幕間 :リリアナの憂鬱、そして、喜び
深夜。
王城の時を告げる鐘が、重々しく二度、鳴り響いた。
国王執務室の扉を、リリアナ・フォン・ヴァインベルグは、音もなく開ける。彼女の手には、安眠効果のある薬草を淹れた、温かい紅茶の盆があった。
「陛下、少し休憩なさっては……」
言いかけた彼女の言葉は、途中で途切れた。
部屋の主であるアレクシオスは、山と積まれた羊皮紙の報告書に突っ伏すようにして、眠りに落ちていた。
揺らめく蝋燭の光が、その疲れ果てた横顔を映し出す。
いつもは王としての威厳に満ちたその顔も、今はただ、年若い青年の、無防備な寝顔に過ぎない。
その頬は心なしか痩け、目の下には、彼女が知る限り、この数週間ずっと消えることのない深い隈が刻まれている。
(……また、このまま朝まで)
リリアナは、静かに盆をテーブルの隅に置くと、アレクシオスの肩に、そっと毛布をかけた。
彼の傍らには、フィンが特製したという、強烈な覚醒効果を持つ魔法薬の小瓶が、空になって転がっている。
彼女の胸が、きゅう、と締め付けられるような痛みを覚えた。
王国の再建、対魔王連合の設立、そして、その裏で絶えず続く、帝国の牽制や旧貴族派閥の抵抗。
彼が背負うものは、あまりにも多すぎた。あまりにも、重すぎた。
王として、彼は完璧であろうと努めている。
弱音一つ吐かず、常に最適解を求め、前へ、前へと進み続ける。
だが、その強靭な精神を宿す肉体は、紛れもなく、ただの一人の人間のものなのだ。
(このままでは、あの方は、本当に倒れてしまわれる……)
リリアナの脳裏に、かつて読んだ歴史書の記述が蘇る。
大陸の歴史上、あまりにも大きな重責を背負い、その精神をすり減らした結果、若くして病に倒れたり、心を病んでしまったという、幾人もの名君や賢者たちの逸話。
アレクシオスが燃やす、国を思う情熱の炎は、あまりにも激しく、彼自身の心身を、内側から焼き尽くそうとしていた。
この光を、失うわけにはいかない。民のためにも。そして、何より、わたくし自身のためにも。
彼女は、アレクシオスの寝顔を見つめながら、静かに、しかし、鋼のような決意を、その胸に固めた。
♢
翌朝。
アレクシオスが、昨夜と同じ格好のまま、執務室で報告書に目を通し始めた時、リリアナは、彼の前に、毅然として立ちはだかった。
「おはようございます、陛下」
「ああ、リリアナ。すまない、少し眠ってしまったようだ。ミレイユ平原からの収穫報告はどこに……」
「陛下。本日は、全ての執務をお休みいただきます」
リリアナの、静かだが、有無を言わせぬ声に、アレクシオスは、驚いて顔を上げた。
「何を言っているんだ、リリアナ。今日は、商業同盟との交渉の最終調整と、騎士団の新しい武具の予算案の査定が……。今までもこのくらい一人でこなしてきたんだ。問題ないよ……」
「ダメです!それらは全て、フィン殿や宰相閣下と連携し、わたくしが代行いたします」
リリアナは、そう言うと、どこからか取り出した、二着の、何の変哲もない、しかし清潔な平民の服を、アレクシオスの机に、そっと置いた。
「これは、王の筆頭補佐官としての『命令』です。陛下が倒れられては、元も子もございません。今日一日は、アレクシオス・フォン・ロムグールであることをお忘れください」
その、普段からは考えられないほど強気な、しかし、心の底からの気遣いに満ちた瞳に、アレクシオスは、反論の言葉を失った。
彼は、深いため息をつくと、観念したように、小さく頷いた。
身分を隠し、二人で歩く王都は、新鮮な驚きに満ちていた。
アレクシオスは、どこか居心地が悪そうに、しかし、興味深げに周囲を見回している。活気ある市場、舗装された道、子供たちの笑い声、そして、自分たちの改革がもたらした確かな変化。
それは、彼にとって、どんな報告書よりも心に染みる光景だった。
「……すごいな」屋台の素朴な串焼きを、心の底から美味しそうに頬張るアレクシオスを見て、リリアナは思わず笑みをこぼす。
「王城で食べるどんなご馳走よりも、美味そうだ」
王の鎧を脱いだ彼は、どこか危うげで、そして、放っておけない魅力を放っていた。
夕暮れ時、二人は、大河アデルのほとりの、名もなきベンチに腰を下ろしていた。
茜色に染まる空と、穏やかな川の流れが、二人の間に流れる、静かな時間を、優しく包み込む。
「……こんな風に、ただ空を眺める時間なんて、いつぶりだろうな」
アレクシオスがぽつりと呟いた。
その声には王としての響きはなく、ただ、疲れ果てた一人の青年の、穏やかな感慨が滲んでいた。
「陛下……」
「今は、アレクシオスでいい」
その言葉に、リリアナの心臓が、小さく跳ねた。
「……アレクシオス様は、いつも、頑張りすぎていらっしゃいます。時には、こうして、立ち止まることも、必要ですわ」
リリアナは、勇気を振り絞って、彼の、少しごつごつとした、王の手に、そっと自らの手を重ねた。
「貴方は、もうお一人ではございません。わたくしが、おります。フィン殿も、バルカス様も、ロザリアさんも……。皆、貴方と共に戦っております。ですから、どうか、一人で、全てを背負わないでください」
アレクシオスは、驚いたように彼女を見つめ、そして、その視線を、重ねられた手へと落とした。
やがて、彼は、その手を、優しく、しかし、力強く握り返した。
「……ああ。ありがとう、リリアナ」
その一言と、手の温もりだけで、十分だった。
夜の帳が下り、一番星が輝き始める頃、二人は王城へと戻った。
アレクシオスの足取りは、朝とは比べ物にならないほど、軽く、そして力強い。その瞳には、明日への、新たな活力が漲っていた。
自室へと向かう彼の背中を見送りながら、リリアナは、自らの胸に灯った、温かく、そして、少しだけ切ない光を、大切に抱きしめていた。
この方を、支えよう。
王としてだけでなく、ただ一人の、大切な人として。
その誓いは、彼女の心を、これまでにないほどの、強い輝きで満たしていた。
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