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第四十二話:“魔王”の食卓、そして帝国の沈黙

 

 吹雪は、一時的にその勢いを弱めていた。


 だが、エルヴァン要塞を包囲する数万の軍勢が発する邪気と、血と鉄の匂いは、天候すらも支配するかのように、その場に重く淀んでいた。


 軍勢の中心に、ひときわ巨大な、獣の皮を幾重にも重ねて作られた軍幕が鎮座している。


 その内部は、戦利品として持ち帰られたであろう、砕けた鎧や紋章旗が無造作に転がり、中央の巨大な焚火が、おぞましい影を揺らめかせていた。


 その玉座代わりに置かれた巨大な岩に、一人の巨魁が腰掛けていた。


 “魔王”―――兵たちがそう呼び、畏れる存在。


 その身の丈は屈強な騎士の倍近くあり、鍛え上げられた鋼のような筋肉は、およそ人のものとは思えぬほどの威圧感を放つ。


 彼は、巨大な魔獣の骨付き肉を、食器も使わず、その手で掴んで貪っていた。肉を食いちぎり、骨を噛み砕く音が、軍幕の中に響き渡る。


「まだ落ちんのか、あの石くれの砦は!」


 “魔王”モルガドールは、忌々しげに吐き捨てた。


 彼の前には、オークの将軍たちが、震えながらひざまずいている。


「も、申し訳ございません、モルガドール様! 人間どもの抵抗は熾烈を極め、特に人間どもの指揮官が未だ最前線で…」


「言い訳は聞かぬ! 我が軍の力をもってすれば、一日で塵芥ちりあくたと化すはずであったわ! それが、すでに三日も足止めを食らっておる!」

 モルガドールの怒声に、軍幕全体がビリビリと震えた。


 彼は、骨を床に叩きつけると、そばにあった酒樽を、樽ごと呷った。


 その時だった。


 彼の目の前に置かれた、黒曜石の祭壇の上にある水晶が、ゆらりと闇色の光を発し始めた。


 水晶の表面に、深いフードで顔を隠した、人間の男の影が映し出される。


 黒曜石ギルドを通じて、彼と通じている協力者だ。


『―――モルガドール様。ご報告いたします。貴方様が北壁を叩いている間、我らの“内なる揺らぶり”は、順調に進んでおります』

 影の声は、感情のない、不気味なほど平坦なものだった。


『ロムグール王の小僧は、まんまと罠にかかり、今頃、吹雪の山中で難儀していることでしょう。首都では、経済を混乱させるための仕掛けも発動させました。焦りは禁物。王国の力が内側から腐り落ちるのを、ゆっくりと待つのも一興かと…』


 その言葉に、モルガドールは、腹の底からわき上がるような、侮蔑の笑い声を上げた。


「ククク……ハッハッハ! 待つだと? 小細工を弄して、ネズミのようにコソコソと事を運ぶのが、貴様ら人間のやり方か! くだらん!」

 彼は、立ち上がり、その巨体で軍幕に巨大な影を落とす。


「我は、“魔王”モルガドール! 我が軍は、この大陸を蹂躙し、支配するためにある! 罠だの、謀略だの、そんなものは臆病者の戯言よ! 我は力の全てで、あの石くれの砦を打ち砕き、人間どもに絶対的な絶望を見せつける! それこそが、あのお方の望みでもあるはずだ!」


『し、しかし、モルガドール様…』


「黙れ!」


 モルガドールは、怒りに任せて、通信用の水晶を、その巨大な拳で叩き割った。


 砕け散った水晶の破片が、虚しく床に転がる。


「オークども! 全軍に伝えよ! 明け方と共に、総攻撃を開始する! 城壁だろうが城門だろうが、全て叩き潰せ! わしは、あの生意気な人間の指揮官の頭蓋骨で、祝杯を上げるのだ!」

 彼の咆哮が、魔の軍勢の士気を、狂気と共に燃え上がらせた。


 ♢


 その頃。


 大陸の覇者、ガルニア帝国の帝都。


 その心臓部である天穹宮の一室は、モルガドールの野蛮な喧騒とは対照的に、冷たいほどの静寂と、磨き上げられた秩序に満ちていた。


 大理石の床には一点の塵もなく、壁には歴代皇帝の肖像画が厳かに並んでいる。


 部屋の中央には、大陸全土を精密に再現した巨大な立体地図が置かれ、その前に、一人の男が静かに立っていた。


 皇帝の甥、将軍ヴァレンティン・フォン・シュタイナー。


「―――以上が、ロムグール王国先遣隊に関する最新の報告です、将軍閣下」

 情報部の士官が、抑揚のない声で報告を終える。


「敵の妨害工作により、アレクシオス王の軍は、北への主要街道を大きく迂回。進軍速度は、想定の半分以下に落ちております。兵の消耗も激しい模様。また、彼らが頼りとするであろう商業同盟からの補給も、一部で滞っているとの情報も」


 ヴァレンティンは、立体地図の上で、ロムグール軍を示す小さな駒を、純白の手袋をはめた指で、ゆっくりとなぞった。


 その口元には、微かな、しかし残酷なまでの冷たい笑みが浮かんでいた。


「……結構。全て、想定通りだ。あの成り上がりの若造王も、ようやく現実というものを学んでいる頃だろう」


「閣下」傍らに控えていた副官が、おずおずと口を開く。


「我が国の北方軍団は、いつでも出撃の準備が整っております。もし、エルヴァン要塞が陥落し、ロムグール王国が崩壊した場合、魔王軍が帝国領にまで雪崩れ込む危険性も…」


 ヴァレンティンは、ゆっくりと振り返った。


 その瞳は、まるで冬の湖面のように、一切の感情を映していなかった。


「出撃? なぜ、我々が動く必要がある?」

 彼の声は、静かだが、その場の空気を凍てつかせるほどの冷たさを帯びていた。


「魔王と、あの生意気な若造王を、エルヴァンの石の上で、存分に血を流させればよい。互いの力、意志、そして希望の全てを、あの極寒の地で削り合わせればよいのだ」

 彼は、再び地図に視線を戻し、まるで神が盤上の駒を眺めるかのように続けた。


「我ら帝国が動くのは、その両者が疲れ果て、勝者が、息も絶え絶えに膝をついた時だ。ライオンは、犬どもの喧嘩には加わらん。ただ、最後に、その勝者もろとも全てを喰らう。それこそが、覇者の特権というものだ」


 その言葉に、部屋にいた全ての者が、改めて自らの主君の、底知れない野心と冷徹さに戦慄した。


 北では、力の暴威が、南では、冷酷な計略が、アレクシオス・フォン・ロムグールという、ただ一つの獲物を狙っていた。


 二つの巨大な顎が、閉じようとしている。


 その中心を、ロムグール先遣隊は、まだ何も知らずに、ただひたすらに、北へ、北へと進んでいた。

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