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第八十話:月光の鍵

 

 聖都の隠れ家。


 仕立て屋の屋根裏部屋には、沈黙と、そして行き詰まりの空気が重く垂り込めていた。


「……これじゃ、埒が明かねえな」


 沈黙を破ったのは、壁に寄りかかっていたファムだった。彼女は忌々しげに吐き捨てる。


「こいつらが黙秘を続ける以上、直接、あの胡散臭ぇ枢機卿の懐に潜り込んで、証拠を掴むしかねえ。何か、奴が隠してる場所はないのか?」


 その問いに、これまで聖都の情報を集めていた東方諸侯の諜報員、ジエンが、影の中から現れるように静かに口を開いた。


「一つ、気になる場所がある。枢機卿ヴァレリウスが、夜な夜な、人目を忍んで一人で通っているという、大聖堂の最奥…『賢者の書斎』と呼ばれる禁書庫だ」


「禁書庫……か。いかにも、ヤバいもんが隠してありそうな場所だな」


 ファムの目に、鋭い光が宿った。


 シズマが、腕を組んで思案する。


「しかし、禁書庫ともなれば、警備は聖堂内で最も厳重だろう。どうやって潜入する?」


「陽動が必要だな」

 ファムが応じる。


「それも、奴らの意識を完全に、そして長時間引きつけられる、とびっきりのやつが」


 ◇


 その夜。作戦は開始された。


 ライアスとリリアナが、聖堂騎士団の詰所を訪れ、警備の責任者である、厳格な顔つきの騎士団長と対峙していた。


「―――つきましては、今宵、大聖堂の案内と、いくつかの重要な古代文献の閲覧許可を、聖勇者様のために、お願いしたく参上いたしました」


 リリアナが、優雅に、しかし、有無を言わせぬ口調で告げる。


 騎士団長の顔に、苦渋の色が浮かぶ。


「……よろしい。ただし、案内は私が直々に行う。そして、閲覧できる文献も、こちらで選ばせていただく。これで、よろしいかな?」

「ええ、感謝いたしますわ、騎士団長殿」


 ライアスとリリアナが、騎士団の主力を引きつけている、まさにその裏で。


 四つの影が、大聖堂の闇に溶け込むように疾駆していた。


 ファム、ナシル、ハヤテ、そしてシズマ。


 陽動は成功し、大聖堂の警備網には、確かに隙が生まれていた。


 四人はそれを掻い潜り、ついに禁書庫へと続く廊下の最奥へとたどり着いた。


 だが、彼らの目の前にあったのは、扉ではなかった。


 ただ、冷たい、継ぎ目一つない、一枚岩の壁が、行く手を塞いでいるだけだった。


「……おいおい、行き止まりかよ」


 ファムが、壁を丹念に調べながら、訝しげに呟く。

「隠し扉の類でもねえ。完全に、一枚の石だ」


「いや、違う」

 ナシルが制し、その壁に『真実の鏡』の欠片をかざした。


 鏡面には、壁の内部に、まるで血管のように、無数の微弱な魔力のラインが脈打っているのが映し出される。

「……これは、壁じゃない。『生きて』いる門だ。特定の『鍵』にしか反応しない、古代の番兵魔術の一種だ」


「鍵、だと? どこにも、鍵穴なんざねえぞ」


「この門を開ける鍵は、物理的なものじゃない。持ち主の『血』と『魔力』そのものだ。おそらく、枢機卿は、自らの指輪か何かを、この壁に押し当てるだけで、簡単に出入りしているはずだ」


 それは、持ち主にとっては究極の利便性を、そして侵入者にとっては、突破不可能な絶対的な障壁を意味していた。


「……つまり、枢機卿本人を連れてくるか、その血でも手に入れねえ限り、ここから先へは進めねえってことか。詰み、じゃねえか」

 ファムの言葉に、重い沈黙が落ちる。


「……いや」

 静寂を破ったのは、ハヤテだった。


「道はあるかもしれん」


 彼は、自らの霊刃を、静かに抜き放った。


「この門が、特定の魔力パターンに反応するというのなら、俺たちの霊力で、そのパターンを『偽造』する。……限りなく不可能に近いが、やるしかあるまい」


「面白い」シズマも、静かに頷き、霊刃を抜く。


「だが、枢機卿の魔力パターンなど、どうやって知る?」


「それは俺がやる」ナシルが、鏡を構え直した。


「この壁に残る、微かな残響から、奴の魔力の『癖』を読み解く。ファム、あんたは、この壁の、どこかにあるはずの、魔力が集中する一点…偽りの鍵穴を探し出してくれ。霊力を叩き込む、中心点だ」


 作戦は、決まった。


 ナシルは、鏡に全神経を集中させ、壁に残る、枢機卿の魔力の残滓を解析し始める。


 ハヤテとシズマは、その解析結果を元に、互いの霊力を同調させ、枢機卿の魔力パターンを再現しようと試みる。


 それは、途方もない集中力と、精神力を要する作業だった。二人の額に、玉のような汗が浮かぶ。


「……こっちだ!」

 ファムは、壁に耳を当て、その指先で、石の表面をなぞりながら、内部から響く、ごく僅かな魔力の共鳴音を探っていた。


 そして、ついに、一点だけ、他とは明らかに響きの違う場所を突き止めた。


「ハヤテ、シズマ! 今だ!」

 ファムの合図と共に、二人の剣士が、偽造した霊力を、その一点へと、同時に注ぎ込んだ。


 ズズズ……


 壁が、呻くような、低い音を立てて、震え始める。


 そして、何もないはずだった石の壁が、まるで水面のように揺らめき、その中央に、ゆっくりと、人一人が通れるほどの、アーチ状の入り口が、開いていった。


「……開いた」


「急げ! 長くはもたん!」


 四人は、その入り口へと、転がり込むように、足を踏み入れた。


 カビと古い羊皮紙の匂いが、澱んだ空気となって四人を迎える。書庫の内部は、静かな迷宮だった。


 彼らが足を踏み入れた瞬間、背後の書架が、音もなく移動し、入り口を塞いでしまう。


「ちっ、自動防衛型の書庫かよ。面倒くせえ」


「この空気……思考を鈍らせる呪詛が満ちている。長居は危険だ」


 四人は、ナシルの導きで、迷路のように動く書架の間を駆け抜け、書庫の中心部、ひときわ異様な空気を放つ枢機卿の隠し書斎へとたどり着いた。


 円形のその部屋の中央には、黒曜石の台座ペデスタルがあり、その上に一冊だけ、黒い革で装丁された書物が、祭壇のように安置されていた。


「間違いない。あれだ」

 ファムが、その書物に近づこうとした瞬間、ナシルが彼女の腕を掴んだ。


「待て。台座に、圧力感知式の罠が仕掛けられている。本を持ち上げた瞬間、この部屋は完全に封鎖され、我々は袋の鼠だ」


「なら、どうする?」

 ハヤテが問う。


「同じ重さの何かと、すり替えるしかない。ファム、やれるか?」


「へっ、朝飯前だ」


 ファムは、懐から砂袋を取り出し、その重さを、書物と寸分違わぬように調整し始める。


 その、息を呑むような作業を、ハヤテとシズマが、周囲を警戒しながら見守る。


 ファムは、ゆっくりと、震える指で書物を持ち上げ、それと同時に、完璧なタイミングで砂袋を台座へと滑らせた。


 カチリ、という、微かな音。


 罠は、作動しなかった。


「……よし」

 ファムが、安堵の息をつき、手に入れた書物を懐に収めた、まさにその時だった。


 ゴオオオオオッ!


 書斎全体が、凄まじい轟音と共に激しく揺れた。罠は、重量だけではなかったのだ。


 台座から書物が離れたことを感知した、時間差式の警報だった!


「ちくしょう、二重トラップかよ!」

 ファムが悪態をつく。


 壁や床から、無数の石の腕が突き出し、天井からは書架が落下してくる。


 この部屋そのものが、侵入者を圧殺するための、巨大な罠だったのだ。


「出口は塞がれた! 上しかない!」


 ナシルが叫ぶ。


「道を拓け!」

 ハヤテとシズマの霊刃が閃き、落下してくる書架を両断する。


 だが、敵の数は無限だ。


「ファム、ナシル! 先に行け!」

 ハヤテは、崩れ落ちてくる天井を、その屈強な背中で受け止めながら叫んだ。


「てめえら!」


「いいから行け! 俺とシズマで、数秒は稼ぐ!」


 ファムは、一瞬だけ躊躇い、そして、奥歯を噛み締めた。


 彼女は、ナシルの腕を掴むと、ハヤテとシズマが作った、僅かな隙間を駆け抜ける。


 二人が書斎から脱出したのを確認すると、ハヤテとシズマは、霊力を爆発させ、追撃してくる石の腕を吹き飛ばし、自らも崩壊する書斎から決死の脱出を果たした。


 隠れ家に戻った闇滅隊の四人は、傷つきながらも、確かな戦果を手にしていた。


 だが、ファムが持ち帰ったその黒い書物を開いた時、彼らの顔に、新たな絶望の色が浮かぶ。


「……くそっ。なんだ、この文字は……」

 そこに記されていたのは、およそ現代では使われていない、あまりにも複雑で、禍々しい、古代の魔導言語だった。


「……読めない」

 ナシルが、悔しそうに呟く。


「これほどの古代言語を読み解けるのは、大陸広しといえど、ごく一部の専門家だけだ。少なくとも、俺たちの知識じゃ……」


 彼らは、命懸けで、敵の計画の核心に触れた。


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