幕間:少年、英雄を識る
その日、ロムグール王国の「聖勇者」田中樹は、悪夢を見て、飛び起きた。
豪華絢爛な、彼のために用意された天蓋付きのベッド。柔らかな羽毛の枕。
だが、彼の額には、びっしりと、冷たい汗が浮かんでいた。
夢に、出てきたのだ。
レオが。
あの、自分を「勇者様」と信じて、疑わなかった、若い兵士が。
彼は、何も言わずに、ただ、昔と同じ、キラキラした目で、自分を見つめていた。
その、あまりにも純粋な眼差しが、今の樹には、何よりも、恐ろしかった。
「……くそっ」
樹は、ベッドから転がり落ちるようにして、執務机に置かれていた水差しに、がぶ飲みで食らいついた。
だが、喉の渇きは、一向に癒えない。
彼は、自らの手を見つめた。
ヴァンドールの倉庫で、仲間たちを守ったあの黄金の光。
あの力は、一体、何だったのか。
自分は、一体、何なのだ。
英雄? 聖勇者?
(……冗談じゃねえ)
自分は、ただの、何もできない、高校生だ。
レオ一人、救えなかった。
ただの、役立たずだ。
その事実が、ずしりと、彼の心に、重くのしかかっていた。
夜が、まだ明けきらぬ、薄暗い早朝。
王城の練兵場に、一人、木剣を振るう、少年の姿があった。
「……む」
早朝の鍛錬を日課としているバルカスは、その意外な先客に、わずかに眉をひそめた。
その剣筋は、相変わらず、素人そのものだった。
腰は引け、腕の力だけで、滅茶苦茶に木剣を振り回している。
だが、そこには、以前には、決して見られなかったものが、あった。
必死さ、だった。
彼は、汗と、涙と、鼻水で、顔をぐちゃぐちゃにしながら、それでも、ただ、ひたすらに、木剣を振り続けていた。
「……何を、しておる」
バルカスが、静かに声をかける。
樹は、その声に、びくりと肩を震わせると、顔を上げた。
「……う、うるせえ。別に……。ただ…寝れなかっただけだ」
「ふん」
バルカスは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、樹が、再び、滅茶苦茶な素振りを始めた時、その足元に、自らの木剣の切っ先で、トン、と、一本の線を引いた。
「……その線から、足が、一歩でも、後ろに下がるでない。腰を、落とさんか、この、大馬鹿者が」
それは、いつもの怒声とは違う、不器用な、しかし、確かな、「指導」だった。
樹は、何も言わずに、ただ、唇を噛みしめ、その線から足が動かないよう、必死に、踏ん張った。
その日の昼下がり。
樹は、城の長い廊下を、あてもなく、歩いていた。
豪華な食事も、もはや、味がしない。
民衆の歓声も、今は、ただ、耳障りなだけだった。
その時、彼の目の前で、一人の若い侍女が、山のような洗濯物を抱え、よろめきながら、階段を上ろうとしていた。
その足元が、ふらつき、彼女は、洗濯物ごと、階段から落ちそうになる。
以前の樹であれば、見て見ぬふりをしただろう。
あるいは、「邪魔だ」と、舌打ちをしていたかもしれない。
だが、今の彼は、違った。
彼は、気づいた時には、駆け出していた。
「うおっ、と! 危ねえだろ!」
彼は、倒れそうになった侍女の身体を、とっさに支えた。
そして、彼女が抱えていた洗濯物の山を、半分ほど、乱暴にひったくった。
「え……あ……ゆ、勇者様!? も、申し訳ございません!」
侍女は、顔を真っ青にして、その場で、何度も頭を下げる。
「……うっせーな。重そうだっただけだ。別に、意味はねえよ」
樹は、顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いて言い放った。
そして、抱えた洗濯物を、侍女が向かおうとしていた洗い場へと、ずかずかと、無言で、運んでいった。
後に残された侍女は、何が起きたか分からず、ただ、呆然と、その背中を見送るだけだった。
「……ふふっ」
その一部始終を、アレクシオスとリリアナは、二階の渡り廊下から、静かに見つめていた。
「……人が、変わりましたわね、イトゥキ様」
リリアナが、優しげに、微笑む。
「ああ」アレクシオスもまた、静かに頷いた。
「彼は、自分が『勇者』ではないと、ようやく、気づき始めたのかもしれん」
アレクシオスは、思う。
田中樹は、英雄ではない。聖人でもない。
ただの、少しだけ、不器用で、そして、どうしようもなく、自己中心的な、十七歳の少年だ。
だが、そんな彼が、初めて、他人のために、何かをしようと、もがいている。
その姿は、あまりにも拙く、そして、滑稽で、しかし―――
(……皮肉なことにな。それこそが、彼が、本当の意味で、英雄になるための、最初の、そして、最も重要な一歩なのだ)
アレクシオスは、遠く、聖都サンクトゥム・ルミナがあるであろう方角を見つめた。
次なる旅は、これまで以上に、過酷なものになるだろう。
だが、この、変わり始めた「勇者」と、そして、彼を支える、かけがえのない仲間たちとなら、きっと―――。
彼の胸に、新たな、そして、より確かな、希望の光が灯っていた。




