第三十八話:王の出陣、狙われる首都
―――対魔王大陸戦略会議から、一年半後。
かつて、先王の放蕩と腐敗貴族の搾取によって活気を失い、沈黙していたロムグール王国の王都カドアテメは、まるで長い冬の眠りから覚めたかのように、生まれ変わっていた。
石畳の道は補修され、荷馬車が軽快な音を立てて行き交う。
市場には、南のヴァンドール商業都市同盟から運ばれてきた珍しい品々や、西のシルヴァラント公国自慢の工芸品が並び、人々の活気ある声で満ち溢れていた。
道行く民の顔には、かつてのような諦観の色はなく、明日への希望と、自らの王への確かな信頼が浮かんでいる。
この奇跡的な復興の中心に、若き国王アレクシオス・フォン・ロムグールがいた。
その日、国王執務室では、いつものように報告会議が開かれていた。
「王様、これが上半期の国庫歳入報告書だ。前年同期比で、実に170%の増加。税制改革と、商業同盟との交易円滑化が効いてるな。まあ、俺の計算通りだが」
若き天才補佐官、フィンは、目の下の隈をさらに濃くしながらも、その口調には隠しきれない自信が漲っていた。
彼は、もはや王都の片隅で燻っていた少年ではない。
その頭脳一つで、国家の財政を動かす、王の右腕だった。
「それと、王都とミレイユ平原を結ぶ主要街道の整備も、第一段階が完了した。物流コストは三割減。これで、ロザリアの嬢ちゃんが育ててる『太陽の実』も、もっと効率よく国内に運べるはずだぜ」
「素晴らしいわ、フィン殿」リリアナが、フィンの報告に微笑む。
「ロザリア殿も、大変喜んでおりました。彼女が品種改良を重ねた『太陽の実』…あのジャガイモのおかげで、今年は凶作に苦しむ村は一つも出ておりません。民は、彼女を『恵みの大地の癒し手』と呼び、心から敬愛しておりますわ」
リリアナの言葉通り、ロザリアの献身的な努力は、ロムグール王国から「飢え」という言葉を過去のものにしつつあった。
「騎士団の方も、上々です、陛下」厳つい顔をわずかにほころばせ、バルカスが続く。
「ライアスと共に進めていた再編計画により、腐敗分子は一掃され、士気、練度ともに、かつての『獅子王隊』に迫る精強さを取り戻しつつあります。いつでも、陛下の剣として戦う準備はできておりますぞ」
内政、農業、軍事。全てが、確かに、良い方向へと向かっている。
この一年半、俺は、そして仲間たちは、文字通り不眠不休で働いてきた。
その成果が、今、目の前に広がっている。
その時だった。
「「「イトゥキ様ー! 我らが聖勇者様ー!」」」
窓の外から、地鳴りのような大歓声が聞こえてきた。
見れば、王城のバルコニーに、いつの間にか我らが勇者、田中樹が姿を現し、スーパースター気取りで民衆に手を振っていた。
「おう、お前ら! この俺の輝かしい姿を、その目に焼き付けるがいい! 俺こそが、帝国の呪いを解き、魔王の脅威からお前たちを守る、唯一無二の英雄なのだ!」
一年半という月日は、彼の勘違いと増長ぶりにも、さらなる磨きをかけていた。
バルカスによる(本人は血反吐を吐くほど嫌がっていた)訓練の成果か、ひょろひょろだった体格は多少マシになっていたが、その中身は何も変わっていない。
俺は、その光景に一つ、深いため息をついた。
この国は確かに変わった。
だが、どうしようもなく変わらないものも、ここにある。
その、束の間の平和を打ち破るように、作戦司令室の扉が乱暴に開け放たれた。
「陛下! 緊急事態です!」
血相を変えて飛び込んできたのは、司令室詰めの通信兵だった。
彼の視線の先、部屋の中央に設置された魔法伝書用の巨大な水晶が、まるで心臓が張り裂けるかのように、血のような赤い光を激しく明滅させていた。
エルヴァン要塞からの、最上級緊急通信だった。
作戦司令室には、俺、リリアナ、フィン、バルカス、そして同盟の調整役として王都に滞在していたセレスティナ公女が集っていた。
全員が、固唾をのんで水晶を見つめる。
やがて、激しいノイズと共に、水晶に一人の男の姿が映し出された。
「グレイデン……!」
バルカスが、思わずといった体で叫ぶ。そこにいたのは、エルヴァン要塞司令官、グレイデン・アストリア。
だが、その姿は俺たちが知る精悍な若き獅子ではなかった。
彼の兜は砕け、額からは血が流れ、誇り高き騎士の鎧は見るも無残に引き裂かれている。
背景では、炎と黒煙が上がり、兵士たちの悲鳴と、獣の咆哮のようなおぞましい音が絶え間なく響いていた。
「陛下…!」グレイデンの声は、ひどくかすれていた。
「敵の強力な魔術妨害で…これまで一切の通信が…! 我が魔術師団が、命と引き換えに、今、一瞬だけ道を開きました!」
「なんだと!?」
「ご報告します! “魔王”を名乗る巨魁が率いる大軍団、三日前に出現! そして、半日前より、全軍による総攻撃が開始されました! 外壁は既に…突破され…!」
彼の言葉の一つ一つが、戦況がいかに絶望的であるかを物語っていた。
「もはや、これまでかと…! ですが、我ら、最後の一兵まで、この北壁を…! 我らが家族と、民を守る盾となり……!」
その時、グレイデンの背後で、ひときわ大きな爆発が起こった。
城壁の一部が、巨大な何かに打ち砕かれたのだ。衝撃で、グレイデンの姿が大きく揺れる。
「ロムグールに……王国に、栄光あれ…!」
それが、彼の最後の言葉だった。
水晶は、耳を劈くような轟音と共に光を失い、通信は途絶えた。
作戦司令室を、墓場のような沈黙が支配した。
セレスティナは、青ざめた顔で口元を押さえ、バルカスは、戦友であり、愛弟子でもある男の安否を気遣い、その拳をわなわなと震わせている。
フィンですら、その天才的な頭脳も、この絶望的な現実の前では言葉を失っていた。
沈黙を破ったのは、俺だった。
驚愕と悲嘆に暮れていた俺の表情は、いつの間にか、全てを削ぎ落とした、冷徹な王のそれへと変わっていた。
俺は、ゆっくりと立ち上がり、仲間たちの顔を見渡した。
「聞いただろう。エルヴァンは、大陸の、我々のために血を流している。今こそ、連合の真価が問われる時だ」
俺は、壁の大陸地図に視線を移し、静かに、しかし鋼のような意志を込めて告げた。
「―――対魔王連合軍、全軍出撃! 目標、エルヴァン要塞の救援!」
その号令を合図に、王城の鐘が、これまで鳴らされたことのない、最も甲高い音で、開戦を告げた。
城内は、にわかに兵士たちの怒号と、武具の触れ合う音で満たされる。
俺は、儀礼用の服を脱ぎ捨て、黒を基調とした実戦用の鎧を身に着ける。
リリアナが、震える手でそれを手伝ってくれた。
「フィン、ロザリア。俺が不在の間、首都を頼む。何があっても、民を守れ」
出陣の直前、俺は王都に残る二人の若き才能に、国の未来を託した。
フィンは力強く頷き、ロザリアは涙をこらえながら、深々と頭を下げた。
♢
数時間後。
俺が、バルカス率いる先遣隊と共に、城門から駆け出そうとした、まさにその瞬間だった。
「へ、陛下! 大変です!」
血相を変えた衛兵が、群衆をかき分けて俺の前にひざまずいた。
「王都の穀物市場で、複数の有力な商会が、突然、全ての穀物の大規模な買い占めを始めました! 価格は瞬く間に数倍に高騰し、食料を求める民衆が殺到し、パニックに陥っております!」
「なんだと……!?」
その報告に、隣にいたフィンの目が、カッと見開かれた。
「……このタイミングでか! 王都の兵力が最も手薄になる、この瞬間を狙って…! ただの買い占めじゃねえ…これは、計算され尽くした経済テロだ!」
背後で上がる、民の悲鳴と喧騒。
そして、北で待つ、死にゆく仲間たちの顔。
俺は、二つの戦場を同時に見据え、一瞬だけ唇を強く噛みしめた。
だが、迷いはなかった。
「フィン! ロザリア! 王都は任せたぞ!」
俺は、背後の混乱を振り切るように、愛馬に鞭を入れた。
「全軍、前へ! エルヴァン要塞へ、急げ!」
北へ向かう、絶望的な救援の道。
そして、首都で始まる、見えざる敵との知恵比べ。
ロムグール王国の、そして大陸の運命を左右する、二つの戦いが、今、同時に火蓋を切った。




