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第四十四話:血と泥の城壁、そして友の死

 

 夜明けは、エルヴァン要塞に救いではなく、新たな絶望の色を運んできた。


 三日三晩、休みなく続いた「魔王」の軍勢による猛攻は、かつて「不落」と謳われたこの北壁の誇りを、容赦なく削り取っていた。


 外壁は無残に砕かれ、今は内壁の防衛線で、地獄のような攻防が繰り広げられている。


「負傷者を後方へ! 弓兵、矢を惜しむな! 放てぇ!」


 城壁の上で、司令官グレイデン・アストリアの怒声が飛ぶ。


 彼の精悍な顔には、三日分の疲労と煤がこびりつき、誇り高き騎士の鎧は、敵の返り血と、自らの血で赤黒く染まっていた。


 だが、その瞳の光だけは、まだ折れていない。


 彼は、司令官の座に安座することなく、自ら剣を振るい、兵士たちと同じ場所で、同じ血と泥にまみれて戦い続けていた。


「司令官、少しお休みください。そのお身体では、いずれ持ちませぬぞ」

 背後から、落ち着いた声がかけられた。


 グレイデンの右腕である、副官のゲルトだった。


 年の頃は五十代半ば。


 白髪の混じった厳つい顔には深い皺が刻まれているが、その佇まいは、嵐の中でも揺らがぬ大樹のように、兵士たちに安心感を与えていた。


 彼は、手にした水袋を、無言でグレイデンに差し出す。


「…ゲルトか。お前こそ、昨夜から一睡もしていないだろう」


「はっは、ご心配なく。この歳になると、眠気の方から逃げていくものです」

 ゲルトはそう言って笑うが、その目の下の隈は、彼の言葉が嘘であることを物語っていた。


 彼は、負傷した兵士に肩を貸し、若い兵には冗談を言って緊張をほぐし、常に戦場全体に気を配っていた。


 グレイデンが燃え盛る「炎」であるならば、ゲルトは、それを支える揺るぎない「大地」だった。


 束の間の静寂。


 二人は、城壁の狭間から、眼下に広がるおぞましい光景を見下ろした。


 オーク、ゴブリン、そして巨大なトロール。 


 数万の魔物の群れが、蠢く黒い絨毯のように、大地を埋め尽くしている。


「……国王陛下の救援は、間に合いますでしょうか」

 ゲルトが、ぽつりと呟いた。


 それは、誰にも聞かせられぬ、本音だった。


「必ず来る」

 グレイデンは、自分に言い聞かせるように答えた。


「あのお方は変わられた。そして、我らが師、バルカス様も共におられる。あのお方々が、我らを見捨てるはずがない」

「誠に。バルカス様がおられた頃が、懐かしいですな。あの頃は、ただひたすらに剣を振るうことだけが、我らの務めでしたから」

 ゲルトの言葉に、グレイデンも静かに頷く。


 死線を共にしてきた者にしか分かち合えぬ、絆がそこにはあった。


 だが、その感傷は、地を揺るがす巨大な角笛の音によって、無慈悲に断ち切られた。


「総攻撃だ! 敵が、一斉に来るぞ!」

 見張り台からの絶叫。


 眼下の魔物の群れが、一斉に鬨の声を上げ、津波となって内壁へと殺到してきた。


 巨大な攻城槌が、ゴロゴロと地響きを立てて、正門へと迫る。


「ゲルト、正門は任せる! 俺は城壁上の指揮を執る!」 


「御意!」

 二人は、最後の戦いを覚悟し、それぞれの持ち場へと駆け出した。


 正門の城壁上は、まさに地獄だった。


 攻城槌が門に叩きつけられるたびに、城壁全体が激しく揺れ、石材が悲鳴を上げて軋む。


 城壁には無数の梯子がかけられ、オークどもが汚らしい雄叫びを上げながら、次々と登ってくる。


「怯むな! 突き落とせ! 我らがエルヴァン要塞を、獣どもに好きにはさせん!」

 グレイデンは、自ら大剣を振るい、城壁を登ってきたオークの兜を、その頭蓋ごと叩き割る。


 彼の獅子奮迅の戦いぶりが、兵士たちの恐怖を勇気へと変えていく。


 だが、敵の数はあまりにも多い。


 一人倒しても、その背後から二人、三人と、無限に湧いてくるようだった。


 その時、軍勢の遥か後方、丘の上に立つ、ひときわ巨大な影が動いた。


 “魔王”モルガドール。


 彼は、戦況が思うように進まないことに苛立ったのか、足元に転がっていた、家ほどもある巨大な岩塊を、その恐るべき腕力で軽々と持ち上げた。


「―――退屈だ」


 その一言と共に、岩塊が、まるで小石でも投げるかのように、エルヴァン要塞の正門上部、グレイデンたちが指揮を執る司令塔めがけて、放たれた。


 ヒュオッ、と風を切る音。空が、一瞬だけ暗くなる。


「なっ……!?」

 グレイデンは、部下への指示に集中するあまり、その死の飛来に気づくのが遅れた。


 見上げた時には、巨大な岩塊が、空を覆い尽くさんばかりの勢いで、頭上へと迫っていた。


(……これまで、か)

 死を覚悟し、歯を食いしばった、その瞬間だった。


「司令官っ!!」


 横から、猛牛のような勢いで突き飛ばされた。ゲルトだった。

「ぐっ……!?」

 体勢を崩し、床に叩きつけられるグレイデン。


 そのすぐ後、世界が轟音と衝撃に包まれた。


 ゴオオオオオオオオオオオオン!!!


 司令塔が、巨大な岩塊の直撃を受け、まるで砂の城のように、粉々に砕け散った。


 石材が、木片が、そして人の身体が、爆風と共に宙を舞う。


 グレイデンは、粉塵と煙の中で、必死に身を起こした。全身が痛む。


 だが、幸いにも、致命傷は避けたようだ。


「ゲルト! ゲルト、無事か!」

 彼は、友の名を叫びながら、瓦礫の山へと駆け寄った。


 そこに、ゲルトはいた。


 グレイデンを突き飛ばした、まさにその場所で、崩れた城壁の下敷きになり、上半身を赤黒く染めて、静かに横たわっていた。


「ゲルト……おい、ゲルト! しっかりしろ!」

 グレイデンは、必死に瓦礫をどかし、友の身体を抱き起す。


 ゲルトの目は、虚ろに空を見つめていた。


 だが、グレイデンの声に気づいたのか、その瞳にかすかな光が戻る。


「……グ、レイデン……か。無事……で、よかった……」

 ゲルトの口から、血の泡がこぼれる。


「馬鹿野郎! お前こそ、なんで俺なんかを庇った! お前がいなければ、この要塞は…!」

「……へへ…。私の役目は、ここまで、のようですな。貴方は……貴方は、王の剣となるべきお方。こんな場所で……死なせるわけには、いきませぬ……」

 ゲルトは、震える手で、懐から取り出した、家族の紋章が刻まれた小さなペンダントを、グレイデンの手に握らせた。


「頼む……。妻と、娘に……。私は、最後まで、騎士として戦ったと……伝えて……くだされ……」


「嫌だ! 自分で伝えろ! 目を開けろ、ゲルト!」


「……閣下。どうか、この国を……。我らが、ロムグールを……」

 それが、彼の最期の言葉だった。


 握りしめられたグレイデンの手から、力が抜けていく。


 親友の身体が、急に重くなった。


「…………ああ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!」


 グレイデンの、獣のような咆哮が、戦場の喧騒を切り裂いて響き渡った。


 それは、司令官の叫びではなかった。友を、兄弟を、己の半身を失った、一人の男の、魂からの慟哭だった。


 彼は、ゆっくりと立ち上がった。


 その顔からは、悲しみも、絶望も、全ての感情が抜け落ち、ただ、氷のように冷たい、底なしの怒りだけが宿っていた。


 彼は、瓦礫の中から、血に濡れた自らの剣と、そして、ゲルトの傍らに落ちていた、獅子の紋章が描かれたボロボロの部隊旗を拾い上げた。


「……聞けぇい、エルヴァンの兵ども!」

 その声は、もはや人のものではない、地獄の底から響くような凄みを帯びていた。 


「ゲルト副官は、戦死した! 我が友は、我らを守り、死んだ! だが、彼の魂は、まだここで戦っている! この旗と共にある!」

 グレイデンは、獅子の旗を高く掲げる。


「我らは、一歩も引かぬ! このエルヴァン要塞を、我らの、そしてゲルトの墓標とする覚悟がある者だけ、俺に続け! 奴らに、人間の怒りを、その骨の髄まで教えてやるのだ!」


「「「うおおおおおおおおおおおおっっ!!」」」

 司令官の絶望と怒りが、残った兵士たちの心に、最後の、そして最も激しい炎を灯した。


 グレイデンは、砕け散った正門の向こう側、押し寄せる魔物の群れを、そして、その遥か向こうでせせら笑う「魔王」の巨体を睨み据え、自ら先頭に立って、死地へと駆け出した。


 不落の要塞が、今、まさに、血の海に沈もうとしていた。

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