第四十九話:聖なる偽り、魔王の足枷
絶望。
その一言が、雪と血に染まるエルヴァン平原の全てを支配していた。
鋼と鋼がぶつかる音、肉が裂ける音、そして死に行く者たちの最後の呻き。
連合軍の戦線は、もはや虫に食われた木の葉のように、至る所で穴が開き、いつ崩壊してもおかしくない状態だった。
老獅子バルカスですら、”魔王”モルガドールの圧倒的な力の前に地に膝をつき、その命の灯火は、風前の灯火となっていた。
誰もが、死を覚悟した。その、まさにその時だった。
若き王、アレクシオスの、狂気じみた命令が、伝令たちによって全軍へと伝えられた。
「―――王の奇跡を待て。いかなる事態が起きようと、決して動じるな。我が合図と共に、最後の突撃を敢行する!」
兵士たちは、その命令の意味を理解できず、ただ困惑するしかなかった。
奇跡? この血と泥にまみれた地獄の底で、これ以上の何が起こるというのか。
軍本陣の片隅では、歴史上、最も馬鹿げた作戦準備が、着々と進められていた。
「な、なんだよこの鎧! キンキラキンで、悪趣味すぎんだろ! しかも、なんか、すげー強そうな魔力がみなぎってる気がする!」
我らが勇者、田中樹は、リリアナが残った魔力の全てを注ぎ込んで作り出した「幻影の神聖鎧」を纏い、興奮気味に自分の身体を見下ろしていた。
それは、純金で打ち延ばしたかのように眩く輝き、背中からは光の翼が生え、神々しい後光まで差している。
およそ実戦には不向きな、しかし、見る者の正気を奪うほどに派手で荘厳な代物だった。
「イトゥキ殿」アレクシオスは、その肩を掴み、真剣な、いや、鬼気迫るほどの眼差しで告げた。
「今まで、君の真の力を隠していて、すまなかった。だが、もはや、その封印を解く時が来た」
「ふ、封印!? 俺の!?」樹の目が、子供のように輝く。
「ああ。その鎧は、君が持つ、真の勇者の力を解放するための鍵だ。そして、その力を目覚めさせるための『言霊』がある。君がやるべきことは、ただ一つ。全軍が見渡せるあの丘の上に立ち、堂々と、君の『真名』と『称号』を宣言するのだ。その名と称号こそが、魔を祓う、最強の魔術となる。君がその名を口にした時、魔王は、伝説の恐怖を思い出し、その動きを止めるだろう。いいね?」
「おお! そういうことか! ついに俺の、レベル上限が解放されるわけだな! 俺の名前自体が、チートスキルだったとは! よーし、任せとけ! だが王様、この力が解放された暁には、俺の銅像は純金製にしてもらうからな! あと、毎食後のデザートも三倍だ!」
樹は、この土壇場で新たな要求を付け加えながらも、アレクシオスの壮大なハッタリを、一点の曇りもなく信じ込んだ。
ブオオオオオオオオオッ!
戦場に、再び角笛の音が響き渡る。
全ての視線が、戦場を見下ろす一つの丘に注がれる。
そこに、後光に照らされながら、一体の黄金の騎士が、ゆっくりと姿を現した。
その神々しいまでの威容に、味方も、敵も、誰もが、一瞬だけ、戦うことさえ忘れて息を呑んだ。
最前線で人間どもの肉を食いちぎろうとしていたオークたちが、そのあまりに強烈な光に、本能的な恐怖を感じて後ずさる。
獣のような魔物たちは、理解不能な存在を前に、混乱して唸り声を上げた。
連合軍の兵士たちも、疲弊しきった心に、信じがたい光景を目にして、かすかな希望の火が灯るのを感じていた。
丘の上から、朗々とした声が響き渡る。
「聞け、愚かなる魔の軍勢よ!」
樹は、アレクシオスに叩き込まれた、英雄としての口上を、人生で最高の悦に入りながら叫んだ。
「我こそは、古の盟約に基づき,女神に遣わされし者! この世の全ての悪を裁く、唯一無二の存在!」
その言葉に、モルガドールは目を見開いた。
「古の盟約」「女神」…それは、魔族の伝承に残る、忌まわしき言葉。
自分たちの祖を、幾度となく闇へと葬ってきた、呪いのキーワード。
そして、樹は、天に届けとばかりに、高らかにその名を宣言した。
「―――我が名は、勇者! イトゥキ・ザ・ブレイブハートなり!」
『勇者』
その一言が、雷鳴のように戦場全体を揺るがした。
モルガドールの思考が、完全に停止する。
その恐怖は、魔物たちに、より直接的に伝播した。
「ゆ、勇者だと……?」
「馬鹿な、なぜこの時代に、伝説の存在が…」
「あの光は、聖なる力か…! 身体が、動かん…!」
歴戦のオークの指揮官が、その手に持つ血塗れの戦斧を、カランと音を立てて取り落とす。
知性のある魔族ほど、その名の持つ伝説的な意味と、それに伴う絶望的な結末を、知識として知っていた。
軍の後方にいた、規律の緩いゴブリンの一部は、恐怖のあまり、完全に戦意を喪失した。
「に、逃げろぉ! 勇者だ! 俺たち、殺されるぞ!」
数匹が武器を捨てて逃げ出そうとし、それを止めようとしたオークの指揮官に斬り捨てられるという、内輪揉めまで発生し始めていた。
モルガドールは、その軍全体の混乱と、目の前の勇者の、あまりにも矛盾した存在に、さらに深い思考の迷宮へと迷い込んでいた。
(力が、ない。魔力も、生命力も、そこにいるオークの雑兵以下だ。なのに、なぜだ? なぜ、その名と、その存在だけで、我が軍が崩れていく…! これが、これが『勇者』という理不尽か! 我が魔眼を欺くほどの、高度な隠蔽魔術か? それとも、あれはまだ『器』に過ぎず、これから神の力が降臨するとでもいうのか? いや、あるいは、我をおびき寄せるための、偽りの勇者か?)
伝説の名と、目の前の現実との、あまりにも大きな矛盾。
そのパラドックスが、モルガドールの巨体を、金縛りにあったかのように縫い付けた。
迂闊に手を出せば、伝説の力が発動するかもしれない。
だが、見過ごせば、それが本物だった場合、致命的な好機を逃すことになる。
彼の思考は、疑心暗鬼の迷宮へと迷い込み、完璧に停止した。
「どうだ! 我が名を聞き、恐れおののいているな!」
樹は、敵が静まり返ったのを見て、完全に有頂天になっていた。
彼は、さらに意味不明なポーズを取りながら、叫び続ける。
「見よ、我が究極奥義! 『ブレイブ・シャイニング・スラッシュ』!」
もちろん、何も起こらない。ただ、樹が力みすぎて、足元の雪で滑り、派手に尻餅をついただけだった。
「いってて……! あ、足が、足が痺れた……!」
だが、その光景すらも、モルガドールには、こう見えた。
(……今、何か、見えざる斬撃が放たれたのか? いや、違う。自ら地に膝をついた……? まさか、大地から魔力を吸い上げるための、予備動作か!? いかん、迂闊に動けば、奴の術中にはまる……!)
彼のその、自信に満ちた姿が、モルガドールの疑念を、恐怖へと変えていく。
(……間違いない。あれは、何か、我らの理解を超えた、恐ろしい術だ…!)
その、千載一遇の好機を、アレクシオスが見逃すはずもなかった。
彼は、剣を抜き放ち、その切っ先を敵陣に向けた。
「―――今だッ! 全軍、突撃ィィィッ! 敵は魔王共々、勇者の威光に怯えている! 崩れかかった敵陣を、一気に食い破れ!」
その号令は、狼煙だった。
「「「うおおおおおおおおおおっっ!!」」」
それまで息を潜めていた連合軍の兵士たちが、最後の力を振り絞り、パニックに陥った魔物の群れへと、怒涛の如く襲いかかった。
「聖勇者様が、我らに道を開いてくださったぞ!」
「続け! 王に、勇者に続け!」
指揮系統が麻痺し、一部が逃げ出し、恐怖に凍り付く魔王軍は、もはや統制の取れた軍隊ではなかった。
連合軍の刃は、面白いように、その陣形を切り裂いていく。
丘の上では、樹が、一人で気持ちよさそうに仁王立ちを続けている。
「ふっ……俺の敵ではなかったな。さて、勝利の祝杯は、やっぱりステーキに限るよな!」
彼は、眼下で繰り広げられる本当の死闘には全く気付かず、一人だけの、栄光に満ちた勝利の余韻に、心ゆくまで浸っていた。
アレクシオスは、その光景を見つめ、固く拳を握りしめた。
戦況は、一変した。だが、敵の大将は、まだ健在だ。
本当の戦いは、ここから始まる。
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