第三十話:帝都の喧騒、そして凱旋への道
天穹宮の広大な謁見の間を退出するバルカスの足取りは、奇妙に覚束なかった。
己が身に何が起きたのか、未だに現実感が伴わない。数刻前まで、この老将は、ロムグール王国の滅亡と、自らの死を覚悟していたはずだった。
それがどうだ。今、自分たちの背中に注がれているのは、もはや侮蔑や嘲笑ではない。
畏怖、困惑、そして得体の知れないものに対する、純粋な恐怖の視線だ。
銀甲冑の帝国騎士たちが、まるで呪われた存在から距離を取るかのように、道を開けていく。
その視線は、使節団の責任者である自分ではなく、ただ一人、自分の隣を歩く小僧――田中樹に集中していた。
「だからよー、俺のステーキはどうなってんだよ! 約束がちげーじゃねーか! 呪いの石っころが壊れたのは、俺のせいじゃねえだろ! 弁償しろよな、皇帝のジジイ!」
当の勇者殿は、外交の大勝利など全く意に介さず、ただひたすらに、床に落ちて無残な姿となった己のステーキのことだけを、涙ながらに訴え続けていた。
そのあまりにも場違いな言動が、帝国騎士たちの恐怖をさらに煽っていることにも、もちろん気づいていない。
(……これが、勝利、なのか……? アレクシオス様は、この光景すらも、予期しておられたと……いうのか……?)
バルカスの脳裏に、王都を発つ前の、若き国王の言葉が蘇る。
『奴らの常識を、こちらから叩き割ってやる』。その言葉の意味を、バルカスは今、骨の髄まで理解させられていた。
常識も、計略も、武力さえも、この小僧が持つ純粋な「理不尽さ」の前では、何の意味も持たないのかもしれない。
それは、もはや戦略や戦術といった次元の話ではなかった。
宮殿の出口では、あの慇懃無礼な帝国文官が、顔面蒼白になりながら一行を待っていた。
その態度は、以前とは打って変わって、恐ろしく丁寧で、腰が低い。
「ゆ、勇者様、ならびに使節団の皆様、まことにお疲れ様でございました……! 陛下より、皆様の『ご功績』を称え、ささやかながら『餞別』をお贈りするよう、厳命が……。ど、どうぞ、お納めください……!」
文官が震える手で差し出してきたのは、ずしりと重い、金貨が詰まった革袋と、ロムグールでは見たこともないような、希少な魔鉱石や絹織物が満載された目録だった。
それは、「餞別」というよりも、厄介払いのための「手切れ金」か、あるいは得体の知れない存在に対する「お供え物」に近いものだった。
「おお! やっと話が分かるやつが出てきたな!」
樹は、金貨の袋を見るなり、ぱっと顔を輝かせ、それをひったくるように受け取った。
「これでステーキが何枚食えるかなー! よし、許す!」
その言葉に、文官は心底安堵したような表情を浮かべ、一行を丁重に、しかし一刻も早く帝都から追い出したいという気配を隠そうともせず、城門まで見送ったのだった。
◇
その頃、ロムグール王国の国王執務室では、アレクシオスが、リリアナ、フィン、そして王都の守りを固めるライアスと共に、帝国にいる使節団からの連絡を、固唾をのんで待っていた。
(……頼むぞ、バルカス。そして、樹……。お前は、頼むから、何もしないでくれ……)
俺の胃は、もはや祈ることしかできない。
その時だった。執務室に設置された魔法伝書用の水晶が、淡い光を発し、帝国からの通信が入ったことを告げた。
水晶に映し出されたのは、バルカスの、ひどく疲労困憊し、そしてどこか魂が抜けたような顔だった。
『……陛下。ご報告、申し上げます』
「バルカス! 無事だったか! 状況はどうだ!?」
『はっ……。その……ミッションは……成功、いたしました。帝国側は、全ての要求を撤回。そして、『対魔王大陸戦略会議』への、正式な代表団の派遣を約束。……これが、皇帝陛下直筆の、その旨を記した親書でございます』
バルカスが、震える手で羊皮紙を水晶にかざす。
そこに記された皇帝の署名と印は、本物だった。
「……本当か! やったぞ、バルカス!」
俺が思わず叫ぶと、リリアナとライアスも、安堵と喜びに満ちた表情を浮かべた。
だが、フィンだけは、腕を組み、訝しげな表情で水晶の向こうのバルカスを見つめている。
「……おい、ジイさん。どうにも歯切れが悪いじゃねえか。一体、何があった? あの役立たず、まさかとは思うが、本当に何かやったのか?」
フィンの鋭い指摘に、バルカスは遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
『……詳細は、あまりにも……信じがたいこと故、一言では……。ただ、申し上げられるのは……皇帝陛下が提示した『呪いの宝玉』が……勇者殿によって、破壊されました』
「なんだと!? あの小僧が、呪いを解いたとでも言うのか!?」
フィンの声が、驚きに上ずる。
『……いえ、解いた、というよりは……。その……勇者殿は……宝玉を……』
バルカスは、言葉に詰まり、そして、まるでこの世の真理を語るかのように、静かに、そして重々しく告げた。
『―――勇者殿は、宝玉を、ステーキを温めるための鉄板代わりに使われ……そして、宝玉は断末魔と共に砕け散りました』
「「「………………は?」」」
執務室は、先刻の帝国の謁見の間と、全く同じ静寂に包まれた。
リリアナは、手に持っていた羽根ペンを床に落とし、ライアスは、その鉄仮面のような表情をわずかに崩して、呆然と水晶を見つめている。
フィンは、それまでの自信に満ちた皮肉な表情が消え、頭を抱えてしゃがみ込み、何かをぶつぶつと呟き始めた。
「……ありえない。計算が合わない。変数に『ステーキ』を? 呪いの構造式に『食欲』という因子を代入すると……? だめだ、論理が……俺の数式が、崩壊する……!」
俺は、ただ、天を仰いだ。
そして、込み上げてくる笑いを、必死にこらえた。
(……そうか。そう来たか、田中樹……! お前のその、常識も、物理法則も、そしておそらくは因果律すらも超越した『食欲』こそが、本当のユニークスキルだったというのか……!)
この狂気的な大勝利の報せは、俺の胃痛を、一時的に、本当に一時的にではあるが、忘れさせてくれた。
帝都からの帰路は、行きとは全く異なるものだった。
帝国の護衛騎士たちは、もはや監視ではなく、まるで神の使いを送迎するかのように、恭しく、そして怯えたように距離を置いている。
立ち寄る町や村では、民衆が「聖勇者様だ!」「我らの土地の呪いを解いた、生ける奇跡のお方だ!」と、熱狂的に一行を歓迎した。
「おう! 俺のファンが、また増えちまったな! よしよし、お前らにも、今度俺がとっておきのステーキを焼いてやるからな! 楽しみに待ってろよ!」
樹は、帝都で手に入れた金貨で買った大量のお菓子を頬張りながら、馬車の中から、沿道の民衆に偉そうに手を振っていた。
その姿は、ある意味、王族よりも、ずっと王族らしかったかもしれない。
◇
数週間後。ロムグール王国の王都カドアテメに、使節団は凱旋した。
その報せは、既に王都中に広まっており、城門から王城へと続く道は、史上最大の人波で埋め尽くされていた。
「勇者様、万歳!」「ロムグール王国、万歳!」「アレクシオス国王陛下、万歳!」
地鳴りのような歓声が、王都を揺るがす。
馬車から降り立った樹は、その光景に満足げに頷き、スーパースター気取りで民衆に手を振った。
「おう、お前ら! 帰ってきたぜ! この最強勇者イトゥキ様が、帝国の奴らをギャフンと言わせてやったからな! もっと俺を崇め称えよ!」
俺は、その光景を城のバルコニーから見下ろしながら、隣に立つリリアナに、静かに告げた。
「……リリアナ。『対魔王大陸戦略会議』の開催を、正式に大陸全土に布告せよ。開催地は、我がロムグール王国の王都、カドアテメだ。帝国も、もはや文句は言うまい」
「はっ! かしこまりました、陛下!」
リリアナの声も、興奮と喜びに打ち震えていた。
帝国の鼻を明かし、大陸会議の主導権を握る。この上ない結果だ。
だが、俺の心は、不思議なほどに静かだった。
バルコニーから見下ろす、熱狂する民衆と、その中心でふんぞり返る、一人の役立たずな勇者。
(……こいつを、これからどう扱っていけばいいんだ……?)
俺の胃は、次なる、そしてより巨大な戦いの始まりを予感して、再び、静かに、しかし確かな痛みを主張し始めていた。




