事な姿を見たい――そんな思いが一瞬湧いたが、すぐに振り払う。

 ジェイクに言ったとおり、セリアはここに長居するつもりはない。それに子どもたちやフィリパの顔を見れば、決心が揺らぐかもしれない。


 三階に上がり、廊下を小走りに急ぐ。

 途中、フィリパたちの部屋の前を通った。深夜も過ぎているからか、物音ひとつ聞こえない。


 そして、自分の部屋にたどり着く。

 ドアを開け、真っ直ぐ向かったのは楽器を置いている戸棚。


 戸棚は三段構造になっており、一番上の手に取りやすい高さにあるのは竪琴のケース。中段には籠に入った日用雑貨があり、目のつきにくい下段には布で包まれた聖弦のケースを置いている。


 セリアはそれぞれのケースを開けて中身を確かめた後、竪琴の方には弦が音を立てないよう布を詰め、パウロに竪琴のケースを渡した。


「こっちをお願い。弦がある分聖弦よりも重いけれど、大丈夫?」

「平気平気。……じゃ、戻ろう」

「ええ」


 部屋を出る前、セリアは一度だけ振り返る。

 二年間暮らした部屋だ。


(……今まで、ありがとう)


 セリアは目を細め、背を向けた。

 帰り道は、来た道を戻ればいい。

 相変わらず館は静かで、セリアとパウロのブーツが立てるわずかな音以外何も耳に届いてこない。


(いい場所だった)


 施錠のためにジェイクが待つ玄関へ急ぎつつ、セリアは思う。


 傷ついたセリアを癒してくれた場所。

 優しい人々。

 可愛らしい子どもたち。


「……お姉さん?」


 いつの間にかセリアより先を歩いていたパウロが振り返った。

 思い出に浸ると、足が止まりそうになる。

 セリアは甘い思い出に流されそうになる自分の頬をつねり、階段を下りきった。


「……大丈夫?」

「ええ、ごめんなさい。もう大丈――」

「……夜遅くにお帰りなさい、セリア」


 玄関に向かおうとしたセリアは、呼吸を止めた。

 柔らかな声が背後から掛かってきたのだ。

 パウロもまた立ち止まり、振り返って目を丸くした。


(……どうして)


「……マザー」


 ゆっくりセリアは振り返った。

 ほの暗い廊下の奥から、杖を突いて歩いてくる人がいる。

 マザー――ベアトリクスは柔和に笑い、光を見ることのできない目をセリアたちに向けていた。


「あら、お友だちも連れてきてくれたみたいですね。お名前は?」

「いや、お友だちじゃ……えっと、名前はポールですけど……」


 マザーは目が見えないのだが、彼女はパウロのことも認識している。とはいえ、彼との間柄は「お友だち」ではないので、言葉に詰まった。


 マザーは狼狽えるセリアたちに微笑みかけ、とんとんと杖の先で床を突いた。


「どうやら、すぐに出発しなければならないようですね」

「……すみません、マザー。説明することはできないのです」

「いいのです。これも、あなたやデニスが決めたことなのでしょう?」


 どうしてここでデニスの名が出てくるのだろうか。

 マザーは微笑み、セリアに近づいた。


「わたくしは盲目ですが、だからこそ普通の人には見えないものが見えるのですよ。……初めてデニスが館に来たときに気づいたのです。彼は、あなたを心から必要としています」

「……そんな」


 そんなはずない。


(だって、デニスは最後まで私を頼ってくれなかった――)


 マザーは首を横に振り、手を伸ばした。

 慌ててセリアが身をかがめると、マザーはセリアの頬を探り当て、優しく撫でてくれた。


「デニスにはあなたが必要のようです。だから……お行きなさい。お友だちがいらっしゃるなら、あなたは大丈夫でしょう」

「……マザー、その――」


 言いたいことがある。

 本当ならば言わなくてはならない言葉がある。

 だが、それを口にしてはならない。


(それなら、私がマザーに言えるのは――)


 セリアは無理矢理微笑み、マザーの手に自分の手を重ね、目を閉じた。


「……はい、いってきます」

「ええ、いってらっしゃい。あなたの行くべき場所で、あなたのすべきことをしてきなさい、セリア」


 マザーの言葉が、温かな波となってセリアを包み込んでくれた。

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