第六十一話:聖なる器、嘆きの浄化
振り下ろされる、死。
森の主の、最大級の怒りを込めた巨大な茨の腕が、ロザリアと田中樹の頭上へと、無慈悲に迫る。
バルカスの援護も、ヤシマの刃も、もう間に合わない。
ロザリアは、迫りくる絶望を前に、咄嗟に、自らの身体を盾にするように、樹の前に立ちはだかった。
「勇者様を、死なせはしません!」
彼女の、悲壮な覚悟。
「……っ!」
その、小さな背中を見た瞬間、田中樹の頭の中で、何かが、焼き切れた。
怖い。
死にたくない。
だが、それ以上に、もう、見たくなかった。
自分のせいで、誰かが傷つくのを。自分のために、誰かが死んでいくのを。
レオの、安らかな死に顔が、脳裏をよぎる。
(―――もう、やだ)
それは、思考ではなかった。魂からの、本能的な拒絶だった。
「どけぇっ!!」
樹は、生まれて初めて、他人のために、その身体を動かした。
彼は、ロザリアを、その小柄な身体ごと、祭壇の方へと、力任せに突き飛ばした。
そして、自らが、その場所に、身代わりとなって、仁王立ちになる。
振り下ろされる、巨大な茨の腕。その圧倒的な質量を、彼は、固く、固く、目を閉じて、受け止めようとした。
(……これで、チャラにしてくれよな、レオ)
それが、彼の、最後の思考だった。
ゴオオオオオオオオオンッ!!
凄まじい衝撃音。
だが、身体が引き裂かれるはずの痛みは、いつまで経っても、やってこなかった。
樹は、恐る恐る、目を開いた。
そして、信じられない光景を見た。
彼の身体を、まばゆい、黄金色の、半球状の光のドームが、完全に覆っていた。
森の主の、あの巨大な茨の腕は、その光のドームに阻まれ、先端が、まるで聖なる炎に焼かれたかのように、ジュウジュウと音を立てて、黒い煙を上げている。
「な……なんだよ、これ……?」
彼の意思とは、全く無関係に、その身に宿る【レジェンダリースキル】が、所有者の、初めての『自己犠牲』の精神に呼応し、その真の力の一端を、顕現させた。
スキル【誰かの為の力】、覚醒。
スキル【守護の聖域】、発動。
「……今、ですわ……!」
樹に突き飛ばされ、祭壇の前へと転がり込んでいたロザリアは、その黄金の光を見上げ、涙ながらに悟った。
樹が、その命を賭して、自分に、この世界でただ一つの、最後の好機を、作ってくれたのだと。
彼女は、迷わなかった。
よろめきながら立ち上がると、目の前で、禍々しい鼓動を続ける、巨大な呪物へと、その両手を、そっと、置いた。
彼女は、呪いを、力でねじ伏せようとはしなかった。
ただ、語りかけた。祈った。
(もう、いいんですよ)
彼女自身の生命力を、その清らかな魂を、呪物を通じて、その奥で嘆き苦しんでいる、森の主の魂へと、直接、注ぎ込んでいく。
(もう、苦しまないで。もう、憎まないで。貴方が、どれだけこの森を愛していたか、私には、分かりますから。……だから、どうか、安らかに、お眠りください、森の主さん……)
ロザリアの、慈愛に満ちた想いが、温かい光となって、呪物を内側から包み込んでいく。
「……ア……アア……」
森の主の、苦悶の咆哮が、次第に、穏やかな、嘆きの声へと変わっていく。
脈打っていた呪物が、ピシ、と音を立てて、ひび割れた。
それは、破壊の音ではなかった。
呪いという名の氷の中に閉じ込められていた魂が、ようやく解放される、産声のような音だった。
呪物から、黒い邪気が、霧のように噴き出し、樹の作り出した黄金の聖域に触れて、ことごとく浄化されていく。
やがて、呪物は、その禍々しい光を完全に失い、ただの、古びた石の彫像へと戻った。
それに呼応するように、本殿で暴れ狂っていた、森の主の巨体もまた、その動きを止めた。
茨の腕は、枯れ枝となって崩れ落ち、身体を構成していた岩や根は、力なく床へと散らばっていく。
最後に残った、紫色の涙を流す「眼」が、ロザリアと、そして、その後ろで、力なくへたり込んでいる樹の姿を、静かに見つめた。
その瞳から、憎悪と苦しみの色は、消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、深い、深い、感謝の色だった。
一つの、黄金色の、清らかな樹液の涙が、その「眼」から、ぽつり、とこぼれ落ちる。
それを最後に、森の主は、完全に、その活動を停止し、元の、静かな森の一部へと、還っていった。
「……終わった……」
黄金の光のドームが、ふっと消える。
同時に、樹もまた、糸が切れたように、その場に倒れ込んだ。完全に、意識を失っている。
「ロザリア殿! 勇者殿!」
バルカスたちが、慌てて駆け寄ってくる。
「……大丈夫、です。ただ、少し、お疲れになっただけ……」
ロザリアは、自らも、立っているのがやっとの状態だったが、優しい笑みを浮かべ、気を失った樹の頭を、そっと、自らの膝の上に乗せた。
「……彼が、救ってくれたんです。勇者様が、本当に……私たち、全員を」
その言葉に、バルカスも、ファムも、そこにいた誰もが、言葉を失い、ただ、眠る少年の、どこにでもいるような、平凡な寝顔を、見つめていた。
彼は、まだ、英雄ではないのかもしれない。
だが、その日、その瞬間、彼は、確かに、一人の少女を、そして、一つの大地を救うため、自らの命を投げ出した、本物の「勇者」だったのだ。
呪いが晴れた社に、朝日が、優しく差し込み始めていた。




