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第七十二話:勇者の最初の選択

 

 聖勇者の、偽りの巡礼団が、王都カドアテメを出発してから、数日が過ぎた。


 ロムグール王国の領内を進む間、その旅路は、ある意味で、平穏そのものだった。


 フィンが整備させた街道は、驚くほど快適で、道沿いの村々では、民衆が、その行列を一目見ようと、仕事の手を休めて集まり、一行に、惜しみない歓声と、祈りの言葉を捧げた。


「聖勇者イトゥキ様、万歳!」


「我らが大陸に、神のご加護を!」


 沿道に広がるのは、ロザリアが普及させた「太陽の実」が、豊かに実る畑。


 民衆の顔には、飢えの影はなく、未来への、確かな希望が輝いていた。


 その、あまりにも純粋な信仰の光景は、この旅が、いかに、大陸中の人々の希望を背負っているかを、一行に、改めて、実感させるものだった。


「素晴らしい……! なんという、敬虔な祈りでしょう!」

 シルヴァラントの騎士、サー・レオンは、民衆の歓声に、馬上から、真摯な態度で応えながら、その光景に、深く感動していた。


 彼の目には、この巡礼は、真の英雄が、神への感謝を捧げる、神聖な旅路そのものに映っていた。


 その様子を、帝国の将軍ヴァレンティンは、冷たい侮蔑の目で見下ろしていた。


(愚かな民衆め。偶像を祭り上げ、ただ、熱に浮かされているだけよ。だが、それも良い。この馬鹿げた茶番が、長引けば長引くほど、あの若造王の、そして、この寄せ集めの連合の、綻びは、大きくなるはずだ)


 彼は、忠実な護衛騎士の仮面を、完璧に被り続けていた。


 そして、この巡礼の「主役」である田中樹は、と言えば。


 王都での、あの沈んだ様子はどこへやら、自分に向けられる熱狂的な歓声に、すっかり気を良くしていた。


 彼は、馬上から、スーパースター気取りで、大げさに手を振り、時折、ウインクまでしてみせている。


「はっはっは! よかろう、我が民よ! この、英雄イトゥキ様の、神々しい姿を、その目に、しかと焼き付けるがよい!」


 レオの死を乗り越えたわけではない。


 ただ、彼の、単純な自己顕示欲が、一時的に、その悲しみを、心の奥底へと押しやっているだけのことだった。


 やがて、一行が、どの国の支配も完全には及ばない、広大な中央平原に足を踏み入れた時、その空気は、一変した。


 豊かな農村風景は、荒涼とした、岩がちな荒野へと変わり、街道を彩っていた民衆の姿も、消え失せた。


 代わりに、一行を包むのは、乾いた風の音と、いつ、どこから、無法者たちが現れてもおかしくない、という、油断のならない緊張感だけだった。


 一行が、険しい岩場が続く、街道の難所を、慎重に進んでいた、その時だった。


 事件は、起こった。


 巡礼団の、その壮麗な行列を、遠くの丘の上から、物珍しげに見ていた、近くの遊牧民の子供が、足を滑らせ、数メートル下の、切り立った崖の中腹にある、僅かな足場に滑落してしまったのだ。


 幸い、大きな怪我はないようだが、自力では登ることも、降りることもできない。


 怯えきった子供の、甲高い泣き声が、谷間に響き渡った。


「大変だ!」

 すぐに、ライアスとサー・レオンが、馬を降り、救助を試みる。


 だが、彼らが、その重い鎧を着たまま、脆い崖を降りようとすれば、間違いなく、足場ごと、子供もろとも、崩落してしまう。


「リリアナ殿、魔法で!」


「無理です! この岩場は風の流れが複雑すぎて、かえって危険ですわ!」

 リリアナも、悔しそうに唇を噛む。


「……ちっ」

 幌馬車の中から、その様子を見ていたファムが、舌打ちをした。


 ライアスが、助けを求めるように、彼女へと視線を送る。


 しかし、ファムは、静かに首を横に振った。


「馬鹿言え。俺たちの顔と、この『ただの従者』には不相応な身体能力を、どこで、ギルドの蜘蛛スパイが見てるか分かったもんじゃねえ。この作戦は、まだ始まったばかりだ。たった一人の子供を助けるために、俺たちの正体をここで晒して、この作戦の全てを、連合の未来を、危険に晒すことなんて、できるわけねえだろ」

 その、あまりにも冷徹な、しかし、プロフェッショナルとしては、あまりにも正しい判断。


 ライアスも、レオンも、反論の言葉を見つけられず、ただ、歯がゆそうに、泣き叫ぶ子供を見つめることしかできなかった。


 その、非情なやり取りを、田中樹は、馬の上から、黙って見ていた。


(……なんだよ、それ)


 彼の頭の中で、何かが、プツリと、切れた。


 民衆の歓声に浮かれていた、彼の心。


 その表面を覆っていた薄い氷が、目の前の、残酷な現実によって、粉々に砕け散った。


(こいつら…助けられるのに、助けねえのかよ!)


(作戦がなんだ、未来がなんだ! 目の前で、子供が、死にそうなんだぞ!)


 レオの、安らかな死に顔が、脳裏に蘇る。


 あの時の、何もできなかった、無力な自分の姿が、目の前の光景と、重なった。


「……どけよ」

 樹は、ライアスたちを、無造作に押しのけると、自ら、崖の下を覗き込んだ。


「イトゥキ様、ご無茶です!」

 リリアナが、悲鳴を上げる。


 だが、樹は、聞かなかった。


 彼は、巡礼団の、豪奢な上着を脱ぎ捨てると、ためらうことなく、崖へと、その手と足をかけた。


「てめえらが、やらねえなら、俺がやる! それだけだ!」


 それは、英雄の神業などではない。


 ただの、必死な、泥臭い、少年の姿だった。


 彼は、これまでの人生で、一度も発揮したことのない、驚くべき集中力で、崖の、僅かな突起に、手と、足をかけ、ゆっくりと、しかし、確実に、子供の元へと、降りていった。


 途中、何度も、足を滑らせ、指先から血を滲ませながらも、彼は、決して、下を見なかった。


 やがて、彼は、怯える子供の前に、たどり着いた。


 何を言っていいか分からず、彼は、懐から、食べかけの干し肉を、無言で、差し出した。


 子供は、その、あまりにも場違いな行動に、一瞬、泣き止み、きょとんとする。


「おい!ロープ!」


 樹は、子供と自分にロープを巻き付け、しっかりと抱きかかえると、来た道程を、同じように、必死の形相で、登り返してきた。


 無事、子供を両親の元へ返した後も、樹は、何も言わなかった。


「俺、すげえだろ」とも、言わない。


 ただ、泥だらけになった自分の手を見つめ、そして、ありがとう、と泣きながら頭を下げる家族の姿を、どこか、他人事のように、ぼんやりと、眺めているだけだった。


 だが、一行の、誰もが、理解していた。


 彼は、奇跡を起こしたわけではない。


 ただ、自らの意志で、自らの危険を顧みず、名も知ぬ、たった一人の命を、救ったのだ。


 サー・レオンは、その姿に、騎士道とは何かを、改めて、教えられた気がした。


 ファムは、その、あまりにも非合理で、しかし、あまりにも真っ直ぐな行動に、忌々しげに、しかし、どこか、眩しそうに、舌打ちをした。


 そして、リリアナは、その、泥だらけの少年の背中に、確かに、本物の「英雄」の、その、小さな、小さな、芽生えを、見ていた。


 それは、彼が、本当の意味で、「勇者」として、その第一歩を、踏み出した瞬間だった。

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