第八十一話:偽りの聖餐
聖都の隠れ家である、仕立て屋の屋根裏部屋。
闇滅隊の四人は、命懸けで持ち帰った一冊の写本を前に、行き詰まっていた。
そこに記された古代の魔導言語は、彼らの知識を遥かに超え、まるで、これから起こるであろう厄災を嘲笑うかのように、静かに沈黙している。
「くそっ! これじゃ、何のために潜入したのか分かんねえじゃねえか!」
ファムが、壁を殴りつけ、悔しそうに声を荒らげる。
「落ち着け、ファム」
ハヤテが静かに制した。
「だが、このままでは我々も動けん。この情報を、リリアナ殿の元へ届けねば」
「どうやってだよ。今回の騒ぎで大変なことになってんぞ」
ファムは、諦めたように息を吐いた。
「貴賓館の周りは、枢機卿の息のかかった聖堂騎士と、帝国の犬どもで、アリ一匹這い出る隙間もねえ。俺が下手に近づけば、一発で怪しまれて終わりだ」
その時、部屋の隅の暗がりから、それまで一切気配を消していた男が、すっと立ち上がった。
東方諸侯が送り込んだ諜報員、ジエン。その、あまりにも平凡で、特徴のない顔には、何の感情も浮かんでいない。
「……私なら行ける。その役目、お任せを」
ジエンは、そう言うと、懐から小さな革袋を取り出し、中から、まるで粘土のような、奇妙な質感の塊をいくつか取り出した。
彼は、それを手際よくこね始めると、自らの顔の輪郭を、少しずつ、しかし確実につくり変えていく。
頬骨の位置が上がり、鼻が少し低くなり、目元には深い皺が刻まれていく。
ほんの数分のうちに、そこにいたはずの平凡な男は、どこにもいなくなっていた。
代わりに立っていたのは、聖堂でよく見かける、人の良さそうな、初老の司祭だった。
「……てめえ、すげえな。そうやってたのか」
ファムが、素直な感嘆の声を漏らす。
「これなら、貴賓館の警備も、正面から突破できるかもしれん」
ナシルは、写本の、最も重要な紋様と、解読不能な一節が書かれたページを、寸分違わぬ精度で、別の羊皮紙へと書き写した。
「これを、リリアナ殿に。我々の手では、これ以上は無理だ」
ジエンは、偽の司祭の穏やかな笑みを浮かべたまま、その羊皮紙を受け取ると、静かに頷き、音もなく部屋を出ていった。
その頃、一行に与えられた、壮麗な貴賓館の一室。
リリアナは、落ち着かない様子で、部屋を歩き回っていた。
闇滅隊からの連絡が、途絶えて久しい。
また、いきなり警備状況が厳しくなったこと。
彼らの身に何かあったのではないか。
その不安が、彼女の心を締め付けていた。
ライアスとサー・レオンもまた、無言で武具の手入れをしながら、その表情には隠しきれない緊張の色が浮かんでいた。
その時、部屋の扉が丁重にノックされた。
ライアスが警戒しながら扉を開けると、そこに立っていたのは、人の良さそうな、初老の司祭だった。
「リリアナ様でいらっしゃいますかな? 枢機卿猊下より、聖なる祈りの言葉を記した書を、お渡しするよう、言いつかってまいりました。聖勇者様への、特別な祝福のため、と」
司祭――ジエンは、穏やかな笑みを浮かべ、一冊の、古びた書物をリリアナへと差し出した。
リリアナは、訝しみながらもその書物を受け取った。
司祭は、にこやかに一礼すると、そのまま、静かに立ち去っていった。
リリアナは、その書物を受け取った瞬間、その表紙に、ごく僅かな、魔術的なインクで、闇滅隊の合図が記されていることに気づいた。
そして、中を開き、挟まれていた羊皮紙の写しを見て、息を呑んだ。
そこに記されていた、解読不能な古代文字と、禍々しい紋様。
「ライアス殿! 闇滅隊は、無事です。そして……恐るべき情報を、掴んでくれました」
リリアナは、すぐさまその羊皮紙の解読に取り掛かった。
彼女の額に、冷たい汗が滲む。やがて、その内容を理解した時、彼女の顔から、サッと血の気が引いた。
「……なんですって……? イトゥキ様を、『触媒』に……? そして、聖都の力を暴走させ……」
彼女は、戦慄に声を震わせながら、ライアスとレオンに、枢機卿のおぞましい計画の断片を告げた。
部屋の空気は、一瞬にして凍りついた。
その、絶望的な情報がもたらされた、まさにその時だった。
再び、部屋の扉が、今度は、先ほどよりも重々しく、ノックされた。
扉の外に立っていたのは、枢機卿の紋章を付けた、一人の荘厳な使者だった。
「ロムグール王国使節団の皆様に、我が主、ディミトリ・ヴァレリウス枢機卿猊下より、伝言をお預かりいたしました」
使者は、恭しく、豪奢な羊皮紙の巻物を差し出した。
ライアスが、険しい表情でそれを受け取り、封を解く。
そこに記されていたのは、もはや死への招待状としか思えない、罠への誘いだった。
リリアナが、その招待状を、震える声で読み上げる。
「……『親愛なるロムグールの英雄たちへ。聖都の安寧と、大陸の平和を祈念し、聖勇者イトゥキ様とその勇敢なる仲間たちに、女神の特別な祝福を授けたく、ささやかなる聖餐の席を設けました。明日の、三つの月が天頂に昇る夜、大聖堂の『至聖所』にて、お待ちしております』……」
明日の夜。それは、禁書庫の記述にあった、儀式の決行日時に違いない。
闇滅隊が掴んだ情報と、枢機卿からの招待状。
二つの事実が、今、彼らの目の前で、一つの、おぞましい真実を結んだ。
使者が部屋から出ていく。
「無謀だ!」
ライアスが叫んだ。
「勇者殿を、自ら贄として差し出すに等しい! 直ちに聖都を脱出すべきだ!」
「いいえ」
リリアナの覚悟は、揺るがなかった。
「これは、罠であると同時に、最後の好機です。彼の計画を、その儀式の現場で、直接叩き潰せる、唯一の、そして最後の機会ですわ」
ヴァレンティンは、リリアナが持つ招待状を一瞥し、そして、彼女の机に広げられた、禍々しい紋様が描かれた羊皮紙の写しを見て、その口元に、楽しげな笑みを浮かべた。
「ほう……。聖職者の仮面を被った悪魔と、勇者。その結末を見逃すわけにはいかんな。よかろう。その、命懸けの聖餐会、我が帝国も、喜んでご相伴に与ろう」
ヴァレンティンの、その、全てを見下すかのような言葉が、ライアスの最後の理性を、後押しした。
彼は、天を仰ぎ、深く、そして長い息を吐くと、覚悟を決めた。
「…………分かった。この、狂った晩餐会、受けて立とう」
その日の夜、一行は、何も知らない、当の「触媒」の元を訪れた。
「イトゥキ様。明日、枢機卿様が、わたくしたちのために、それはそれは、盛大な晩餐会を開いてくださるそうですわ」
「ばんさんかい!? マジで! やったー!」
樹は、ベッドの上で飛び跳ねて、大喜びした。
「ってことは、ついに、本物のステーキが食えるのか!? デザートは、プリンの食べ放題とかある!? あの枢機卿、やっぱ話のわかる、いいジジイじゃねーか!女神は嘘つきだったな」
その、あまりにも無邪気な笑顔と、これから始まる、あまりにも過酷な運命。
その、絶望的なまでの落差を前に、仲間たちは、それぞれが、胸の奥で、鋼のような決意を固めるしかなかった。




