第百八十四話:王の帰る場所
魔王との決戦、そして世界の理が書き換えられた、あの創世の光から数年の歳月が流れた。
玉座の間で世界の理を書き換えるという、およそ人の身では経験し得ない奇跡の行使から生還した俺、アレクシオス・フォン・ロムグールは、今、別の意味での死線と対峙していた。
「―――王様。あんた、また隈がひどくなってるぜ。これ以上根を詰めると、過労死する確率が12.7%上昇する。俺の計算じゃ、あんたの最適睡眠時間は最低でも6時間。これを下回ると、翌日の判断能力に著しい低下が見られる。非効率、極まりないな」
深夜の国王執務室。俺の目の前で、宰相代行のフィンが、積み上げられた羊皮紙の山を片目に、いつものように忌々しげな口調で報告を締めくくった。その痩せた頬は、以前よりもさらにこけているように見えるが、その瞳だけは、国家の未来をその両肩に背負う覚悟を決めた、為政者の力強い光を宿していた。
「……お前にだけは言われたくないな、フィン。その言葉、鏡を見て言ってみろ」
俺は、キリキリと痛む胃をさすりながら、皮肉で返す。こいつこそ、この一年、ほとんど寝ていないのではないだろうか。戦後の大陸は、問題が山積みだった。解放された亜人たちとの共存政策、崩壊した帝国の復興支援、そして、未だ大陸各地に残る「静寂の使徒」の残党狩り。その全てを、俺とフィン、そしてリリアナたちで、まさに馬車馬のように働いて捌いてきたのだ。
だが、その甲斐はあった。
窓の外に広がる王都カドアテメの夜景は、以前とは比較にならないほど、明るく、そして穏やかだ。民の暮らしは安定し、ロムグール王国は、今や大陸の新たな中心として、確かな一歩を踏み出している。この痛みは、もはや孤独な社畜時代の、虚しい悲鳴ではない。国と仲間を背負う、王としての勲章のようなものだった。
「陛下、失礼いたします。ロザリアが、北の亜人の村より、ただいま帰還いたしました」
扉の外から、侍従の控えめな声が響く。俺が許可を出すと、亜麻色の髪を三つ編みにした、そばかすの可愛い村娘――いや、今や大陸中の民から「恵みの大地の癒し手」と敬愛される、ロムグール王国の農業・医療政策顧問、ロザリアが、少しだけ日焼けした顔で入室してきた。その手には、泥のついたカゴが抱えられている。
「おかえり、ロザリア。向こうの様子はどうだった?」
「はい、陛下! フィン様も、お疲れ様です」彼女は、深々と一礼すると、カゴの中から、見たこともない、赤紫色をした不思議な形の芋を、誇らしげに取り出した。「オークの皆さんが、自分たちの土地で初めて収穫した『太陽の実』の新品種です。『これを、我らの感謝の印として、王に献上してほしい』と」
その芋は、不格好だが、ずしりと重く、生命力に満ち溢れていた。
「彼らの村では、わたくしがお教えした農法と、彼らが元々持っていた知恵を合わせて、水路の整備も進んでいます。もう、飢える心配はありません。子供たちの顔にも、笑顔が戻ってきました」
ロザリアの報告に、俺の胸に温かいものが込み上げてくる。千年の長きに渡り、奴隷として虐げられてきた彼らが、自らの手で、未来を築き始めている。それこそが、俺たちが、あの地獄のような戦いの果てに、手に入れたかったものの一つだ。
「そうか。それは、何よりだ。フィン、この芋は、来季の新たな交易品として検討できるかもしれん。分析を頼む」
「へっ、また仕事が増えた。まあ、美味そうではあるな」
フィンは、ぶっきらぼうに言いながらも、その芋を興味深そうに眺めている。
そんな、穏やかな空気が流れる執務室に、静かな足音が近づいてきた。
「陛下、夜分に失礼いたします。……あら、ロザリアさん、お帰りなさい」
現れたのは、リリアナだった。彼女は、俺とフィンが机に向かい、ロザリアがカゴの中の作物を誇らしげに見せている、その光景を認めると、ふわりと、聖女のように微笑んだ。
「皆様、お疲れ様です。ですが、陛下。もう、お休みになられる時間ですわ。それ以上は、お身体に障ります」
彼女は、そう言うと、俺の机の上に、湯気の立つハーブティーを、そっと置いた。その優しい香りが、疲れた神経を解きほぐしてくれる。
この一年、彼女は、公私にわたる最高のパートナーとして、常に、こうして俺の傍らで、その身を案じ続けてくれた。彼女がいなければ、俺の心は、とっくの昔に折れていたかもしれない。
「ああ、ありがとう、リリアナ。この報告書を片付けたら、すぐに……」
俺がそう言いかけた、まさにその時だった。
執務室の扉が、今度はノックもそこそこに、しかし以前のような乱暴さではなく、どこか遠慮がちに開かれた。そこに立っていたのは、これから始まるであろうバルカスとの夜間訓練を前に、最後の悪あがきをしに来たのであろう、田中樹だった。
「……よう、王様。まだ仕事かよ」
その声には、いつものような軽薄さはない。ただ、純粋な労いと、ほんの少しの、気まずさが混じっているようだった。俺だけでなく、リリアナたちも、その変化に少し驚いた表情を浮かべている。
「樹君か。どうした、こんな時間に。また腹でも減ったのか?」
俺がいつもの調子で返すと、彼は一瞬むっとした顔をしたが、すぐに何かを思い直したように、真剣な、彼にしては驚くほど真剣な顔つきで、俺の前に進み出た。
「いや……そうじゃなくて……。その、なんだ……」
彼は、言いにくそうに頭を掻きながら、もごもごと口ごもる。その手には、いつものように干し肉ではなく、数枚の、彼が描いたのであろう、拙いが、しかし妙に味のある絵が描かれた羊皮紙が握られていた。
おずおずと、彼はその羊皮紙の束を、俺の執務机の、書類が積まれていない僅かなスペースに広げた。
そこには、木炭で描かれたのであろう、数コマの連続した絵があった。
デフォルメされた俺やバルカス、そして「魔王」モルガドールが、どこかコミカルに、しかし、その特徴を的確に捉えて描かれている。吹き出しの中には、子供でも読めるような、簡単な文字が書き込まれていた。
「なあ、王様。俺、昔、漫画家になりたかったんだ。この国のガキども、字も読めねえ奴が多いんだろ? 俺が、この国の歴史とか、難しい法律とかを、漫画にしてやろうか?」
樹の、そのあまりにも聞き慣れない単語に、執務室は一瞬、静まり返った。
「……マンガ……?」リリアナが、小首を傾げた。「イトゥキ様、それは、どのような魔術ですの?」
「新しい税の徴収方法か何かか?」フィンが、訝しげに眉をひそめる。
その、あまりにも真剣な問いかけに、俺は思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。そうだ、この世界の人間が「漫画」など知るはずもなかった。
「いや、違う」俺は、咳払いを一つして、彼らに説明する。「漫画……というのは、俺達がいた世界の言葉で、絵物語の一種だ。見ての通り、絵と、簡単な言葉で、物語を伝える手法だよ」
俺の言葉に、リリアナは「まあ!」と目を輝かせ、樹が広げた羊皮紙を改めて覗き込んだ。
「素晴らしいアイデアですわ! イトゥキ様、なんて素晴らしい才能でしょう! これならば、文字の読めない子供たちにも、この国の歴史や、陛下がどれほど偉大な方であるかが、楽しく、そして分かりやすく伝わります! さっそく、王立学術院に専門の部署を立ち上げ、印刷ギルドと連携して、大陸中にこの『絵物語』を普及させる計画を立てましょう!」
「……まあ、プロパガンダとしては有効かもしれねえな」
フィンが、腕を組み、いつもの皮肉な口調で分析を始める。「民衆の識字率向上と、王家への忠誠心の醸成を同時に行える。低コストで、効果は高い。……おい、勇者。その絵、何日で何枚描ける? 量産体制と、クオリティの維持が可能なら、国家予算を一部、割いてやってもいい」
樹はもはや、ただ与えられるだけの存在ではない。彼自身の、彼にしかできない力で、この国に貢献しようとしていた。その事実が、俺の胸に、じわりと温かいものを込み上げさせた。胃の痛みとは違う、確かな、温もりだった。
俺は、込み上げてくる笑いを、もう抑えることができなかった。
「……分かった、樹君。その提案、採用しよう。君を、ロムグール王国初代『王立絵物語作家』に任命する」
俺がそう言うと、樹は、これまで見せたことのないような、少し照れくさそうな、しかし、心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ただし」と俺は続けた。「その素晴らしい仕事への報酬は、特上のステーキだ。だが、それを得るためには、毎日のバルカスとの訓練ノルマを、文句一つ言わずに達成してからだな」
「マジかよ! よっしゃあ!」
樹は、いつもの調子で、しかし、その声には確かな目的意識を宿して、執務室を飛び出していく。その背中は、もはや、ただの役立たずな少年のものではなかった。
俺は、その背中を見送りながら、静かに、そして、確かに、この世界で生きていく覚悟を、改めて固めるのだった。この、どうしようもなく騒がしくて、温かい仲間たちと共に。
俺の帰る場所は、もう、ここ以外にはないのだから。
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