第六十六話:蜘蛛の巣での三日間
無法の港湾都市、ヴァンドール。
その喧騒と、退廃的なまでの活気は、王都カドアテメとは全く異質のものだった。
アレクシオスの元で秩序と再生が進むロムグールとは対極の、剥き出しの欲望が渦巻く街。
連合合同部隊の面々は、その巨大な蜘蛛の巣に、一滴の雫のように、それぞれのやり方で溶け込んでいった。
作戦開始一日目。
彼らの隠れ家は、ボルグが手配した、仕立て屋の二階にある、埃っぽい屋根裏部屋だった。
「―――これが、『鴉』から得た情報と、この街の裏社会の地図だ」
潜入任務の現場指揮官であるファムが、テーブルに広げた羊皮紙を指し示し、作戦会議を始めた。
その場にいるのは、出自も、立場も、そして忠誠を誓う相手すらもバラバラな、即席のチーム。
部屋には、緊張と、互いを探り合うような視線が交錯していた。
「目標は、三日後の満月の夜。オリオン商会の第十三倉庫に運び込まれる『特別な積荷』の正体を突き止め、可能であれば、これを奪取する。いいな?」
ファムは、チームを二つに分けた。
自らが率いる、諜報と潜入を主とする偵察チーム。
そして、ライアスが率いる、リリアナと勇者を護衛し、隠れ家で待機する支援チームだ。
作戦開始二日目。
街は、静かな緊張感に包まれていた。
東方諸侯が送り込んだ諜報員、ジエンは、その真価を発揮した。
彼は、朝には港で働く日雇い労働者に、昼には羽振りのいい商人に、そして、夜には酒場の酔っぱらいへと、その顔と、雰囲気と、そして訛りまでをも完璧に変え、街の噂を収集していく。
一方、ファムとナシルは、第十三倉庫周辺の、直接的な偵察を行っていた。
二人の連携は、一年半の暗闘を経て、もはや言葉を必要としない域に達していた。
その時、ファムは、自分たちとは別の影が、倉庫の反対側で、同じように偵察活動を行っているのに気づいた。
帝国の諜報員、ヘルガだった。
彼女は、チームでの情報共有を無視し、独自の判断で動いているのだ。
ファムは、音もなくヘルガの背後に回り込み、その首筋に、短剣の切っ先を突きつけた。
「―――何してんだ、帝国の犬。抜け駆けのつもりか?」
「……自分の目で確かめているだけよ。貴女たちの情報が、信用できるとは限らないから」
ヘルガは、冷たい声で、そう言い放った。
二人の間には、見えない火花が散っていた。
その頃、隠れ家では、静かだが、同様に張り詰めた空気が流れていた。
ライアスとサー・レオンは、武具の手入れをしながら、万が一の事態に備えている。
リリアナは、テーブルに広げた、ヴァンドールの詳細な地図の上に、特殊な水晶をかざし、街全体を流れる魔力の流れを、慎重に読み取っていた。
田中樹は、そんな仲間たちの姿を、部屋の隅から、ただ、黙って見ていた。
以前の彼なら、退屈だと騒ぎ立て、腹が減ったと喚き散らしていただろう。
だが、今の彼は少し違った。
シルヴァントでの一件。
レオの死。
そして、アレクシオスの告白。
それらは、彼の価値観を、根底から揺さぶっていた。
彼は、初めて、自覚したのだ。
自分以外の人間が、皆、それぞれの知識と、技術と、そして覚悟を持って、「仕事」をしているという、当たり前の事実に。
そして、自分だけが、その輪の中で、何も持たない、役立たずなのだ、と。
樹は、おもむろに立ち上がると、リリアナの元へと、おずおずと歩み寄った。
「……おい、リリアナ」
その、静かな声に、リリアナは、驚いて顔を上げた。
「イトゥキ様? どうかされましたか?」
「それは……何やってんだ?」
樹は、テーブルの上の、複雑な光の線を放つ地図を指差した。
「え? あ、これは、ヴァンドールの魔力の流れを可視化した地図ですわ。敵の拠点である倉庫の周囲に、どのような魔術的な警備が敷かれているか、その弱点を探しているのです」
「……ふーん」
樹は、地図に描かれた、彼には意味不明な紋様と、それを真剣な眼差しで読み解くリリアナの横顔を、しばらく見比べていた。
そして、ぽつりと、呟いた。
「……俺には、さっぱり、わかんねえな……。あんたは、すげえんだな。王様も、フィンも、ロザリアも……みんな、自分の仕事、ちゃんとやってる」
その言葉には、いつものような、からかう響きはなかった。
ただ、純粋な、そして、少しだけ羨むような響きがあった。
リリアナは、彼の、あまりの変化に、言葉を失った。
樹は、そんな彼女から視線を逸らし、自分の手のひらを見つめながら言った。
「……なあ。俺は? 俺は、ここにいて、何すりゃいいんだ?」
それは、彼が、この世界に来て初めて口にした、「自分の役割」についての、問いだった。
その問いに、最初に答えたのは、彼の背後で剣の手入れをしていた、サー・レオンだった。
「何を言われるのですか、勇者殿!」
彼は、目を輝かせて立ち上がった。
「貴殿が、ただ、そこにいてくださるだけで、我々の士気は上がり、そして、貴殿のそのお身体から発せられる『聖なる気』が、我々を、見えざる呪詛から守ってくださっているのです! それこそが、貴殿にしかできぬ、最も重要なお役目!」
「……聖なる、気?」
樹は、きょとんとして、自分の身体の匂いでも嗅ぐかのように、くんくんと腕を嗅いだ。
リリアナは、そんな二人のやり取りに、くすりと笑みを漏らした。
「ええ、そうですわ、イトゥキ様。貴方様は、私たちが、安心して、それぞれの仕事に集中するための、『希望』であり、そして『盾』なのです。ですから、どうか、自信を持って、堂々と、そこにいてくださいな」
その、二人の、あまりにも真っ直ぐで、純粋な信頼の言葉に、樹は、どう反応していいか分からず、ただ、顔を真っ赤にして、再び、部屋の隅へと戻っていくしかなかった。
作戦開始三日目、満月の夜。
偵察を終えた闇滅隊も合流し、隠れ家に、全員が集結した。
ファムが、この三日間で得た、全ての情報を元に、最後の作戦会議を始める。
その、張り詰めた空気の中で、田中樹は、黙って、仲間たちの顔を見つめていた。
まだ、怖い。
まだ、何も分からない。
だが、ほんの少しだけ、彼は、自分が、この、とんでもないチームの、一員であることを、受け入れ始めているような気がしていた。
窓の外、ヴァンドールの港に、一隻の、黒い帆を掲げた船が、ゆっくりと、その姿を現した。




