幕間:敗軍の将、独房にて
ロムグール王国の王城、その最も深い場所にある、石造りの独房。
かつて、王国の「北の守護者」として、その名を大陸に轟かせた、エルンスト・フォン・マーカスは、今、その全ての栄光を剥ぎ取られ、ただの囚人として、冷たい石の床に座していた。
窓もない、蝋燭の灯りだけが頼りの、この薄暗い独房。
だが、彼の心は、驚くほど、静かだった。
王の橋での、あの、あまりにも、一方的な敗北。
彼は、負けたのだ。アレクシオスという、底知れぬ王の策略と、そして、自らが知り得ない、規格外の「不確定要素」によって。
ゴトリ、と。
独房の、頑丈な鉄格子の、小さな食糧口が開かれ、簡素な、黒パンと、水の入った器が、差し入れられた。
マーカスは、ゆっくりと、それに、手を伸ばす。
「……エルンスト・フォン・マーカス。貴殿ほどの男が、このような場所で、残りの生を終えることになるとは。実に、嘆かわしい限りですな」
鉄格子の向こうから、静かだが、どこか、全てを見透かすような、老人の声がした。
そこに立っていたのは、一人の、背筋を、まっすぐに伸ばした、老獪な男。
ロムグール王国宰相、イデン・フォン・ロムグール。
「……イデンか。わざわざ、敗軍の将を、嘲笑いにでも、来たか」
マーカスは、皮肉で、返した。
だが、イデンの瞳には、嘲りの色など、微塵もなかった。
あるのは、氷のように冷たい、静かな、しかし、燃えるような、怒りの色だった。
「嘲笑う? とんでもない。私は、怒りに、腸が煮え繰り返る思いで、ここに立っているのですよ。貴殿の、その、あまりにも、愚かな行いに対して」
「何……?」
「エルンスト殿。貴殿は、ただ、若き王に、反旗を翻したのではない。貴殿は、このロムグール王国そのものを、そして、貴殿の祖先が、血を流して築き上げた、王家との誓いを、裏切ったのですぞ」
イデンの声は、静かなまま、しかし、その一言、一言が、断罪の刃のように、マーカスに突き刺さる。
「ふん、王家への誓い、だと? あの、腐りきった、先代や、その前の王がか? そして、今度の、世間知らずの小僧がか? イデン、貴様こそ、何を言う。俺は、この国を、王家を、正すために、立ったのだ!」
「正す、ですと?」
イデンは、その言葉を、鼻で笑った。
「そのために、得体の知れぬ、影の力に、手を、お貸しになったか。その力が、この国に、どれほどの災厄をもたらすかも、考えずに」
その問いに、マーカスの瞳が、初めて、鋭い光を宿した。
「……イデン。貴様には、分かるまい。俺が、なぜ、そこまでして、王家を、正そうとしたのかが」
「いいえ、分かりますとも」
イデンの声が、さらに、低くなった。
「なぜなら、私自身もまた、あの、愚かだった頃のアレクシオス陛下を見て、同じことを、考えておりましたからな。……この国を守るためならば、王に成り代わることすらも、辞さない、と」
「!?」
マーカスは、絶句した。
「ですが、エルンスト殿。私と、貴殿とでは、決定的に違う点が、一つだけある」
イデンの瞳が、マーカスを、射抜いた。
「私は、この身に、たとえ、庶子としてであろうとも、ロムグール王家の血を引く者。私の全ての行動は、この王家と、国体を、守るためにある。たとえ、王、個人を、排除することになったとしても、な。……だが、貴殿は、違う。貴殿は、ただ、マーカス家という、自らの家の、プライドと、野心のために、国を、戦乱に陥らせようとした。その違いが、お分かりかな?」
イデンは、冷ややかに、言い放った。
「貴殿は、王家に仇なした。それも、最も、愚かで、そして、醜い形で。……故に、貴殿を、許すことはできない。この、私が、だ」
その、あまりにも、絶対的な、そして、歪んだ、王家への忠誠心。
マーカスは、生まれて初めて、この、長年の政敵であったはずの、宰相イデンの、その、本当の、底知れなさを、垣間見た気がしていた。
彼は、ただの、宰相ではない。
王家そのものを、自らと同一視する、最も、危険な、番人だったのだ。
「……若き王は、変わられた。彼が、真に、この国を背負う、王の器たるか、このイデン、まだ、見極めている最中にございます。ですが、少なくとも、彼が、この国を、良き方向へと導こうとしている限り、私は、彼の、剣とも、盾ともなりましょう」
イデンは、そう言うと、静かに、一礼し、踵を返した。
「……エルンスト殿。独房での、残りの時間、貴殿が、裏切った、その『誇り』について、ゆっくりと、お考えになるが良い」
その、冷たい言葉だけを残し、宰相は、闇の中へと、消えていった。
後に残されたマーカスは、ただ、呆然と、その場に、座り込むことしか、できなかった。
彼は、アレクシオスにではない。イデンという、この国の、最も、根深い場所に潜む、本当の「番人」に、完全に、敗北したのだ。
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