第三十六話:連合始動、そして影を狩る者たち
『対魔王大陸戦略会議』の閉会宣言から数日。
王都カドアテメは、歴史的な祭りの後のような高揚感と、新たな時代の始まりを告げる慌ただしさに包まれていた。
各国の代表団は、それぞれの思惑を胸に帰国の途につく者、あるいは連合の具体的な設立準備のために王都に留まる者と、動きは様々だった。
俺、アレクシオス・フォン・ロムグールの執務室は、今や『対魔王連合・暫定司令部』と化していた。
「シルヴァラントと商業同盟への経済共同体構想の正式な通達は完了。東方諸侯への食糧支援ルートの確保も、進めている。問題は帝国だが…」
フィンが、目の下の隈をさらに濃くしながら、大陸地図に無数の駒を置いていく。
その姿は、もはや一国の補佐官ではなく、大陸全土を盤上に見立てる軍師の風格だった。
「陛下、各国に派遣する連絡武官の人選も進めております。リリアナ、お前も大変だろうが、外交文書の整備を頼む」
バルカスも、新生騎士団の訓練の合間を縫って、連合の軍事部門の設立に奔走していた。
全てが、目まぐるしく動き出している。
その中心に、自分がいる。
その重圧に、俺の胃は悲鳴を上げ続けていたが、今は心地よい痛みですらあった。
その日、俺は国王執務室で、慌ただしく帰国の途につく各国の代表団からの報告と、山積する連合設立のための実務に追われていた。
そんな中、ザルバードの使者、ジャファルが「出発の前に、王と二人きりで話したいことがある」と、俺の元を訪れた。
人払いをさせた執務室で、老賢者はにこやかな笑みを浮かべていた。
「いやはや、見事な会議であった。あの帝国の小僧を、まるで赤子の手をひねるようにな。大した手腕じゃ、アレクシオス王」
「ジャファル殿の『真実の鏡』の申し出がなければ、こうはいかなかった。感謝する」
俺が頭を下げると、ジャファルは「ふぉっふぉっふぉ」と独特の笑い声を立てた。
「あれは、ただのきっかけじゃ。わしらは砂漠の民。風の噂と人の心の流れを読むのには長けておる。貴殿の周りには、実に面白い、そして力強い風が吹いておるわい。我が王も、その風がどこへ向かうのか、見届けたいと申されておる」
「ザルバードが、そこまで我々を評価してくださるとは光栄だ。だが、何か裏があるのではと勘繰る者もいるだろう」
俺の言葉に、ジャファルの瞳が、すっと細められた。
「裏、か。そうじゃな。アレクシオス王、貴殿が暴いた『黒曜石ギルド』の闇は、貴殿が思うよりも、ずっと深く、そして大陸の根を蝕んでおる。魔王という分かりやすい脅威は、むしろ扱いやすい。本当に恐ろしいのは、人の心に巣食い、国を内側から腐らせる見えざる敵じゃ。我らザルバードは、その腐敗が砂漠にまで及ぶことを、何よりも恐れておる。貴殿は、その見えざる敵と、正面から戦おうとしておる。その覚悟に、我が王は賭けたのじゃよ。……覚えておくがよい。真の敵は、決して姿を見せぬものじゃ」
ジャファルは、それだけを告げると、満足げに頷き、静かに部屋を後にした。
彼の言葉は、俺への警告であり、そして何よりも重い信頼の証だった。
ジャファルが去った後、入れ替わるように、音もなくもう一人の男が姿を現した。
ヤシマの長、クロガネ。
彼は、ただ静かに俺の前に立ち、深く一礼した。
部屋の空気が、彼の存在だけで張り詰める。
「クロガネ殿。貴殿らの申し出にも、心から感謝する。『霊刃衆』とは、どのような者たちなのだ?」
俺が問うと、クロガネは、面布の奥から、静かだが鋼のように強い意志を宿した声で答えた。
「……我らは、魔を討つのではない。魔が生み出す『歪み』そのものを、断つ」
彼は、腰に提げた、細く反った刀の柄に、そっと手を置いた。
「この刀は、鉄にあらず。我らが魂を鍛え、霊力を込めたもの。邪気は、この刀の前では形を保てぬ。黒曜石ギルドの者どもが纏う気配、おそらくは同質のもの。彼らは、もはや人ではない。人の形をした『歪み』だ」
「……影を狩るには、光ではなく、より鋭き影が必要となる、か」
俺がジャファルの言葉をなぞるように言うと、クロガネは初めて、その瞳にわずかな驚きのような色を浮かべ、そして、小さく頷いた。
「……アレクシオス王。ヤシマは、約束を違えぬ」
それだけを告げると、彼もまた、来た時と同じように、音もなく去っていった。
部屋の片隅を射るように見据えながら。
一人残された執務室で、俺は深く息を吐いた。
ジャファルの『真実の鏡』は、人の心の嘘を見抜くための、諜報と尋問における切り札。
クロガネの『霊刃衆』は、呪詛や邪気といった、超自然的な脅威に対抗するための、特殊な刃。
彼らがもたらす未知の力は、魔王軍、そしてその尖兵である『黒曜石ギルド』との暗闘において、間違いなく連合の切り札となるだろう。
だが、彼ら異国の指導者たちと連携し、このロムグール王国側の実働部隊として動ける人間が必要だった。
砂漠の賢者や極東の剣士だけでは、この国の、大陸の、泥臭い裏路地までは歩けない。
闇を知り、影を歩き、そして躊躇なく刃を振るえる存在が。
俺の頭に、一人の少女の姿が浮かんでいた。
執務室で一人、俺は静かに呟いた。
「……いるか、ファム」
俺の言葉に応える者は、いない。
部屋には、羊皮紙の乾いた音と、遠い城下の喧騒だけが響いていた。
だが、俺は知っている。
彼女が、必ずこの部屋のどこかにいることを。
やがて、部屋の隅の、魔法灯の光が最も届かない影が、ゆらりと揺めいた。
まるで、闇そのものが人の形を取ったかのように、音もなく一人の少女が姿を現す。
小柄で、少年のような言葉遣いをするが、その瞳には常に周囲を警戒する鋭い光と、その奥に深い孤独が滲んでいる。
「……呼んだかい、ボス」
元盗賊団の一員、ファム。俺の直属の「影」だ。彼女のスキル【隠密行動(影同化)】は、熟練の騎士であるバルカスですら、その気配を完全には察知できない。
「ああ。お前に、新たな任務を与える」
俺は、驚くことなく、慣れた様子で彼女に向き直った。
「ザルバード、ヤシマと連携し、大陸に潜む『黒曜石ギルド』の正体を暴き、その根を断つ。新設する『闇滅隊』の、ロムグール代表として、その指揮の一端を担ってもらう」
俺の言葉に、ファムの目が、わずかに見開かれた。
「……はっ。俺みたいなドブネズミに、そんな大役は務まらねえ。ボスに拾われたこの命、ボスの影として汚い仕事をするだけで十分だ。そんな表舞台は、性に合わねえよ」
その声には、自嘲と、そして俺に対する純粋な忠誠心が滲んでいた。
彼女は、俺に拾われたことで、初めて自分の価値を見出した。
だからこそ、その影であり続けることを望んでいるのだ。
「表舞台ではない。むしろ、これまで以上に深い闇に潜ってもらうことになる。そして、これは命令だ、ファム。俺は、お前の過去ではなく、今の瞳の中にある、覚悟を信じている。この任務は、お前が過去の影を振り払い、俺の、そしてこの国の光を守るための、新たな道でもある」
俺の真っ直ぐな視線を受け、ファムはしばらく黙り込んでいた。やがて、彼女は小さく、しかし力強く頷いた。
「……ボスがそう言うなら。この命、とっくにアンタにくれてやったもんだ。好きにしな」
俺は、覚悟を決めたファムを連れて、まだ王都に滞在していたジャファルとクロガネの元へ向かった。
老賢者と無口な剣士を前に、さすがのファムも緊張で体を硬くしていた。
ジャファルは、ファムの姿を一瞥すると、その慈愛に満ちた瞳で、ふぉっふぉっと笑った。
「ほう、面白い『影』を連れてきたのう、アレクシオス王。だが、この娘、ただの影ではない。飢えた獣の匂いがする。生きるために、多くのものを喰らい、そして生き延びてきた者の、強い匂いじゃ」
その言葉に、ファムの肩がピクリと動く。その時だった。
音もなく、クロガネがファムの背後に回り込んでいた。
誰も、その動きを察知できなかった。
冷たい鋼の感触が、ファムの首筋に触れる。
抜き放たれた懐剣の切っ先が、寸止めで当てられていた。
「!?」
常人であれば、恐怖で凍りつくか、あるいは悲鳴を上げていただろう。
だが、ファムは違った。
彼女は、驚愕の表情を浮かべながらも、反射的に体を捻り、常人離れした体捌きで懐剣を紙一重でかわす。
そして、その動作と連動するように、袖口に隠していた短剣を抜き放ち、クロガネの喉元へと、流れるような動きで突きつけていた。
一瞬の、死線上の攻防。
クロガネは、ファムの短剣を意にも介さず、満足げに懐剣を収めた。
「……疾い。そして、殺気を読む眼もある。良き『刃』だ」
「……て、てめえ……いきなり何しやがる……!」
ファムは、息を切らしながら、初めて見せる動揺と、そして武者震いを隠せずにいた。
ジャファルもまた、深く頷く。
「覚悟も、力も十分。この娘ならば、任せられよう。闇を狩るには、闇を知る者こそがふさわしい」
こうして、『闇滅隊』は、ロムグールの「影」、ザルバードの「眼」、そしてヤシマの「刃」という、異色の組み合わせで、ここに正式に結成された。
その夜、フィンの執務室から、緊急の報告がもたらされた。
「王様、ヤベえもんを見つけちまった。黒曜石ギルドの金の流れ、さらに追跡した結果、奴らの支部が、王都だけじゃなく、シルヴァラント、商業同盟、そして帝国の主要都市にまで、まるで蜘蛛の巣みてえに張り巡らされてやがる! 敵は、俺たちが思ってるより、ずっと巨大で、そして根深いぞ!」
フィンの報告は、これから始まる戦いの過酷さを、改めて俺たちに突きつけていた。
俺は、ファム、そしてジャファルとクロガネに、最初の指令を下した。
「―――闇滅隊、初任務だ。まずは、最も近く、そして最も情報の多い、王都のギルド支部跡地の徹底調査を命じる。敵の尻尾を、必ず掴め」
「「「御意に」」」
三人の声が、重々しく響く。対魔王連合の、水面下での最初の戦いが、今、始まろうとしていた。
一方、その頃。王城のバルコニーでは、我らが勇者、田中樹が、民衆に向かって手を振っていた。
「どうだ、お前ら! 俺が帝国をギャフンと言わせたおかげで、平和が来たみてえだな! もっと俺を崇めろ! 俺の銅像は、そろそろ完成したか!?」
吟遊詩人たちは、彼のその姿を「大陸の危機を救い、民に微笑む聖勇者」として、新たな歌にし始めていた。
その能天気な声と、これから始まる血腥い暗闘との、あまりにも大きな隔たり。
俺は、その両方を背負い、この国を、そしてこの大陸を導いていかねばならない。
胃の痛みは、もはや、俺の覚悟の一部と化していた。




