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第三十九話:老宰相の盤面整理

 

 アレクシオス国王率いる先遣隊が、北のエルヴァン要塞へ向けて出陣してから、わずか半日のことである。


 王都カドアテメは、早くも内なる敵の牙にかかっていた。


 王都の中央市場は、地獄絵図と化していた。


「小麦を一袋! いくらでも払う!」


「子供が飢えてるんだ! 売ってくれ!」


 有力な商会がいくつも、一斉に穀物を買い占め、価格を吊り上げたのだ。


 民衆の悲鳴と、それを嘲笑うかのように穀物袋を高く積み上げる商人たちの怒号が入り乱れ、王都の衛兵が懸命に秩序を保とうとするが、飢えへの恐怖に駆られた群衆の前では、焼け石に水だった。


 王城の緊急作戦司令室。


 フィンは、商会の取引台帳や金の流れを記した羊皮紙の山に埋もれ、常人離れした速度でその中身を解析していた。


「ちっ、金の流れが巧妙に偽装されてやがる。だが、買い占めを行っているのは、五つの商会に集中してる。こいつら、全部、先日粛清したゲルツ騎士団長派閥と繋がりのあった連中だ。旧体制派の、俺たちへの復讐ってわけか。分かりやすい構図だぜ」

 隣では、ロザリアが王家の食糧備蓄庫の台帳を広げ、青い顔で計算をしていた。


「フィンさん……このままでは、備蓄は十日も持ちません。特に、貧しい地区の人々から、飢えが出てしまいます……!」

「分かってる。ロザリア、あんたは衛兵と協力して、王家の備蓄から粥の炊き出しの準備を急いでくれ。パニックを抑えるのが最優先だ。俺は、このクソッタレな商人どもから、穀物を吐き出させる方法を考える」


 だが、そのためには、国王代理として王都を預かる者たちの会議体、『王室評議会』の承認が必要だった。


 そして、その議会は、今や旧体制派の貴族たちの巣窟と化していた。


 流石に旧体制派全体を排除するのは、国を二分する内戦が勃発してしまう可能性があったため、権威のみ与えて、権力からは遠ざけるために、名誉職を与えていたのが、ここで裏目に出てしまった。


 案の定、緊急招集された評議会で、フィンとロザリアは、四方からの悪意に満ちた攻撃に晒された。


「これは一体どういうことだ、フィン補佐官! 貴殿が推し進めた急進的な経済改革が、市場に無用な混乱を招いたのではないのか!」

 口火を切ったのは、先代王の頃から私腹を肥やしてきた、ラインゴルト男爵だった。


「いかにも! それに、ロザリア殿とかいう村娘。貴女の育てたという奇妙な芋のせいで、大地の神がお怒りになり、小麦の供給が滞ったという噂もございますぞ!」

 別の貴族が、根も葉もない噂をさも真実であるかのように語る。


 彼らの狙いは明らかだった。


 この混乱の責任を、アレクシオスが抜擢した新しい才能であるフィンとロザリアに押し付け、失墜させ、再び権力を自分たちの手に取り戻すこと。


 フィンは、冷静にデータを突きつけ、これが意図的な市場操作であることを論理的に説明しようとする。


 ロザリアは、必死に、飢えに苦しむ民の窮状を訴える。


 だが、貴族たちは聞く耳を持たない。


「若輩者が」「伝統を無視しおって」「平民出が口を出すな」という罵声が、議場を支配した。


 フィンが提案した、不正な買い占めを行った商会への強制捜査と、穀物の国家による強制買い上げ案は、一笑に付された。


(……くそっ、ここまでか。王様がいないと、俺たちは、この国ではまだ、ただの子供扱いか……!)

 フィンが、悔しさに拳を握りしめた、その時だった。


「―――皆様、少々、お静かになされませ」


 それまで、議場の隅で、まるで置物のように静かに座っていた宰相イデン・フォン・ロムグールが、初めて、ゆっくりと口を開いた。


 その声は静かだったが、議場にいた全ての貴族が、まるで蛇に睨まれた蛙のように、一瞬で動きを止めた。


 イデンは、ゆっくりと立ち上がると、ラインゴルト男爵に、穏やかな笑みを向けた。


「ラインゴルト男爵。貴殿の、国庫を憂うそのお心、実に感服いたします。そういえば、陛下もご出陣の直前まで、大変気にしておられましたな。三年前、貴殿が管理しておられた南部の木材の関税収入に、どうにも『計算の合わぬ』点がある、と。陛下は、お戻りになられたら、それを徹底的に調査なさると息巻いておられましたが……いやはや、陛下も、お若い」


 ラインゴルト男爵の顔から、サッと血の気が引いた。


 次に、イデンは、ロザリアを罵った貴族に視線を移す。


「それから、オストベルク伯爵。貴殿の、伝統と神々を敬うお気持ちも、実に尊い。そういえば、貴殿の家系に代々伝わるという、ガルニア帝国の織物商との『特別な友好関係』も、実に伝統深いものですな。フィン補佐官、我が国の交易記録と、伯爵家の資産の動きを照らし合わせてみれば、何か、歴史的に興味深い『発見』があるやもしれませぬな」


 オストベルク伯爵は、カエルが潰れたような声を漏らし、椅子に崩れ落ちた。


 イデンは、ただ静かに、にこやかに、一人、また一人と、議場で声を荒らげていた貴族たちの「秘密」に、ほんの少しだけ触れていった。


 それは、脅迫ではない。


 ただ、事実の確認だ。だが、それ故に、絶対的な効果があった。


 議場は、死のような沈黙に支配された。


 イデンは、満足げにその光景を見渡すと、最後に、震え上がっている議長に向き直った。


「さて。国王陛下の代理である、フィン補佐官とロザリア殿が提案された、『国家非常事態における食糧安定供給法案』。これに、何かご異論のある方はおられますかな?」


 誰一人として、首を横に振る者はいなかった。


 法案は、全会一致で、驚くべき速度で可決された。


 評議会が終わり、呆然と立ち尽くすフィンとロザリアの元へ、イデンがゆっくりと歩み寄ってきた。


「……あんた……なぜ、俺たちを……?」


 フィンの問いに、イデンは、その感情の読めない瞳で彼を一瞥した。


「勘違いするな、小僧。わしは、お主らを助けたわけではない。ただ、我らが乗るこの船に、愚か者どもが火を放つのを、見過ごせなかっただけのこと。王族の一人として……。」

 彼は、それだけ言うと、フィンとロザリアに背を向けた。


「陛下がお戻りになるまで、この首都に混乱は許さん。お主らも、その若すぎる頭脳で、せいぜい王のご期待に応えることだ。……失望は、させんでくれよ」


 老宰相は、そう言い残し、長い廊下の闇へと消えていった。


 フィンとロザリアは、その背中を見送りながら、この国の政治の、底知れない深さと、そして、あの老獪な宰相の、複雑な忠誠心の形を、垣間見た気がした。

 

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