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第五十七話:黒き大地の嘆き

 

 ロムグール王国の西門から、シルヴァラント公国へ向かう調査団の旅は、静かに始まった。


 街道沿いの村々では、ロザリアがもたらした「太陽の実」が豊かに実り、子供たちの笑い声が響いている。


 その、あまりにも平和な光景が、これから向かう先の惨状を、より一層際立たせるかのようだった。


 一行の中心にいるはずの勇者は、馬上で、ただ黙って揺られていた。


 時折、彼に憧れの視線を向ける若い護衛騎士が「聖勇者様!」と声をかけても、「……ん」と、気のない返事をするだけ。


 あれほど求めていた賞賛も、今の彼には、どこか遠い世界の出来事のようにしか感じられないようだった。


 レオの死。アレクシオスの告白。


 あの二つの現実は、彼の、自分だけが主人公であった世界に、初めて「他者」と「死」という、理解不能なバグを発生させていた。


 彼は、その処理方法が分からず、ただ、フリーズしているに近かった。


 シルヴァラント公国の国境を越えて数日後。


 誰もが異変に気づいた。


 それまで、豊かな緑と、澄んだ空気に満ちていた世界が、まるで境界線を引かれたかのように、一変したのだ。


 空は、鉛色の雲に覆われ、空気が、よどんで重い。


 そして、何よりも、大地が死んでいた。


 見渡す限りの小麦畑は、生命力に満ちた黄金色ではなく、まるで腐敗したかのように、黒く、ねじくれて枯れ果てている。


 風が吹くたびに、その枯れた穂が、カサカサと、骨が擦れ合うような、不気味な音を立てた。


「……ひどい……」


 馬上で、ロザリアが、その顔を青ざめさせて呟いた。


 彼女は、大地と生命の力を、人一倍敏感に感じ取ることができる。


 その彼女にとって、この光景は、愛する者の亡骸を、無数に見せつけられているにも等しい、耐え難い苦痛だった。


「大地が……泣いています……。苦しいって、助けてって、叫んでいます……!」


 彼女の目から、涙がこぼれ落ちる。


 一行は、最初に現れた村へと、足を踏み入れた。


 だが、そこに、人の営みの音はなかった。


 家々は静まり返り、道端には、虚ろな目で空を見上げる老人や、力なく壁に寄りかかって咳き込む子供たちの姿が、点在しているだけだった。


 まるで、村全体から、魂が抜き取られてしまったかのようだった。


 その、生気のない光景を前に、田中樹は、思わず顔をそむけた。


「……ちっ、なんなんだよ、この村……。見てるだけで、気分が悪くなる……」

 その声には、いつものような自己中心的な苛立ちではなく、目の前の光景から目を逸らしたいという、戸惑いが滲んでいた。


 レオが死んだ、あの戦場の光景が、脳裏に蘇る。


 ロザリアは、馬から飛び降りると、力なく座り込んでいる老婆の元へ駆け寄り、その手を取った。


「おばあさん、しっかりして!」

 彼女が、持てる知識と魔法で必死に治療を試みるが、老婆の魂は、まるで砂時計の砂のように、静かにこぼれ落ちていくばかりだった。


「私の癒やしの力が……届かない……。病気じゃない。魂が、直接、削られているんです…!」

 ロザリアの顔に、初めて、無力感と絶望の色が浮かんだ。


 その時だった。


 母親の腕の中から、小さな子供が、ふらりと抜け出し、おぼつかない足取りで、一行の方へと歩み寄ってきた。


 その目は虚ろだったが、まるで、何か、かすかな光に引き寄せられるかのように、まっすぐに、樹の方へと向かってきた。


 そして、樹の足元で、力尽きたように、どさりと倒れ込んだ。


「うわっ!? な、なんだよ……! こっち来んな!」

 樹は、反射的に飛びのいた。病への恐怖。


 そして、目の前で人が倒れることへの、新たな恐怖。


 彼の頭の中は、パニックで真っ白になった。


 彼は、倒れた子供と、助けを求めるように自分を見る母親の顔を、交互に見比べた。


 レオの、安らかな死に顔が、脳裏をよぎる。


「……なんだよ、これ……どうすりゃいいんだよ……」

 彼は、震える手で、何かをしようとして、しかし、何もできずに、ただ、その場に立ち尽くしていた。


 彼が、混乱の中でさらに一歩後ずさった拍子に、腰の水筒が地面に落ち、中から、清らかな水がこぼれ出した。


 その水が、樹の足元の、黒く呪われた大地に染み込んだ、その瞬間。


 ジュッ、と、まるで熱した鉄に水をかけたかのような、微かな音が響いた。


 そして、水が染みた、ほんの僅かな円形の土壌から、一筋の、黒い靄のようなものが、ふわりと立ち上り、そして、パッと消え失せたのだ。


 その後に残された土は、ほんのわずかだが、周囲の絶望的な黒色とは違う、生命の色を取り戻しているように見えた。


 そして、樹の足元に倒れていた子供が、それまで苦しげだった呼吸を、ふっと、穏やかな寝息に変えたのだ。


「「…………え?」」


 その、あまりにも不可解な現象を、ロザリアとバルカスは、確かに見逃さなかった。


「今……」

 ロザリアが、信じられないといった表情で呟く。


「勇者様の、周りだけ……ほんの、ほんの少しだけですけど、呪いの気が、和らぎました……? まさか……」

 彼女の、生命力を感知する能力が、その場の、微細だが、しかし確かな「浄化」の現象を捉えていた。


「……あ……」

 樹自身は、自分が何を引き起こしたのか全く理解できず、ただ、穏やかな寝息を立て始めた子供の顔と、自分の手を、呆然と見比べているだけだった。


「……そういう、ことでしたか。陛下は、これを……」

 バルカスは、アレクシオスの、あの理解不能な命令の真意を、今、ようやく理解した。


 ロザリアは、樹を見つめる目を、ゆっくりと変えていった。


 それは、もはや、ただの少年を見る目ではない。


 畏怖と、驚嘆と、そして、未知の聖遺物を見るかのような、神聖な眼差しだった。


 この男は、戦士ではない。癒し手でもない。


 ただ、そこにいるだけで、悪を祓う、『聖勇者』そのものなのだ、と。


 その時だった。


 一羽の伝令の鳥が、空から舞い降り、バルカスの腕に止まった。


 その足には、闇滅隊からの、短い報告書が結びつけられていた。


 バルカスは、その羊皮紙を広げ、目を通すと、険しい顔で呟いた。


「……見つけたか。呪いの元凶を」

 彼は、報告書を握りしめると、ロザリアを見た。


 そして、次に、まだ呆然と立ち尽くしている、勇者の背中を見た。


「……とんでもない戦いになりそうだわい」

 老獅子は、天を仰ぎ、深く、ふかーくため息をついた。


 この作戦の成否は、もはや、自分たちの武力や、ロザリアの知恵だけでは決まらない。


 この、世界で最も扱いにくい「聖勇者」を、いかにして、呪いの中心まで「運ぶ」ことができるか。


 その、一点にかかっていた。




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